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51 呪いの先に

 コツコトと、ヒールの音が静かな空間に響く。時々聞こえる誰かの咳払いや、そっと捲るページの音以外、ほとんど言葉を発しない不思議な空間。以前は勉強するために入り浸っていたこともあるが、久ぶりに来たここで、新藤は息をするのも忘れるくらい集中していた。


「すみません、ちょっといいですか」


 うず高く積んだ本を前に、年配の女性が迷惑そうな視線を投げる。慌てて、テーブルに広げていた本を閉じて、場所を譲る。一冊一冊が分厚くて大きい書物ばかりで、新藤は天井を見上げると息を吐いた。いいタイミングだ。すべての本を片すと、リュックを背負う。新藤に声を掛けた女性が、今度は肩身が狭そうな視線を投げてくる。欠伸をひとつしてから、腕を回す。時計を見ると、休憩もせず数時間ずっと文字を追っていたようだ。


 図書館を出ると、併設するカフェに入った。週末になると席を探すだけで苦労するここも、平日の昼間ともなれば客はほとんどいない。レジでアイスカフェオレとアボカドサーモンのベーグルを注文して、ソファに腰かける。無意識に薬指に触れて、この間会った幽霊を思い出す。


 新藤のはめていた指輪を見て、明らかに目の色を変えて襲ってきていた。黒く焼け焦げた跡のようになった指は、かろうじて怪我もしていなかった。一体、あの指輪にどんな怨念が宿っているのかと、あれから暇を見つけては探す日々だが、思うように作業ははかどっていなかった。そして、あの指輪は今も事務所の机に仕舞ったままだ。


 考えるほどに、点と点が結びついていく気がした。ずっと机の中にあった指輪をつけるようになってから、新藤の周りでより活発に霊が動き出していないだろうか。それに、死んだと思っていた理沙の父親、藤本が訪ねて来た謎も、もしかしたら指輪に関係しているのかもしれない。それならば、藤本と一緒にトレジャーハンターをしていた善や近藤教授、叔父でさえ、自分を狙ってくる可能性があると思えた。それならば、一刻も早く指輪の謎を解く必要がある。


「お待たせいたしました」


 背後から掛けられた声に、びっくりして振り返ると、同じく新藤の反応に怯えた顔をしていた。店員がトレーを手に立っている。


「すみません、ありがとうございます」


 いつ、どんな幽霊に襲い掛かられるのではないかと、指輪を外していてもそわそわと落ち着かない日が増えている。幽霊だったら、挨拶などしないと分かっていても、体が敏感に反応してしまう。


「限界だよ、理沙……。もう、俺一人じゃ無理だよ」


 ベーグルを口いっぱいに押し込めながら、新藤は必死でこぼれそうな涙を我慢した。


 腹を満たせば、幾分精神も安定する。ただ、図書館や本屋を回る気にはなれず、そのまま事務所に帰ってきた。指輪ひとつ調べるにしても、限界がある。だが、あれはただの指輪ではない。トレジャーハンターが奪い合うようなものだ。そこに、どんな意味があるのだ。それまでの心労もあるのだろう。ぼうっと歩いていたら、事務所の下の通りに置かれている看板を足蹴にしてしまった。危うく転びそうになってから、置いてある看板に怒りが湧く。


「こんなところに置くなよ」


 見れば、チョークアートで可愛く装飾された看板から、雑貨屋だと分かる。テナントの一階に、ほとんど閉まっている店があったが、そこだ。店を開けている日には、南国風の趣味の悪いカーテンでガラス戸が覆われているため、今まで入ろうとしたことさえなかった。そこが、今は風通しのためか開いている。


「あら、ごめんなさいね」


 顔を出したのは、分厚いサングラスをして、頭にターバンを巻いている女だ。ふくよかな体を揺らして半身を出すと、看板を元の位置に直す。


「そこ、結構邪魔っすよ」


 謝っていると思えない態度に、思わず口撃する。女性は新藤の言葉に、むしろ嬉しそうに手を叩いて笑う。


「正直者! でも、素敵だわ。私、いつも海外で輸入雑貨を探しているから、日本人の男なんて久しぶり。少し中を見ていきなさいよ。足も痛いでしょう?」


「え? いや、俺の事務所、二階なんで大丈夫っす」


 新藤の答えに、さらに夫人の声が高くなる。


「あら! ご近所さんなら猶更。お茶でも出すわよ。入って、ほら」


 余計なことを言ってしまったことを後悔しながら、新藤は店の中に引きずり込まれる。店内は薄暗く、お香の匂いが妙に強く咽そうになる。床のあちこちにランプが光っていて、一見、田舎の寂れたラブホテルのような陳腐な様相だと笑いたくなる。これをわざわざ海外で買い付けているのかと思うと、テナントとして追い出されないことが不思議である。この女性も、大吉の弱みでも握っているのかと訝しんだ。店内の奥には二席のお茶スペースがあり、その一脚に押されるようにして腰かける。どんなお茶が出てくるのかと想像するだけで恐ろしく、どうにか店から出ようと算段する。


 が、入口は一か所のみ。気づかれずに帰ることは無理だろう。新藤は、店に興味がある風に店内をうろついた。このまま入口に近づいて、店を出ようと思ったのだ。そうしなければ、あの勢いに勝てる自信がない。


 奥からは、やかんで湯を沸かす音と、話し声が漏れてくる。隙を見て走ろうと様子を窺っていた新藤の動きが止まった。薄暗がりの中で見える本棚に並べられた一冊の中に、トレジャーの英文字が並んでいる。ここしばらく、財宝を探せるようなヒントになる本を端から読み漁ってきた。『世界の財宝』、『財宝のミステリー、核心に迫る』、『絶対に入ってはいけない秘境』、『ヒトラーの宝』、『失われた財宝の真実を追え』など。挙げたらキリがないほどの中身は、ほとんどが推定によるものだった。だが、このような言葉に敏感になっていることは、間違いない。迷うことなく手を伸ばし、広げてみる。すると、思ったより軽いそれは中身まで英語で書かれているようだ。


「あら、それが気になるの? それなら、座ってすわって。今、マリンちゃん呼ぶね」


 マリンちゃん? また不思議な世界に迷い込んでしまったと後悔が再燃する。


 連れられてきたのは、同じように分厚いサングラスをした女性だ。ショートカットのボーイッシュな風貌によく似合うショートパンツを履いていて、目のやり場に困ってしまう。薄暗いこともあってか、年齢がよく分からない。二人きりになっては危険だと、無駄に脳内で警報が鳴る、


「マリンちゃん、この方が本に興味あるらしいの。あなたが仕入れたんでしょう」


「あぁ、それね。何が気になるの」


 不愛想に答える女性と同時に、外からまた看板が倒れる音がする。


「あぁ! また倒された! やっぱりマリンちゃん、あの場所は目立つけどダメよ。今はみんなスマホ見て歩くから、下を見ていないでしょう? あぁ、壊されちゃう。避けてくるわよ!」


 マリンに告げると、女性は慌てて飛び出していく。最も望んでいない二人きりの状況にされ、新藤が思わず身を引きながら言う。


「いや、まだ中身までは見ていないので分からないんですが……、昔の財宝みたいのに興味があって」


「なにそれ。具体的に言いなよ」


 初対面にしては不愛想な対応にむっとするも、俺は客ではないと自分にも言い聞かせる。店員として対応した時は、もっとまともかもしれないではないか。


「実は、親戚が昔手に入れた指輪を持っているんです。冗談のように聞こえるかもしれないんですけど、実はその指輪に魔力みたいなものがあるらしくて」


「……魔力?」


 店の空気が変わったのを感じて、新藤も慌てる。馬鹿にしていると思われたのだろう。


「違うんです! 別に財宝とかをファンタジー化してふざいけているわけではなくて。もし、そういうのがあるなら教えて欲しいかな、と」


「それ、あなたが持っているの? 私が見て鑑定もできると思うけど」


「本当ですか! ただ、俺は指輪の価値を知りたいわけじゃなくて、それが何を意味しているか興味があるんです」


 自分で話していて、支離滅裂だと分かっている。だが、ここにあの指輪を持ってくることは憚られた。それは、自分の懐に忍ばせることも、第三者の目に触れさせることも。


「ジェームスの指輪のことかしら」


 女は新藤の言葉には興味がないようだったが、本のページを数枚めくる。テーブルの上に開かれたそこに、確かに指輪の絵とジェームスの名前は確認できた。だがなにせ部屋が暗い上に、英語で訳が分からない。


「この本、お借りすることってできますか?」


 買う、と言わない自分にも驚いたが、女は再び興味がなさそうに手で追い払うような仕草をした。持っていけ、という意味だろう。お香の香りも限界だ。本を抱えて店から出た新藤は、店先でサラリーマンと言い合いをしている女性と鉢合わせした。


「あら! もういいの?」


 平凡な声とは裏腹に、サラリーマンが脇で怒っている。どうやら看板に転んだことでスーツが少し破れてしまったようだ。関わらない様にしようと目線をあげた先に、新藤は見知った顔を見つけた。思わず、なりふり構わず叫ぶ。


「藤本さんっ!」


 そう、それはアルバムの中でもう何度も目に焼き付けた理沙の父親にそっくりだった。通りへ歩き去ろうとした背中が一度大きく震えたのが分かると、そのまま振り返ることなく走り出す。「ちょっ……」、予想外の動きに驚いた新藤が慌てて走り出す。しかし、脇道に入ってしまった藤本の背中を、新藤はすぐに見失ってしまった。自分に会いに来たのではないか、と考えたところで胸が冷えていく。事務所には今、誰もいないはずだ。そして、そこにあるのは一つしかない。


「くそっ!」


 新藤は慌てて階段を駆け上がり、事務所の扉を開く。思った通りだった。ベルは大吉と散歩に出ているのだろう。凜は大学の後にバイトのはずだ。探偵事務所の中は、机の中や本棚が漁られたように荒れている。迷わず机に駆け寄って確認し、新藤は悔しさで机の脚を蹴飛ばして呻く。指輪のケースが、そこから綺麗に消え去っているのだった。


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