事務所を出ると、新藤は原付のヘルメットをかぶった。スマホで道案内をセットして、原付を発進させる。迷ったけれど、文太もベルも連れてはこなかった。凜は相変わらず事務所の仕事から距離を置いているようだ。今や、事務所の誰かと一緒に行動することは、新藤の中でとても心強くなっていたが、今回は出かけることさえ伝えていない。
もちろん、日々の事件は一緒に解決できればと望んでいる。過去についても、話せることは共有しているつもりだ。それでも、いざ核心に近くなると、まずは自分の頭で整理したい気持ちが逸る。なぜ、そうなったのか。どうして、防げなくなったのか。プライドが邪魔をして、後悔をして悩む自分を見られたくはなかった。
「新藤です。今日、一時にアポをとっています。よろしくお願いします」
これから会う相手に電話を入れてみたが、留守電になったので念のためメッセージを吹き込んだ。現役で勤務しているそうなので、授業でもしているのかもしれない。原付で一時間ほど走ると、そこは都心にほど近い閑静なエリアだった。女子大学ということで、門の脇にいる守衛に止められるのではないかと内心冷や冷やしたものの、特に質問を受けずに構内に入れた。もらったメールには、高石の時と同じように、時間と場所が書かれている。掲示板の案内図を確認すると、どうやら一番高い建物にいるようだ。
昼休みも終わりかけだろう構内には、凜と同じような格好をした女子で溢れている。数人であちこちに固まって座っては、何かを喋って笑い声をあげる。その繰り返しだ。同じ空間にいると、どうしても過去の自分の記憶を掘り起こし、懐かしくなった。
建物を入ると、吹き抜けの広いロビーがあり、その奥にエレベーターが数基見えた。学生で満員の箱に加わる勇気がなかったので、ひととおり混雑がなくなったところで乗り込む。それでも、教員はあまり乗り合わせないのか、男性が珍しいのか。女子生徒たちが怪訝そうに新藤に視線を投げるのに気づき、肩身の狭い思いをした。
指定された8階で降りると、廊下は綺麗な絨毯が敷かれ、生徒の声は全くしない。案内図には、ロの字型で教員の名前が部屋に割り振られている。新藤が目指した部屋は、一番奥にある。どうやって話を進めようか。本当のことを教えてくれるのか。そう考えるだけで不安で心臓が痛んだが、ここまで来てしまったのだからと覚悟を決める。部屋の前で深呼吸をしてから、小さく三回ノックをする。奥から返事が聞こえたので、そっとドアノブを引いた。部屋の奥に座っていた男性が、ゆっくりと立ち上がり振り返る。
「やぁ、こんにちは。久しぶりだね」
そこにいたのは、あの夏と変わらない、日差しの下で真っ黒に日焼けした笑顔だった。
「先生、お忙しいのにありがとうございます」
部屋の扉に書かれていたプレート、近藤の名前を目に焼き付ける。この男は、絶対に何かを知っているのだ。新藤の方へ歩いてきた近藤だったが、違和感があった。
「あれ、足を怪我されているんですか?」
彫の深い笑顔は変わらないが、やはり年月とは残酷なものである。歩く姿は明らかに老人で、その原因となっているのは歩き方だった。左足を引きずり、壁に手をつくように歩いていた。
「あ、あぁ。普段はこれを使っているんだけど、部屋では面倒でね。もうよぼよぼの老人だよ」
そう言って、本棚に立てかけてあった杖をとる。ゆっくりとテーブルまで歩いてきて、椅子に座った。テーブルの上のポットに手を伸ばすので、そこは代わりに新藤が引き継ごうとした。
「お客さんなのに、悪いね。カップにお湯を入れたら、ほら、色々紅茶もあるから。選んで飲もう。生徒がね、時々来てはお茶をしていくんだよ」
嬉しそうに言う近藤は、今日新藤が訪ねてくる理由を知っているはずだ。だが、まるで緊張した様子がない。そこも、身構えてしまう理由のひとつだ。カップにお湯を注いで、ティーパックを入れ、出来上がるのを待っている間に話に詰まる。ふと、部屋に目を走らせてから机の上のものに気づいた。何やら、見たことがあるものが置かれていた。もしかして、と考えていたことが確信に変わる。新藤は、カップから上がる湯気をぼんやりと見ながら、諦めたように言った。
「先生は、私がメールをした時に、どうして今頃連絡をしてきたのだと疑問に思わなかったんですか。あの夏、鳥島で確かに私たちは同じ奇妙な体験をしました。理沙が……、のちの私の妻ですが、あの時、先生に父親のことを確認した。それだけで、私たちのことは記憶に残っていたんですか」
新藤の言葉に、今まで饒舌に話していたことが嘘のように、近藤が黙る。
「この間、理沙の父親が、私の探偵事務所に訪ねて来たようです。入れ違いで会えなかったんですが、彼が生きていることを、私は最近まで全く知りませんでした」
近藤は、ティーポットの中の茶葉を取り出すと、脇の小皿に置いた。上品な仕草でカップを持つと、そっと息を吹きかけて冷ましてから、こくりと口に含んだ。
「あの時、先生は本当に藤本さんの失踪の原因を知らなかったんですか。今も、連絡を取っているんじゃないですか。どうして、私の事務所に彼は来たんですか! 理沙は、どうしてっ……!」
話していると、ますます感情が高ぶった。順序だてて、一つずつ丁寧に聞こうと決めて来たのに、疑問があふれ出してぶつけてしまう。いつから、こんなに涙もろくなったのだろう。慌てて気持ちを抑え込もうとしていると、近藤が口火を切った。
「君は、知らない方がいいことに足を突っ込もうとしているんだ。きっと、藤本君はそれを忠告しに来たんじゃないかな」
「知らない方がいいこと?……私は、妻と息子を失ってもうすぐ二年が経とうとしているんですよ。最近、何かがおかしいって気づいたんです。その真意を探ろうとして、何が悪いんですか」
「それで、傷つくことになってもかい? 知らなくていいことは、たくさんあるんだよ」
「その選択権は、私にあると思います。家族のことなので」
「君の家族の前の家族だったら、踏み込んで欲しくないかもしれないよね」
近藤の言葉に、新藤は眉間に皺を寄せた。どうして、こうして遠回しな言い方をするのだろう。まるでクイズ番組だ。それなら、別の方向から責めるまでだ。
「理沙が、両親と何か問題があったってことですか」
近藤は、新藤の質問に答える気はないようだ。再び紅茶をすすると、大きく息をつく。
「先生、その足の怪我はトレジャーハンターが原因ですか。それとも、鳥島の遺骨を守っていて、事故にでも遭われたんですか」
なかなか不躾な質問だという自覚はあった。だが、こうも冷静に対応されると、つい相手の感情を煽りたくなるのは必然だろう。それでも、近藤は一切動じない。茶葉が浸かりすぎている新藤のカップを心配しているのか、手を伸ばしてくる。
「もう、トレジャーハンターはされていないようですね。でも、仲間とはつながっているんじゃないですか? 骨董屋の善さん、お知り合いですよね。一緒に仕事をしたこともあるんじゃないですか?」
「どうしてそう思う?」
近藤の表情が微妙に緊張したのが分かる。初めて、まともに相手をされた気がした。
「机の上にある万年筆です。少し前に、善さんのところへいった時、触ろうとして怒られたからよく覚えているんです。あれも、キャップのところに同じマークがありました」
対等になった気がして、初めて新藤も落ち着いて話すことができた。ふっと静かに笑うと、近藤はまっすぐ視線を合わせてくる。話が動きそうな気配に、身を引き締める。
「あなたは、探偵が向いていますね。良い勘をしている」
『あなた』と呼ばれたことで、益々緊張する。失敗をしたくなくて、ただ次の言葉を待った。
「確かに、善さんとは知り合いです。仰る通り、かつてはトレジャーハンターを共にしたし、今でも交流はあります。藤本に関しても、同様です。他に知っていることはありますか」
「先日、親戚の寺で藤本さんと叔父が一緒に写った写真も見つけました。思えば、善さんはもともと叔父の知り合いです。何の知り合いか、聞こうともしなかった自分が馬鹿みたいですが。叔父も、どうやらメンバーだったようですね」
「そうです。藤本と善さん、養福寺のご住職と私は、色々な作品を求めて探検をしていた時期があります。でも、ある時から、ハンターの活動はしなくなりました」
「なぜですか。そこに、理沙と家族の問題が関係あるんですか」
「遠くない因縁はあります。でも、直接的な原因はそれだけではない。失踪したメンバーは藤本だけではないんです。もう一人、良い仲間がいました」
「失踪というのは、事故ですか? 誰かに追われているとか?」
真実に近づいている。新藤の中で湧き上がる興奮が抑えられない。やはり、叔父も善も仲間だったのだ。そうなると、理沙が藤本の娘だと知っていたとしても不思議ではない。むしろ、理沙も彼らが父の友達だと知っていたのかもしれない。なぜ、それを新藤に黙っている必要があったのか。打ち明ける必要は、確かにない。だが、大きな闇を感じずにはいられない。理沙の抱えていた秘密は、一体何なのだ。
「ある宝飾品をめぐって、私たちが仲間割れをしたんです。そこから、関係性が大きく崩れました。私と住職と善さんは、それを守ろうとした。しかし、藤本ともう一人のメンバーは、それを奪おうとした」
「金になるからですか」
新藤の言葉に、近藤は愉快そうに笑い声をあげた。それは突然で、そして豪快だった。拍子抜けする反応に困っていると、近藤は静かに言った。それまでの穏やかな空気は消え、目に力が宿っている。
「人が何かを欲しがる時、金以上のものがある。言えるのは、これだけだ」
それだけ言うと、再び微笑みを浮かべる。それはきっと、仮面のような笑顔だ。彼の本当の姿は、恐らく貪欲で狡猾だ。急に、狭い部屋に二人でいることが怖くなってきた。
「ほら、冷めないうちに飲みなさい。何も入っていないから」
その言葉が余計に恐ろしかったが、新藤は覚悟を決めて口にした。今度は、力を抜いて再び話始める。確かに、これだけ穏やかに教えてくれる教授なら、生徒も来るだろう。
「私は、いつか君が訪ねてくると思っていたんだ。連絡が来た時は、長年の勘があたって嬉しかったくらいだ。これ以上踏み込むことは、止めた方がいい。でも、何か迷ったら、いつでも遊びに来なさい」
そう言うと、今度は紅茶を飲み干して、席を立った。杖をついて、自らドアを開ける。出ていけ、ということだ。新藤は鞄を持って一礼すると、拒むことなく部屋を後にした。きっと、ここに来ることはないだろうと思いながら。背中でドアが閉まるのを感じ、どこか早足でエレベーターに乗り込むと、力が抜けたようにしゃがみこんだ。やはり、最大限に緊張していたようだ。優しそうに見えて、威圧感が凄まじかった。
「やべ、今頃足が震えるわ」
一階に到着するまで、新藤は全身の力を抜いて壁に体を預けるのだった。