空咳の出る回数は減ったけれど、あの夜から文太は身体の重だるさは消えなかった。それでも家の中にこもっていると気が滅入るし、事務所にいるとベルが絡んでくるので、文太は外へ散歩に行くことにした。ふわふわと飛ぶ力も入らず、地面から数センチのところを低空で移動する。それでも、人が行き交う通りにでると、彼らのエネルギーを感じて少し元気が出る気がした。だが、冷たい風のせいか少し頭が痛いのが気になった。
昨日、空咳で苦しい思いをしたあと、ふと眠りをついた時に見た夢を思い出す。このような姿になってから、元の飼い主である新名の夢を見たのは初めてだった。そして、今もそれを忘れずに、懐かしい気持ちさえある。新藤には、新名に執着して悪霊になりつつあったと聞いている。あの時の自分の行動をあまり覚えてはいないが、凜にも迷惑をかけた。今、新名のことを思い出すことに、文太は不安になっていた。
「俺、またおかしくなりつつあるのかな……」
それなら、迷惑をかける前に、探偵事務所を去ったほうがみんなのためになるのではにか、という考えが起こる。
「かわいいネコちゃん、わたしと一緒におうちに帰らない?」
声を掛けてきたのは、道路脇の花壇に座る若い女性だ。赤いワンピースに赤いヒールを履いている。おうち、がどこかなんて聞かない方がいいだろう。無視をして横断歩道を渡る。すると、ゴルフボールほどの黒い小さな塊が、ぴょんぴょんと跳ねながら自分に付いてきていることに気づく。やはり、低空で浮遊をしていても碌なことがない。文太は、力を振り絞って空中に飛び出した。
とはいえ、ずっと浮遊している力は続くはずもなく、ある程度移動した後、近くの大きな木の幹にひっかかるようにして着地した。一息つき、街並みを歩く人々を眺める。その時だった。
「おーい、おーい」
誰かを呼んでいる声に目をやると、道路に寝転がっている霊がいる。文太ははじめ無視したものの、何度も呼ばれてしつこいので軽く尻尾を振ってみた。男は、嬉しそうに今度は手を振った。
「うるせぇや、俺は具合が悪いんだ」
聞こえるか分からない声で叫んでみると、さらに興奮したように男は手を叩いて笑っている。気味が悪いのは、妙にテンションが高いところと言葉が通じてしまったことだ。
「なぁ、一緒にいい気分にならないか? 最近、酒を持ってくる男がいるんだよー」
あれは、酔っぱらっているということか。だが、近くに酒が置かれている様子はない。
「この間は最高だったよー。あれを思い出すだけで、飯3杯は食えるなぁ」
「……飯食ってねぇだろ」
言い返した文太の言葉に、さらに霊が嬉しそうに笑う。
「お、いいね! あれ? ちょっと君、こっち来てくれない?」
「俺、具合悪いんだわ」
もはや、大きな声を出して会話をするのも辛い。
「君、あの時の子じゃないか? あの、妙な子供と一緒にいただろう。俺、実は酒をくれた男を待っているんだよ。文句をいってやろうと思っているから」
話が見えずに、文太は無視をすることにした。勝手に話していればいい。自分には関係がない。ただ、気を引きたいがために話しかけてきているのだと言い聞かせて目を閉じる。
「あの男と話して……、俺、思い出したんだよ。ショッピングモールであいつの子供を見た時、……俺、それ最後の記憶なんだよ。つまり、俺が死んだのって、あそこのショッピングモールだと思うんだよ」
尻尾を舐めて、手足を舐める。男は、文太に構わるボルテージが上がっていく。
「そうなると、思いつくのは俺が最後に目撃したあのガキが鍵を握っていないか? それで、あのシーンを思い出した時に、そういえばあのガキの腕の中に、お前みたいな猫がいたのが見えたんだよな。そう、間違いない。その脇腹にあるハートのような模様、お前だろ。でも、おかしいんだよな。なんかあやふやというか、猫もいたような……そこもはっきりさせたいんだ」
文太は面倒に巻き込まれないように、いつここを飛ぼうか算段し始めた。だが、次の男の言葉で目を見張ることになった。
「あいつ、この間名刺を見せて言っていたな。……幽霊の事務所だなんだって。佐藤……、伊藤、いや、新藤だっけな」
「……新藤?」
文太の反応に、霊が我に返る。
「なに、知り合いだったりする? 幽霊の間で有名なの? というか、お前はいつから幽霊なの? 俺がモールで見えたっていうことは、お前はあの時生きていたってこと?」
「いや、……分からない」
文太にその記憶はない。だが、よく考えてみると昨日見た夢で、久しぶりに新名に会えた。でも、会えたのは新名だけではないのかもしれない。自分を建物の陰から救い出してくれた男の子がいたではないか。その顔を思い出そうとして、じっと一点を集中する。
ぼんやりと暗闇の中で男の子の顔が浮かんでくる。だが、それはモールではない。暗闇で抱きしめられて、飛び降りた先は柔らかい地面。目の前に見えるのは、雨上がりの虹。
「新藤が話していた公園の土管にいた猫って、まさかオレのこと……?」
そうなると、文太は新藤の息子と病院から逃げ出した時に一回、さらに公園でも一緒にいたことになる。そして、目の前の霊によるとショッピングモールで一緒にいたというのか。それは、果たして偶然なのか。
「おーい、無視するなよー」
急にまた喉元が苦しくなってくる。息を吐きだそうとして、苦しくてまた空気を吸い込む。さすがに、男が首を伸ばして様子を窺ってくる。
「おいおい、そんなところでもう一回死ぬなよー」
だが、近寄ってくる気配はない。むしろ、関わりたくないとでもいうように再び寝転がり、車に足を引かれては喜んでいる。少し気持ちを落ち着けると、どうにか空咳が止まったので、文太はとりあえず事務所に帰ることにした。言葉通り死に物狂いでたどり着くと、事務所にはベルがソファで寝そべっていた。どこか心細くなり、文太は泣きそうな気持を押さえて、ベルの胸元に潜り込んで温かみを感じるのだった。