「すみません、降ります」
朝のラッシュの車内は、人々が心を押し殺しているような緊張感が漂っている。凜は満員電車の人込みをかき分けて、駅のホームに出てほっと息をついた。大学までは一駅しかない。時間に余裕がある時は歩く様にしているが、今日は思わぬところで寝坊をしてしまった。
朝一度目が覚めたというのに、うっかり二度寝をしたことで、慌てて家を飛び出すことになった。しかも、和泉町に来るためには、『あの交差点』を通るのが近道だ。老婆が孫を道連れにしたあの事故を、凜はまだ頭の中で整理できずにいた。探偵事務所に小さな仕事は舞い込んでくるが、今のところ凜は直接関わることから距離を置いていた。
歩いてくるには間に合わないが、授業の開始時間にはまだ早い。おかげで駅に大学生の姿はまばらだ。ゆっくりと歩く凜の脇を、スーツ姿の男性が駆け足で改札へ向かっていく。視界に入れてから、またげんなりする。あれは、生きている人間ではないと確信したからだ。空気が、彼の周りで黒く淀んでいる。でも、まるでそんなことは気づいていないかのように、男性は出勤を急ぐように駆け足で消えて行った。
再び、その男性を目撃したのは電車の中だった。数日ぶりに乗った車内で、男性はドアの隅でひっそりと窓の外を眺めていた。いつもより空いている車内は余裕があり、思わず凜は男性の方に身を寄せた。同じようにホームに降りて、同じように駆け足で歩く。だが、この間と違ったのは、一度男性が足を止めたことだった。何かに気づいたように鞄を探ると、手帳を取り出した。死んでからもスーツを着て、リュックを背負い、さらに手帳まで持っているなんて、どこまで真面目なのだと笑いたくなる。手帳の中を必死に見つめた後、男性はまた歩き出した。どこか、親近感が湧くような可愛らしさがあった。
そして、ホームで男性を見かけることに慣れたある日、事件が起きた。電車の中で、男性の前に立っていた女子高生が「痴漢だ!」と騒ぎ始めたのだ。車内はほぼ満員で、目的の駅に着いた瞬間、女子高生の声で駅員が集まってくる。同時に、ホームに転がり出た数人の男性に、みなの視線が集中する。その中にいた一人が、彼だった。両手を上げ、自分は違うとでもいうように首を横に振っている。周囲の男性も、関係ないと主張し始めていた。凜はホームに出ると、男性の肩に軽く触れて耳元でささやいた。
「あなたは大丈夫でしょ。早く行きましょ」
凜が話しかけたことで、男性はびっくりしたように振り返った。そして、少し恥ずかしそうにお辞儀をする。電車も停止し、駅の構内は益々混乱していた。改札を出ると、男性の方から話しかけてきた。
「恥ずかしいところを見られちゃいましたね。ああいうの、ちょっと憧れていたんですよ」
それを聞いて、凜は心なしかほっとした。この男性は、死んだことを受け入れた上で、日常を楽しんでいるのだと分かったからだ。
「恥ずかしいとは思わないけど、本気だと思ったのは確かですね。安心しました」
「いえいえ、全くです。でも、驚きました。まさか僕のことが見えている人がいるなんて」
「実は、少し前から気づいていたんです。……毎日通勤しているんですか?」
人がこの世に残るには、理由がある。これが新藤のモットーだ。それなら、この普通のサラリーマンはどうしてこの世に未練があるのだろう。こんなにも穏やかに、楽しそうに暮らしているように見えるのに。その瞬間、脳裏にあの老婆が蘇る。咄嗟に、話そうとしている男性を手で制した。
「いや、やっぱり大丈夫です。言わなくて」
だが、男性は凜が気を遣っていると勘違いしたようだ。やわらかく笑うと、楽しそうに言った。
「幽霊なんてやっていると、毎日暇でしょう。だから、とりあえず変わりなく出勤しているんですよ。会社に席はないから、行ってもウロウロしているだけなんだけど。でも色々なうわさ話もこっそり聞けて、これがまた面白いんだ」
本当に人柄のよさそうな笑顔に、凜は戸惑った。すると、男性は続ける。
「僕はちょっと前に、病気でね。闘病はしたんだけど、ダメだったんですよ。もうすぐ結婚10周年で、妻とは思い出のレストランに行こうっていっていたのが心残りで……」
「奥さん……」
「そうなんだ。実は、妻の方が先に病気をしてしまって、やっとあと一年で完解ってところまで来ていて。それもあって、お祝いは盛大にしたかったのに、こんなことに。人生って、いや不思議なものなんですよ」
男性は、困ったように笑っている。つまり、未練は妻との結婚十周年のお祝いができていないこと。そして、人生にも恐らく死んだこと自体にも後悔はしていない様子だ。そうなると、誰にも恨みはないはず。男性に言葉を返そうと口を開け、再び閉じる。どうして、男性の言っていることが本当だと信じられるのだ。こうしてまた、妻に会わせろといわれるのではないだろうか。そしてまた、目の前で妻を殺されるのではないだろうか。
「お……お大事に!」
もはやなんと返せばいいのか分からず、凜は唐突にそれだけ叫ぶと、学校の校門に向けて走り出した。振り返ることもない。もう、嫌な思いをするのは嫌だった。それなら、関わらない方がいい。人の気持ちの深層心理なんて、知ったところでいい思いをすることなんてない。蓋をして、すべて消してしまえばいい。門をくぐったところで振り返ったが、もちろん男性の姿などなかった。
「凜? おはよー。どうしたの、走ったりして」
顔を上げると、正面から友達が歩いてきた。
「おはよー、ううん。遅刻するかと思った!」
心臓の音をごまかすように言うと、友達の腕をとって構内に歩き出すのだった。