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45 文太の使命

 なじみの居酒屋を出ると、新藤は空に大きく浮かぶ満月を眺めた。吐く息が、少しずつ寒くなってきている。喉元の違和感を咳払いでごまかすと、事務所に帰ろうと歩き始めた。一人で探偵事務所をやっていると、同世代のライフイベントから目を逸らせるので楽だ。友達と飲みに行くことなどほとんどなくなり、今となっては一人で居酒屋にくるのが楽しみになってしまったが、不満もない。むしろ、ほんのり温かい体で夜風にあたると、すがすがしいほどの心地よさだった。


「おおうっ……おおう…っ」


 短く聞こえる低い声に思わず目をやって、後悔する。新藤の前の道路には、車が絶え間なく行き交っている。その歩道に近い場所に、一人の幽霊が寝転んでいるではないか。しかも、車に若干足が引かれる度に、短く呻いているのが気持ち悪い。どうしてこうも、街には幽霊が溢れているのだろうと、せっかくほっこり和らいでいた気分が急降下する。気を取り直して、歩き始めた新藤の背中に、当然のように幽霊が声をかけた。


「おい、気づいているんだろ。兄ちゃん」


 思ったよりもドスの聞いた声に、つい振り返ってしまう。幽霊はそこにいるのが不思議なくらい明るい風貌だった。もしかして事故にでもあったのだろうか。そう思わせるのは、男がガードマンの風貌をしているからだ。ここでも車整理をしようとしているのか、それとも車に恨みがあるのか。


「また、車来ますよ」


 新藤がそう告げるのと同時に、ライトを光らせた車が勢いよく目の前を通過する。そして、幽霊の漏らすうめき声。


「こんなところで、何をしているんですか。マジで」


 男は、寝たままの状態で胸ポケットを探ると、小さな紙を取り出した。どうやら、名刺をくれようとしているようだ。受け取ることは遠慮したものの、ちらりと覗き込むと、そこには業界では一流と有名な企業の名前と、名前が書かれている。


「杉並、と申します」


 男は、まるで酔っぱらっているかのようにテンションが高い。面倒くさいのに捕まった、と後悔しながらも形上は付き合うことにする。今まで、こうして出会った幽霊たちに背を向けようとしても、結局は何らかの形で出会うのだ。それなら、正面から向かっていくのも悪くない。今日は少し飲みすぎた新藤の、気分の良さがいつもと違う行動をさせているといってもよかった。


「幽霊探偵事務所をやっています。新藤と……あっ」


 ほとんど渡すことのない名刺を取り出そうとして、思わず小さな紙の切れ端が落ちた。風に飛ばされる前にと慌てて追いかける。それは、小さく切り抜いた晴人の写真だった。理沙が持っていたアルバムの中から選び、今では財布と名刺入れなど持ち歩けるものに挟み込んでいるのだ。もちろん、霊が受け取れるわけはないが、礼儀は大切である。


「ご丁寧に」


 と、名刺を覗き込んだ杉並が、つと道路に舞った写真に目をやった。瞬間、車が一台通り過ぎ、同時に写真が小さく宙に舞う。新藤は、慌てて車道に数歩下りて拾ったが、さらに後続車のライトが照らしてくる。軽いクラクションを鳴らされて、急いで歩道に駆け戻る。そして、漏れなく聞こえてくる杉並の小さなうめき声。


「ちょっと、兄ちゃん。それはなんだ?」


 一向に起き上がる気配はなさそうなので、新藤は杉並の顔元まで近づいていく。そして、写真を大切に手で包み込むと、安堵して言った。あの頃の晴人にはもう会えないのだ。一枚でも無駄にしたくない。


「息子の写真です」


 杉並は、それを聞いて一瞬顔をしかめた後、黙ってしまう。


「……とはいっても、息子にはもう会えないんですけどね」


「死んだってことか?」


 あまりにも単刀直入な言い方に不快感を覚えた新藤は、絶対に霊には見せないと写真を名刺入れにしまった。だが、車が来ていないのに唸っている霊も、妙に気になってしまい問いかけた。


「あのー……、なんですか? 俺、明日ちょっと早いんでもう行きますね」


 答えない杉並を置き去りに、新藤が数歩歩いた時だった。


「その子、はる……とか、あき……とか季節がつく名前か?」


 呟くように言ったその声が、新藤の耳を突き刺した。駆け戻って杉並の寝転がる側に腰を落とす。そして、我慢できずに詰問する。


「なんですか! そうです、はるひとですよ! どうしてあんたがそんなこと知っているんだ!」


 新藤が顔色を変えても、杉並は相変わらずのマイペースを崩さない。寝転んだまま足を組み、シャツの裾をまくり上げて腹をかき始める。最初に名刺を配った礼儀正しさは、もはやない。


「ちょっと! 晴人を見たことがあるんですか! どこで、いつ!」


「うるさいなぁ……人がせっかく思い出そうとしているんだから、黙っていろって」


 足踏みをしたくなるほどの歯がゆさを抱えながら、新藤は唇をかみしめて待った。車が何台通り過ぎていくことだろう。道行く人々も、車道に向けて佇む新藤を、一瞬不安そうに一瞥する。そうだろう、新藤が車道に飛び出そうとしている絵面に見える。風が肌寒く、せっかく温まっていた体が次第に冷え切っていく。さすがに我慢できずに新藤が杉並を見ると、足を折って丸まり、目を閉じている。幽霊も眠るのか、と冷静に考えた次の瞬間、思わず声を荒げてしまう。


「おい! 考えていたんじゃないのかよ」


 周囲の人が、後ずさる様にして新藤に視線を送る。このままでは通報されかねない。だが、杉並は不満そうに顔を起こすと、新藤を手で追い払う仕草をした。


「悪いな。全く思い出せないし、眠くなってきたんだわ。いやー、なんかワイワイ走ってきた気がするんだけど、あれはなぁ。どこだったかなぁ」


 くっ、と息を呑み込み、新藤は声を押さえた。思い出している、こいつは何かを知っている。新藤は直感した。ある意味、面倒な霊と関わってしまった。そして、人間の世でも同じだと思い返す。初めに腰の低い人間が、決してやさしくしてくれるわけではないのだ。もしかしたら忖度をして、またあるいは何かのコンプレックスがあって優位な立場に立とうとしているのかもしれない。こちらが必死になればなるほど、いい気になるだけだと気づく。


 だが、杉並にはばれてしまっているはずだ。新藤が、杉並を見たものを死ぬほど知りたがっているということを。それなら、少し長期戦になってしまっても仕方がない。


「分かりました。また来ます。思い出してみてくださいね」


 ちらりと様子を窺うと、杉並は先ほど同様、あしらうように手を振った。機嫌をそこねた幽霊というのは厄介である。


 それからも、新藤の頭の中では杉並のことが常に存在していた。ソファで転がっても、事務所の流しで立ちっぱなしのままコーヒーを飲んでいる時も、トイレでうっかりスマホを三十分いじり続けてしまった時も、である。ベルの背中を撫でながら、とうとう痺れを切らした新藤が、フルーツの盛り合わせを持って国道へ出向いた。相変わらず、杉並は道路の端に寝転がりながらうめき声をあげている。恐らく、あれが快感になっているのだと思うと余計に気味が悪い。


 新藤の気配を察知してか、杉並が頭を起こす。貢物に気づき、口元が緩んだのが分かる。これでどうにか聞き出せるのかと期待しつつ、新藤は道路わきにそれを供えて、手を合わせた。


「どうか、晴人の情報が入りますように。お願いします。なんでもいいんです」


 繰り返し呟いている新藤の耳に、杉並の調子に乗った声が届く。


「あー、最近飲んでいないんだよなぁ。旨い日本酒。誰か、俺の体に浴びせてくれたりしないかなぁ」


 もう、恥などない。新藤は一目散にスーパーに駆け込むと、店の棚に並んでいる二番目に高級な酒を手に取り、レジへ走った。息を切らして酒を買おうとする新藤に、店員は驚いた顔を向けたが、気にしていられない。瓶を抱きかかえて現場に戻り、果物の香りを寝ながら楽しんでいる杉並の上で、酒瓶の蓋を開ける。迷いはない。瓶を大きく振り上げると、杉並の全身に降りかかる様に中身をぶちまける。


 驚いた車の運転手はクラクションを鳴らし、道行く人々はあからさまに新藤と距離を置いた。これでどうだ、という気持ちが素行を荒くする。びっしょりと酒を被り、若干呆然としていた杉並だったが、口の周りの酒を舌で舐めとると満足そうに笑った。


「なんだよ、豪快な奴だな」


「体に、浴びせろって……」


 さすがの杉並も、新藤のあまりの必死さに度肝を抜かれたようだ。どうやら、からかったことに罪悪感も持っているようだ。少しだけ気まずそうに新藤を見ると、今度は迷わずに口火を切った。


「俺だって、生きている時は悪者じゃなかったんだ。でも、冗談が好きだっただけで」


「晴人は、どこにいたんですか」


「お前がこの間去ってから、俺も考えていたんだ。ぼんやりとしか思い出せないんだが、多分、佛町のショッピングモールだな。俺、仕事が嫌過ぎて毎日あそこで自殺しようって考えていたから」


「……佛町?」


 和泉町の隣にあるそこに、確かに大きなモールがある。確かに、何度もショッピングモールは家族で訪れたが、必ず三人だったはずだ。晴人が一人でうろつきに行ける場所ではない。では、理沙と一緒だったということか。必ず、三人で出かけた時は目を離さなかったのだから。


「なーんってウッソー。俺、会社に首を切られたんだけどさ、気づいたのよ、毎日自由で幸せじゃね? って。ご飯なんてさ、周りを見渡せよ。草だって、何だって。って、これもウッソー」


 まだ霊が話しているのにも関わらず、新藤はその場を去ろうとした。場所さえ分かれば、また行ってみるしかない。そこへ、杉並の声が追いかけてくる。


「あ、行くなら非常階段だぞー。俺、そこでタバコ吸っていたんだわー」


 新藤は、せめてものお礼にと片手を挙げて答える。心当たりはない。だが、少しだけ何かに近づいている気がした。



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