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44話 秘めた想い

 凜は、いつもより一本早い電車に乗ると、駅のホームで後続列車を待った。一度は、もう霊と関わることなんてやめようと思った。だが、ここで見ぬふりをすれば、それを後悔する日がくるかもしれない。それなら、もう一度向き合おうと決意したのだ。すぐにやってきた電車から、少しだけ人が下りてきて、さらに多くの人を押し込んで走り去った。電車から降りた者の中に、男の姿を見つける。向こうも凜に気づき、片手を挙げる。


「おはようございます。久しぶりですね」


 駅前で凜が走り去ってから、一週間が経っていた。その間、避けるように凜は歩いて通学をしていたのだ。数秒迷った末に、凜は思い切っていった。


「私、あなたを信じていません。結婚十年目を祝うなんて、形だけではないんですか。実は、奥さんを道連れにしようとしていないですか」


 ぎょっとした顔で目を見開いた後、男性は豪快に笑った。気分を悪くさせてもおかしくない話だが、心底面白そうだ。


「これは参りましたね。幽霊になって、こんなに笑ったの初めてですよ。職場は研究機関で、研究員同士足の引っ張り合いのような場面を見てね。仲の悪かった同僚の悪口を、若手が思い切り話している時は少しだけ笑いましたが」


「違うっていうなら、証明してください! 私に、奥さんを会わせられますか」


「妻に、ですか?」


 朝のホームで、一人で喋っているように見える凜。通りすぎる人々や駅員まで、ちらりと視線を投げるが、構わなかった。


「そうです。危害を加えるつもりがないなら、会わせられますよね。本当のことか確かめるので」


「うーん、そうですね。分かりました。ちょうどいいです。実は、その十周年のディナーは明後日なんですよ。料理は二名分でとっています。食事が余っても申し訳ない。あなたが代わりに行って、食べてくれませんか。そして、妻の話し相手になってください。もちろん、私も側にいますので」


「え、ディナー……ですか?」


「そうです。良かった! それでは、これで決まりです。明後日の夕方にここの改札でお待ちしています。あ、お店は結構きちんとしているので服装にご注意を」


 それだけいうと、男性は一度会釈をして、足早に凜の前から去っていく。それは、始業時間を気にするサラリーマンと何も変わらなかった。むしろ、まさか大人の女性といきなり食事をすることになるとは思わず、逆に気が重くなってしまうのだった。


 解決策が見つからないまま、あっという間に約束の日を迎えた凜は、持っている服の中で一番大人っぽい落ち着いた柄のワンピースを着ることにした。準備に手間取って家の中を何度も往復しているのを横目で見ながら、文太がうんざりした様子で言う。


「凜も大吉も、何をそわそわしているんだよ。こっちまで緊張するじゃん」


「え、おじいちゃんも何かあるの?」


 ワンピースの背中のホックが上がらず、イラつきながら答える。見かねた文太が本棚に乗り、凜の手元に手を伸ばす。そっと服のホックを支えてみると、あっという間にかかった。ほっと息をつき、凜が姿見でチェックしていると、文太が真似をする。


「あれ、スーツはどこだ! 時計、時計! 口臭スプレー、よし!」


 その小刻み動きが妙に似ていて、凜は吹き出した。


「やだ、おじいちゃん。誰かとデートでもするのかな。追いかけたいけど、今日は私も用事があるの。イケてるお店でディナーなんだから」


 といったものの、店の名前も知らない。だが、時計を見るとすでに遅れ気味だ。そんな大吉も、すでに出かけているようだ。凜もバックを掴むと慌てて家を飛び出した。


 駅で、待ち合わせの時間ぴったりにやってきた男性は、凜を見て嬉しそうに目を細めた。


「素敵ですね。私にも娘がいれば、こんな感覚を味わえたのかもしれません。では、行きましょうか」


 少し照れながら凜も頷いた。店はレンガ調のお洒落な外観で、中は少し照明が落とされている。予約は弓田の名前でしてあると、男性はいう。近づいてきたウェイトレスに告げると、少し変な顔をした。そのまま待つように言うと、ウェイトレスは店の奥で上司らしき人物に相談しているようだ。二人でちらりと、凜に視線を投げる。戸惑った凜が、隣に立つ男性の幽霊と目を見合わせると、どこかから名前を呼ばれているのに気づく。


「凜! りんっ! 」


 近づいてきた人物は、なんと大吉である。


「おじいちゃんっ! どうしてここに。お洒落をしているって、このためだったの?」


「お前こそ、なんでここにいるんだ。デートか? 悪いな、この店はやめてくれ」


「そんなこと言われても……」


 すると、隣で男性が言った。


「ねぇ、おじいさんが一緒にいたのは、もしかしたら僕の妻かもしれない」


「え?」


 見ると、店の奥の一角に綺麗な女性が座って、こちらを見ている。あれが、男性の妻ということか。どうして、その妻と大吉が一緒にいるのかは気になるが、まずは事情を説明しなければならない。


「おじいちゃん、ちょっと待っていて」


「待てって、……おい」


 女性の側まで来ると、凜は不躾なことは承知で一思いに言い切る。


「弓田みどりさんですね。私、今もあなたの旦那さんと駅で会うんです。彼は、あなたと今夜食事するまでは成仏できないって言っています。でも、もしかしたら危険なことかもしれないんです。私は、今夜旦那さんの代わりに食事をして欲しいと言われてきました」


 普通ならば、怒ってもおかしくない。店のウェイトレスや客が異変を感じたのか、わざつき始める。もしかしたら、修羅場だと思われているのかもしれない。


「お客様、入口でお待ちくださいとお伝えしたはずですが」


 ウェイトレスの穏やかな制止の途中で、みどりが嬉しそうに笑い始める。凜を見上げて、大吉の方に手を振る。


「やっぱり、夫は近くにいてくれているんですね。今日のこと、本当に楽しみにしていたんです。それなら、あなたもぜひご一緒にいかがですか」


 呆気にとられる凜をよそに、みどりはウェイトレスにも声をかける。


「すみません。お食事をもう一人分、追加していただくことってできますか?」


 大吉と一緒に現れた夫も、妻と同じようににこやかな笑顔だった。


「ねぇ、おじいちゃんがどうしてここにいるのよ」


「いや、……少し前に、この女性が道で体調を崩されていたんだ。それがご縁で、何回かお話をする機会があって、今夜食事にどうか、と。いや、でも彼女は旦那が側にいるっていって」


 混乱する大吉をよそに、女性は笑って言う。


「大吉さん、心配かけてごめんなさいね。存在がない夫の日常生活の世話をして、頭のおかしい女だと思われたことでしょう」


「えっ、あ、いや……」


 夫が女性の前の席に座り、その空いている席に凜と大吉が収まった。凜には、これできれいに四人席が埋まったように見える。


「十周年、おめでとう。君にはずっと健康でいて、人生を楽しんでもらいたいよ」


 夫の言葉が聞こえたはずはない。だが、妻はワイングラスを手にすると、嬉しそうに微笑んだ後、少しだけ涙ぐんだ。凜は、夫の言葉を伝えようと思ったが、その必要はないようだ。


 食事が運ばれてくると、それは穏やかに進んだ。凜と大吉が血縁関係にあること。凜の学校生活のこと。大吉が、みどりの親と麻雀仲間であること。そして、みどりが夫と過ごした大切な時間のこと。コース料理が運ばれてくる間、ほとんど初対面であるというのに話は尽きなかった。最後のデザートにアイスクリームが運ばれてくると、妻の顔に初めて影ができた。凜は、いつ夫が豹変するのかと気が気ではなかったが、妻の心配は別にあったようだ。


「本当に幸せでした。ありがとう。もう、十分よ」


 凜が口にスプーンを運んだ手を止めてみると、夫も静かに頷いている。


「うそでしょ。待って。本当にこれで終わりなの?……そんなの、ないよ!」


 凜の言葉に、大吉が驚いて目を見開く。


「なんだっ! どうした、まだ腹が減っているのか? アイスできっと終わりだぞ」


「みどり。辛い思いをさせてごめん。でも、いつもそばにいると知っていて欲しい……」


 夫の影は、食事の途中から少しずつ薄くなっていた。そして、その言葉を最後に、煙がゆっくりと消えるように見えなくなる。彼は、本当に約束のためだけにこの世に残っていたのだ。どうして、彼は恨まなかったのだ。自分よりも長く生きられる妻を妬まなかった。


 ああして欲しかった、こうしたかったなど怨念を生まずに死ねたのだ。その潔さがきれいで、そして羨ましくなる。さわやかな愛情を見せつけられ、凜も涙が止まらない。ごまかすように口にアイスを入れ、冷たさをかみしめる。


「凜さんも、大吉さんもありがとう。夫は、最後まで私が楽しく過ごせるように考えてくれたのね。今日のことは一生の思い出。本当に、ありがとう」


 食事を終え、店を出るときのみどりの顔は晴れ晴れとしていた。お互いに、また会おうと口々に言って、静かに別れた。


 大吉と並んで歩く凜は、泣きすぎたことで頭がぼうっとしていた。しかし、一方で明日、久しぶりに探偵事務所に顔を出そうと決めていた。きっと、人の想いに触れても、嫌なことばかりではない。こんなに綺麗なものを見せられたのだから。そう思えていた。と、大吉がおずおずと隣から声を掛けてくる。


「凜、お前は小さい頃から、ちょっと……、なんだ。その家系的な理由で変わったところがあると知っている」


 霊感や過去の残像が見えることを言いたいのだろう。


「それで辛い思いをしたことがあるかもしれない。俺は、ほぼそういうのが分からないから頼りにならないかもしれないけど。何かあったら、いつでも言って欲しい」


 真正面から言ってくれる大吉に、照れくさいけれど嬉しくなる。思わず大吉に腕を絡めて、笑顔で答える。


「ありがとう! 最近ちょっと悩んでいたんだけど、もう大丈夫」


 それに安心した様子の大吉だったが、ふと足を止めて言う。


「それでもしかして、なんだが。うちにひょっとしてなんだか一匹……いや、いいんだ」


 大吉は、見えなくても文太の存在に気づいている。でも、認めると怖いのかもしれない。そんな一面も可愛く思えて、凜はさらに絡んだ。


「えー、なになに! 時々鳴き声とか、聞こえちゃったりしてるぅー?」


「あ、おいっ! 詳しく知りたくないから言わんでいいっ!」


 二人は家までの道のりを、ふざけながら帰るのだった。


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