朝、目覚めた時からおかしかった。いや、目覚めるという表現が適切なのかは分からない。だが、気づいた時には部屋の電気がつき、凜の顔が側にあった。どうやら、自分が咽ているのだと気づいた時には、喉元がすぼまってしまったように息がしづらかった。
目の前で動揺している凜に、これは猫の咳だし、生前もあったことだから問題ないと伝えようとしたが、せり上がるものに口を開くが言葉でない。体を丸めて、息を吸うことだけに集中する。
「文ちゃん! どうしたの。なにそれ!」
慌てて背中をさすろうとする凜の手を逃れて、部屋の隅に行く。いつもなら、空中毛玉吐きと笑って、液体を放出するのだが、一向に何かが出てくる気配はない。それなのにどんどん息が吸えなくなるように苦しくなり、ただ、顎を突き出すようにして咳を繰り返す。
「なんだ、凜! 何を叫んでいるんだ」
近くで、大吉の声までする。大吉は見えないけれど、最近は何かがいることを前提に生活しているようだ。話しかけてくることもあるし、怯えているようでもある。文太はテーブルの上で遊んでいる中、トイレの棚から物が落ちてきた時はその『何か』のせいだと、見当違いの怒りを振りまいていた。だが、どうやら異変を察知したようだ。
「おじいちゃん、文太がっ! ……ううん、大丈夫だから。寝て。ちょっと私、下に行ってくる!」
どうしたら、放っておいてくれと伝えられるのだろう。だが、そんな余裕が微塵もない文太の背後に、想像通り現れたのは新藤である。文太の姿を見た途端、凜と同じように取り乱し始めた新藤につられて、やはり大吉までもが見えていないのに騒ぎ始める。
「なんだよ、俺の家で何が起きているんだよ! 寝たい、逃げたい。でも、家に俺以外の男がいるのに眠れない!」
数分経つと、しかし文太の息苦しさも大分減ってきた。同時に、目の前の集団も平静を取り戻しつつある。そんな三人を見て、幾分余裕が出て来たからか、文太の表情にも苦笑いが浮かぶ。
「あ、見て! ちょっと笑っていない? 文ちゃん、大丈夫!?」
もう、凜に背中を撫でられても反射的に体は逃げなかった。ただし妙にぐったりと重だるく、何かを話そうという気にはなれず、そっと目を閉じる。
「なんだ、いいんだな? 何かが終わったんだな?」
大吉のそんな不安そうな声を最後に、文太の意識は遠のいた。
「待って! そっちは危ないからダメだよ!」
遠くの方で、自分を呼ぶ声がする。それは聞こえていたけれど、恐怖が先に立って足が勝手に走り出していたに近い。背後から数人の呼ぶ声がいたけれど、足が止まらない。運よく目の前で開いた扉を抜けてしまうと、今度は広い世界に出た。目の前を左右に人が素早く歩いていく。ぶつからないようにすり抜けて、とりあえず闇雲に走ってみる。建物の陰にさっと身を隠して息を落ち着かせて初めて、一人ぼっちなことに気づく。
さっき乗せられていた台の上で、何かで塗られた部分がスースーする。いつも見られた先生だったけれど、これを塗られた時は次に痛くなることを知っている。新名が手を離し、人が入るのにドアが開いたタイミングですり抜けたのだ。「びょういん」という言葉を新名が発するとき、いつもあの男に会う。狭い部屋で、何人にも覗き込まれ、あの男が痛いことをする。それで鼻水が止まり、食欲が出たりすることもあるけれど、痛い思いをすることが多かったので好きではない。だが、さすがに今回は間違えたと、後悔し始めていた。
時々、家から抜け出しては公園や原っぱをうろつくことがある。だが、自分の縄張りと思える距離での移動だったし、もし迷ったとしても顔見知りの仲間が助けてくれただろう。だが、ここまで来るのには新名の家の車に乗ったし、キャリーケースの中では悪態をつくのに精いっぱいで道のりなんて見ていない。
「ママー」
室外機の陰に身を潜め、どうやって新名の元へ戻ろうかと考えていた時だった。前にうっかり道路に飛び出して、車に轢かれそうになったことがある。驚いて反射的に間違えて飛び出してしまうかもしれないと考えると、この裏道から出ていくことも躊躇われていた。
「あら、猫さん」
顔を上げると、そこに一人の男の子と母親が立っている。男の子はこちらを指さして、首を傾げている。
「随分と綺麗な子ね。どっかから逃げてきちゃったのかな。お名前は?」
名前は……、答えたくて口を開けると途端に小さく咳が出た。一度出ると、止まらない。
口を開けたまま、何度も喉元の何かを吐き出すように空咳を繰り返す。すると、男の子が心配した様子で駆け寄ってきた。ふわりと、ミカンのいい香りがする。咳をしているにも関わらず、腰の辺りを持ってぐっと抱き起そうとされた。右手の手首にある大きなほくろが目に入った一瞬、息苦しくなって体をねじった。と、偶然男の子の手に爪が当たってしまったが、子供がぐっと堪えたのが分かる。すぐに申し訳なくなり、手の甲を舐める。
「あらあら。大丈夫? あとで消毒しよう。猫さんのこと、ママが預かってもいい?」
まだ男の子の体は小さく、ずっと抱っこをできる体制ではないようだ。隣にいる女性に抱き上げられて、より息が楽になった。そして、その人は猫を抱くというのが得意だった。
「飼い主さんは、どこかな」
大人しく女性の胸に収まっていると、人通りの多い道をゆっくりと進んでいるようだった。そして、遠くから聞きなれた声がする。
「あれ、文ちゃん? すみません、その猫」
女性の胸にうずめていた顔を出すと、目の前によく知った愛しい顔がある。嬉しくて、
「にゃあ」と一度鳴いてみるが、鼻声でうまく声が出た気がしない。もう一度、格好つけて鳴いてみるも、どうも成功した気がしない。そんなことをしているうちに、いつの間にか人間同士で解決したようだ。いつもの安心した腕に戻される。今後は、ごめんなさいの意味を込めて、「にゃあ」。
そこで、ふと男の子が母親の腕にまとわりついて、駄々をこねているようだ。
「ごめんなさい、この子、動物がすごく好きで。でも、本当はアレルギーもあってうちでは飼えないんです。最後に、一回だけ撫でさせてくれてもいい?」
「もちろんです」
新名が腰をかがめて、男の子の顔が近づく。精一杯の愛想を込めて、もう一度鳴いた。
何度も手を振りながら、母親に手を引かれて男の子が去っていくのを見送りながら、新名が声をとがらせた。
「病院からも脱走するなんて、恥ずかしいでしょ。あなた、おじいちゃんで風邪ひいているんだからね。薬もらって早く帰ろうね」
痛い思いをしないならな、と考えていると頭を軽く撫でられる。また一つ、寒空に空咳が出る。
「落ち着いたみたいだな。文太」
目が覚めると、部屋には新藤と凜がテーブルで向かい合って座っている。机の上には資料らしきものが広げてある。どうやら、仕事の話をしていたようだ。そして、驚くことに廊下の向こうにある部屋からは、暗がりの中、目を光らせている大吉が見えた。もしかして、心配してみんなが起きていたのだろうか。そう思うと、照れくさいと同時に、嬉しかった。
「俺、もう元気だし」
素直にありがとう、と言えないのは昔からだ。せっかく人間と言葉が通じるようになったのだから、言いたいことはストレートに伝えたいと思っているのに、それが強いほどに反対の言葉が口から出る。
「そりゃ良かった」
新藤が言い、同時に大吉が姿を現す。ワープでもしたかのような速さだ。
「ほれ、解決したんだろう? 何かが気づくまでと言ったはずだ。何時だと思っている。もう夜中の一時過ぎだぞ。凜と二人にできねぇから起きていたが、眠くて仕方ねぇんだ。年寄りを舐めるなよ」
「おじいちゃん! そんな言い方。私が無理やり連れてきたのに」
いつもは凜の前で殊勝にしている大吉も、夜中でうっかりと本性が出たようだ。余計に悔しかったのか、新藤の腕を掴んで玄関まで連れて行くようだ。
「ゆっくりやすめよー」
凜に頭を撫でながら目を細めていると、新藤の声がした。
「……ありがとな」
呟いた声を、いつか新藤にもちゃんと伝えるのだと心に決めた文太だった。