このところ、太陽の光を見ていない。事務所の隅に置かれた毛布の上で丸くなっていると、とりあえず新藤もそっとしておいてくれる。ベルが時々来ては側に寄り添ってくれるが、一緒に遊ぼうと誘われることもなくなった。新藤が言ってくれているようだが、文太にとってはありがたかった。今は空中で毛玉を吐く気力も、凜や新藤に悪態をつく言葉も湧かなかった。
一度扉が開かれた記憶は、湯水のように溢れて来た。どうして今まで、忘れていることができたのだろう。あの変な霊が教えてくれたことをきっかけに、文太は元の飼い主である新名との思い出も、死んだ後に新名に会いたくて成仏できなかったまだ力の弱いときも、その時に出会った男の子のことも思い出していた。そして、男の子との約束を守れなかったことも……。
「文太、大丈夫か。寒くないか?」
新藤が出かけるようだ。幽霊だからそんなことは関係ないのに、事務所の温度を気にしてくれる。ベルが新藤の足にまとわりつく様に歩き回り、エアコンのリモコンをくわえて逃げる。
「あ、おい。ベル! お前はいいんだよ。こら、リモコンを返せ!」
二人の追いかけっこが頭に響く。頭を隠すようにして体を丸める。いつの間にか瞼が重くなっていく。そうして、再び思い出の世界が文太を支配する。
あの頃、文太は新名を探してさ迷っていた。自分がすでに病気で死んだことも気づかないで、ただ、微かに見える視界をただ浮遊していたといってもいいだろう。目を閉じてしまったら、もう二度と光は見えない気がして、必死に前に進んでいたのを覚えている。もしかしたら新名がいるかもしれないと舞い込んだのは、多くの車や人が吸い込まれていく建物だった。中では、人々の会話する声や呼び込みが盛んで、その熱気で幾分エネルギーが湧いてくるのを感じた。
「誰かを探しているの?」
しばらくウロウロとしていると、綺麗な女の人が声を掛けてきた。
「……にいな」
それだけいうのが精いっぱいだった。女の人は、どこまで理解してくれたのかは分からなかったけど、文太のことをそっと包むように抱きしめた。そして言う。
「そっか。一緒に見つけに行こう」
浮遊し疲れていて、視界も狭くなってきていた。誰かが手を引いてくれるなら有難い。そう思って、身を任せてみる。女は、文太の一部を捕まえて、鼻歌を歌っている。文太の気持ちもほわりと温かくなるような安心感で包まれた時だった。
「おい、その子をどうするつもりなの」
閉じかけていた目を開けると、すぐそばに小さい男の子が立っている。また、新たに声を掛けてきたなんて、物好きがいるものだ。身を任せるまま、文太はぼうっと佇んでいた。女の霊が答える。
「関係ないでしょ。一緒に遊びに行くのよ」
新名を探しているんだ……、心の中で小さく呟くも、もう声にならなかった。
「うーん、小さい霊を二つあげるから、その子は僕にちょうだい」
「可愛い子ぶってもダメ。あなた、まだ小さいから、たくさん機会はあるわ」
「分からないかな? お前みたいな汚い霊に、その子はもったいないって言っているんだけど」
ぼんやりと見ると、男の子が右手を前に突き出した。女の霊が体を引くのが分かったのと、文太の体がふわっと持ち上げられたのが同時だった。振り返ると、女の霊が数メートル後方に吹き飛んでいる。
「君、あの時の子だよね。死んじゃったんだ。飼い主に会いたいのは分かるけど、怨念を持っていいことなんてないよ。ちゃんと成仏しないと」
男の子は、文太から見ても人間の幼児だった。でも、聞こえてくる言葉は、新名のパパやママが話しているような調子だ。違和感がありながらも反論する元気などなく、小さく頷いた。分かっているんだ、でも、最後に会いたいんだ。そう伝えようとすると、男の子は分かっている、とでもいうように文太の頭を撫でた。
「とにかく、あの人がしつこそうだから逃げようか」
男の胸の中で、どこかへ走っているのを感じる。階段を下りて、外の匂いがした時だった。
「あれ? お前、迷子じゃないか。こんなところに勝手に入ったら危ないぞー」
階段の最後に、警備員の服装をした男が煙草を吸いながら座っている。
「おい、ガキが無視するなよ」
そのまま通り過ぎようとした男の子に、警備員が足を引っかけようとした。ジャンプして最後の段を下りた男の子が、警備員に右手を挙げる。
「な、なんだよ。あれ、今一瞬だけ猫がいたように見えたんだけど……お前?」
「あぁ、悪いね。ちょっと力が波及しちゃったみたい。おじさん、余計なことに首を突っ込まないで、早くここからどいたほうが」
男の子がそこまで言った瞬間、上階の扉が開いた音がする。
「ハルー!」
そして、幾人もの重なり合う呼び声。妙な熱風が辺りに吹き、警備員の男が動揺する。
「な、なんだ。なにが起こって」
男の声は、そこまでだった。上階から現れたのは大量の霊の群れだった。男の子は舌打ちをすると、小さく身をかがめた。瞬間、目の前の駐車場から軽自動車が一台、物凄い速さで吹っ飛んできた。すり抜けてから振り返ると、非常階段の入口が車でふさがれている。
「もう少し、側にいてあげたいけど、ちょっと面倒なことになりそうなんだ。君は、もう行った方がいいよ。後から追いかけてくる奴らを撒くのに集中したいし」
そういうと、男の子は文太を空中に離す。途端に心細くなり、文太は男の子の元に戻ろうとしたが、手で止められる。
「ダメだよ。ちゃんと行くんだ。僕が成仏させてあげてもいいんだけど、そうなると次の世界に生まれた時、苦労するかもしれないから。自分で、前に進むんだ」
男の子が、まっすぐに文太を見て言う。可愛らしい瞳で、幼い服装。どこかアンバランスな印象で、まるで大人のようだ。文太は小さく頷き、また浮遊し始めた。背後では、小さな爆発音のようなものが聞こえたが、一度も振り返らなかった。
目を開けると、自分の体をベルが包み込んでいた。温かくて、眠くはないが再び目を閉じる。後悔で、自然と体が縮こまる。
文太は、すべてを思い出していた。自分が死んだあと、浮遊霊になって新名を探していたことも。偶然出会った男の子に、霊になってからも助けられたことも。さらには、言われたとおりに成仏せず、結局悪霊となって新藤に救われたことも……。
だが、ふと気づいたこともあった。どうして自分はまだこの世にいるのかと考えても、理由が分からなかった。会いたかった新名はいないと知っている。凜のことは大好きだが、それは今の生活に慣れてからの話である
「もしかして、俺はあの男の子を助けたくて、成仏できないのか……?」
だが、その願いはもはや叶いそうもない。アルバムを見て、あの時の男の子は新藤の息子だと分かっている。だが、その子ももう死んだのだ。そして、この事実を知ったなら、新藤は自分のことを嫌いになるだろうかと不安になる。嫌われたくない……。その思いが強すぎて、涙が滲む。どうしたらいいのだろう。誰に、聞いてもらえばいいのだろう。
「わふ」
文太の気持ちを察知したように、ベルが文太の頭をべろりと舐める。今は、何も考えたくない。文太は一人、また体を縮めるしかないのだった。