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47 文太の使命

「ここだよね。その、霊の杉並っておじさんが言っていた場所。私もこの間、友達と服買いに来たよ」


 新藤の隣に立つ凜が、少しだけ楽しそうに言う。昨夜、凜の家に居候する文太の体調が悪く、二階の事務所に寝ている新藤のところに助けを求めてきた。もちろん、獣医に連れていくこともできないし、新藤に猫の知識もない。何をすることもできないけれど、確かにあの状態の文太を一人で見守るには心細かっただろう。


 脇にいる大吉には、文太のことさえ見えないのだから。それに、街中でうろつく猫しか見たことのない新藤にとって、確かに文太の空咳は気になった。なぜあんなに、霊が息苦しそうな咳をするのだろう、と。だが、眠りについた文太の様子を少し見るために、部屋にいることにしたため、新藤はこれまで調査を進めたことを凜に共有できた。もちろん、背後からの監視付きで、だ。お茶の一杯も出てこなかったけれど、普段の家賃フリーと二十歳近い孫との夜中の相談事、となれば当然ともいえる。


「そうか。大学生だもんな。悪いな、休みの日に」


「何を今さら。これは、調査なので仕事のうちです」


「今日、文太の様子はどうだった?」


「それが、咳はすっかり出なくなったみたい。朝は、普通に空中をくるくる回っていたけど。おじいちゃんが、本当に気になるみたいで常に頭の上を手で払っているの。そうすると、文太もからかって髪の毛を触ったりして。見えていないのに、二人で喧嘩しているみたい」


「そりゃ、お互いにとっていい刺激だな」


 話しながら、まだ開店したばかりのショッピングモールに入店する。多くの服飾店や大型のスーパーだけでなく、ペットショップや飲食店も入っているここは、三階までしかないものの敷地が広いので、ゆうに一日暇を潰せる娯楽施設となっている。まだ人通りは少ないが、二人は杉並の言っていた非常階段に向かう。


「お、アイスクリームが半額だぞ。食べるか」


 調査とはいえ、依頼ではない。さらに、凜はほとんどボランティアで付いてきてくれている手前、何かお礼をしたかったのは事実である。


「本当? 食べるー!」


 腕にでもしがみついてきそうな様子で喜ぶ姿は、もはや自分の妹や子どものように錯覚する。嬉しそうにトリプルを注文し、溶ける前にと一生懸命食べながら歩く凜の横で、新藤はパンフレットでモール内の非常階段の場所にペンで印をつけていく。


「全部で8か所あるな」


 もちろん、場所はかなり離れているので、歩き回ること必至だ。その印を覗き込みながら、凜は口の端に付いたチョコアイスを舌で舐めとる。


「よし、じゃぁ一番近くから行こうか」


 スニーカーを履いて準備は万端だ。周囲から見たら、二人はただの休日のカップルにしか見えないかもしれない。だが、気持ちの上では戦闘態勢万全だった。なぜなら、新藤は気づいていたのだ。なぜか、今日のモールには以前来た時よりも多く浮遊霊が存在しているようだと。


 印をつけた非常階段の半分以上を回り、凜はトリプルのアイスクリームをとっくに食べ終わり、新しくグレープフルーツジュースを飲み干した後のことだった。二階の本屋の奥にある非常階段のドアを開けると、扉の中では女の子の泣き声が響いていた。


「どうしたんだろ」


 姿は見えないので、上の階だろうか。新藤が階段を見上げたのと、凜が咄嗟に上の階段に足を向けたのがほぼ同時だった。気づけば、凜は階段を駆け上がり、上で泣いている女の子に声を掛けた。


「大丈夫? 迷子かな。お母さんは?」


 嫌な予感がしたのは、直後だった。女の子の泣き声は、新藤には妙に耳障りで、時々低く呻くような音が混じっている気がしたのだ。そして、それは案の定間違いではなかった。新藤が凜に追いつく前に、上部で短い悲鳴が上がる。慌てて階段を駆け上ると、凜の右腕を顔だけ女の子の残骸が残った黒い異物が飲み込もうとしている。新藤が駆け寄り、呪符を唱えて、素早く黒い影の全体に手を振り下ろす。


 一瞬、それは新藤を見てにやりと笑ったかに見えたが、すぐ半身が薄くなっていく。その隙に凜の腕を掴んで引き寄せる。三階の非常階段の扉を開けて、モールの中に飛び込んだ。凜の右腕が、薄く内出血しているようだ。


「大丈夫?」


 驚いたのか、凜の顔が青白くなっている。霊に掴まれた箇所を左手で撫でながら、小刻みに頷いた。


「ごめん、油断していたみたい。……あれ、もしかしてわざと?」


 つまり、凜たちを呼び寄せるために迷子の振りをしていたのか、ということだ。


「分からない。もしかしたら、あそこに来る人たちを狙って遊んでいる浮遊霊かもしれないからな」


「そうだよね。うん、私たちがここにいるのなんて、誰も知らないしね」


 言いながら、二人の中では妙に胸がざわつき始めていた。なぜなら、雑貨屋の少し先にあるところから、明らかにおかしい老人が近づいてきたのが見えたからだ。着物で下駄を履いている姿は、場所が違えば風流かもしれないが明らかにショッピングモールではありえない。さらに振り返ると、エスカレーターで上がってくる高校生は額から血を流している。そんな風に、場違いなものがまるで自分たちの場所を知っているかのように集まってきているのは、気のせいではないようだ。


「凜、なにかおかしい。一旦ここから逃げよう」


「でも、非常階段だと追い詰められる可能性があるから、建物内を抜けて一階から外へ出ようよ」


「そうだな。確認できる奴らが一、二、三、四……。早い方がいい。凜、お前は一番奥の階段から逃げろ。俺はエスカレーターで降りてあいつらを引き付ける」


「大丈夫だよ! 一緒にいたほうが」


「時間がない! 行け!」


 確かに二手に分かれることに不安はあったが、自分に注意を向けることができれば凜を逃がせるだろう。そして、凜が走り出したのと同時に、新藤も高校生が上ってくるエスカレーターの方に向かった。もしかしたら、偶然集まった可能性も無きにしも非ずだ。


 だが、期待ははずれ、新藤が素早く動いたのを察知した霊も、床を滑るような速さで追いかけてくる。高校生が伸ばした腕をすり抜けると、下りエスカレーターに飛び乗る。左側に並んでいる列の脇を静かに素早くすり抜ける。二階まで来て一度振り返ると、霊の数は倍に増えている。しかもその中でも生え抜きに速いのが、中学生くらいの坊主頭の男である。エスカレーターも一段飛ばしで駆け下りてくる姿は、百歩譲っていそうだが、霊だと思うと恐ろしい。血相を変えて飛んでくる霊を、新藤も本気で走って巻くことにする。一階までたどり着いて、とりあえず外に出ようと周囲を見回した時だった。走り出す瞬間、腰のあたりに衝撃が走る。次に、耳を劈くような泣き声。立っている新藤に走ってきた男の子がぶつかってひっくり返ったようだ。


「ごめん、大丈夫?」


 しゃがんで男の子に声をかけつつ、背後の霊を見る。触れそうなほど近くにいることに驚き、慌てて立ち上がる。男の子の母親らしき女が走ってくるのが見える。


「本当ごめんね、俺、行かないと」


 それだけ言い残して走るが、腰元に鈍い痛みが走る。と

りあえず外に走り出ると、目の前は広い駐車場になっている。腰の後に、手、足、首、と鈍い痛みが走り、体が重くなっていく。足をとめ、しゃがみこむ。そして、左手にナイフで刺されたような鋭い痛みが走った時だった。


 全身が一気に軽くなった気がして顔を上げると、凜が水

筒を持って立っている。自分に触れると濡れていることに気づく。一瞬、霊がきれいに離れたようだ。


「事務所の聖水、念のため水筒に入れてきていたの」


 それが転機となった。新藤の体にまとわりついていた霊は一丸となっていたので、呪符を唱えて腕をひと振り。そして、さらに同じことを数回繰り返すと、黒い影は完全に小さくなって消えた。


「……凜、助かったよ」


 新藤が深くため息をついて礼を言った時、凜の鋭い悲鳴が聞こえた。今度はなんだ、とその視線を追って、自分でも驚いた。まるで煤で汚れているように、自分の左手が真っ黒に汚れているのだ。


「なにそれ! どうしちゃったの。痛みは?」


「……全くない」


 新藤と凜は目を見合わせると、呆然とショッピングモールを見上げる。ここで、一体何が起こっていたのだ。だが、もうそこへ踏み込む気にはならなかった。



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