机の上のアルバムを整理していた新藤は、肩の疲れをほぐすように大きく伸びをした。その気配を察知して机の上に登ってきた文太のお尻を軽く叩いてやる。最初の頃は遠慮していた文太も、最近では催促するように尻を突き出してくる。開けっ放しにしていた窓から、秋の終わりを知らせる冷たい風が吹き込んでくる。同時に、新藤の苦手なものまで。一度は我慢しようとしたが、抑えきれず細かく息をする。と、勢いよく、くしゃみが飛び出した。
「びっくりしたー」
瞬間的に机の上から逃げた文太が、床から恨めし気に見上げてくる。思わず吹き出しつつ謝ると、新藤はぽつりと漏らした。
「ごめん。花粉だわ。そういえば、晴人は猫アレルギーだったんだよ。もし、文太がいたら一緒には暮らせなかったなぁ」
「いや、今の俺には関係ないっしょ」
「あ、そうか。いや、どうなんだろう? 幽霊でも、お前時々毛が落ちていない?」
「……分からん。晴人って、新藤の子供だろう? どんな子供だったんだ」
「そうだなぁ……。そういえば、こんな雨の日にいなくなったことがあったんだ」
外は曇り空。シトシトと静かに雨が降り始めている。風の冷たさにそっと窓を閉じると、新藤はソファに移動した。文太が追いかけてくる。ベルは午前中の散歩から帰ってきて、ずっと部屋の隅で転がっている。一見、穏やかな午後である。そう、あれもこんな風に穏やかな時間で唐突に起きたのだ。
「健ちゃん! 晴人がいないんだけど! 一緒にお昼寝していなかったの」
日曜日の午後、大分気温が下がった日だった。昼寝と称して二人で毛布をかぶり、新藤は息子に本を読んであげていた。四歳を迎えたのに言葉数が少なく、病院では成長に問題がないだろうという診断を受けていたものの、一日のうちにほとんど声を聞かない日もあった。新藤も妻の理沙も目立って話題にはしなかったものの、少しでも晴人の成長のためになるなら、と積極的に読み聞かせをしている時期だった。
マンションの玄関に近い部屋にいたため、リビングでおやつを作っていた理沙は気づかなかったようだ。慌てて飛び起きた新藤だったが、一歩早く玄関に行った理沙が悲鳴を上げた。
「嫌だ! 靴がない! 晴人、こんな雨の中で外に行っちゃったんだよ」
玄関のカギに、いつの間に背が届くようになったのだろう。まさか、開いていたのだろうか。そんな疑問が脳内を回っていると、理沙の鋭い声が飛んだ。
「どうしてちゃんと見ていなかったの! あの子、ほとんど話せないのに。それに、もしあれが……」
言い過ぎたと思ったのか、すぐに口を噤んで決まずそうにする理沙。だが、新藤は強く責められたことで簡単に謝ることさえできなかった。
「寝ちゃったんだから仕方がないだろう。それに、リビングだとうるさいって言ったの、理沙じゃん!」
言い返したことが不服だったのかもしれない。理沙は、それ以上何も言わずに家を飛び出して行った。携帯も財布も、玄関のカギも持たずに。その素早さと血相を変えた様子に唖然としつつ、少しだけ怒りが湧いてくる。
出て行ったといっても、マンションはエントランスを抜けるまでに距離はある。晴人はエレベーターに乗るのが好きだ。きっとどこかでウロウロしているはずだし、マンション内に知り合いも多い。誰かが気づいてくれるだろう、という甘い期待は簡単に崩れた。
数分後、やっと起き上がった新藤がエレベーターでエントランスに降りると、血相を変えた様子で理沙が駆け寄ってきた。すでに頬が涙で濡れている。
「屋上の階段も見た! 駐車場も! あの子、攫われたのかも……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。どうしていきなりそうなるの? 友達の家かもしれないじゃん。もうちょっとマンションの中を」
「あの子に友達なんて、いないの知っているでしょう! 健ちゃん、どうしよう」
理沙の勢いに若干腰が引けたが、確かにその通りだ。四歳になっても発話のほぼない晴人は、生育が遅めといわれる男児の中でも目立っておとなしい存在だった。大人の言っていることは理解をしていて、聞き分けの良さは年齢の割に逆に年齢と見合わないほどだった。それが大人たちにとっては可愛さの一因だったが、子ども間では通用しない。
ボール遊びでも、鬼ごっこでも、晴人は『つまらない』子どもの立ち位置だった。だからといって、意地悪をされる対象には不思議となっていないようだったが、外で子供たちと遊ぶ晴人は、どこか不安そうだった。新藤と理沙と公園で遊んだり、買い物に行ったりするほうが楽しそうだったので、自然と友達の輪には入らないことが増えていた。そんな時のできごとだった。
「自分の名前だって言えるかはっきりしないのに……。マンションを出たら、きっと誰も助けてなんてくれないっ」
「理沙! 落ち着けよ」
「いったっ……」
取り乱している様子の理沙は、不安からか心臓を押さえてうずくまった。
「おい! 大丈夫か」
理沙の肩を支えて、ゆっくりと立ち上がらせる。顔色は真っ青だ。胸を押さえて息が苦しそうな様子は尋常ではない。新藤は、救急車を呼ぼうとスマホを取り出した。
「待って、大丈夫だから。……晴人を探さないと」
スマホを持つ手を押さえられる。家で寝かせていていいものか。額に浮かんでいる汗は、痛みからくるものではないのか。瞬時に判断がつかないが、少なくとも晴人を探しに行ける状態ではない。
「分かった。でも、理沙は部屋で休んでいて。俺が、絶対に探してくるから。もし、二時間経って見つからなかったら、警察に電話しよう」
胸を押さえた理沙は、新藤の勢いに飲まれたのか、そのまま小さく頷いた。エレベーターに理沙を乗せて、新藤はマンションを出た。外は、雨が強くなり始めていた。人々が傘を差し始める中、新藤は着ていたパーカーのフードをかぶる。闇雲に走っても時間のむだだろう。晴人の好きなものを思い浮かべようとして、新藤は急に動悸を覚えた。普段、仕事の忙しさを理由に、晴人のことについて理沙とあまり話せていないことに気づいたのだ。特に、自分から発信することの少ない晴人は、何をしている時に喜んでいただろうか。
「なぁ、うちの子供を見なかったか? いつも、俺と理沙と歩いている男の子だよ!」
マンションの前に佇んでいるのは、三十代くらいの壮年である。一見、普通の男性のようだが、違いと言えば頭から血を流していることだ。顔には生気がなく、いつも同じところに立っているだけだ。最初の頃は、新藤と目が合っていたものの、すぐに見ない振りをしていたため、なぜ男がこの姿になったのかは定かではない。だが、新藤のことは認識しているはずだ。しかし、以前無視しているからか、今度は幽霊に目を逸らされてしまう。ちっと舌打ちをして、新藤はまず幼稚園に走った。
十分ほど走ると着いたが、休日に開いている様子はない。わざわざ門を乗り越えて入る理由もないだろう。次に、いつも買い物に行くスーパーだ。だが、空いている店内に晴人のいる様子などない。本屋、駄菓子屋、街中の気になる場所を回ってみるが、そのどこにもいない。こんな雨の中、濡れずに過ごせる場所など街中で何があるのだろうか。息も切れて、もはや刑事の俊太に助けを求めようと考え始めた時だった。少し前に、一緒に遊んだ公園を思い出した。あの日、二人で散歩に出かけたら、急に雷雨に見舞われた。近くに店などない住宅街で、困った新藤は晴人を抱き上げると公園の遊具に避難したのだ。
そこで三十分ほど、新藤は晴人が怖がらない様に、思いつく限りの物語を聞かせていた。いつの間にか、晴人が寝入った頃には雨が上がり、大きな虹が見えたのだ。抱っこしたまま家に帰り、晴人が起きてから虹の写真を見せると嬉しそうに、しかし少しだけ悔しそうな顔をしていたのを覚えている。まさか、と思いながら公園に走る。
「晴人っ!」
野球もできそうな広さのある公園の、隅に置かれた土管を覗き込む。すると、一匹の猫が驚いたように土管から飛び出した。振り返り、文句を言うように「にゃあ」とひと鳴きすると、走って公園から去っていく。そして、土管の中に残されたのは、新藤が探していた晴人だった。新藤が来たことに一瞬驚いたようだったが、すぐに笑顔を見せる。だが、それを見た瞬間、腹の底から怒りが湧いた。
「こら! どうして勝手に出て行ったんだ! パパとママがどれだけ心配したと思う!」
土管の中に響く大声に、晴人が首を縮めた。そして、手に持っているデジタルカメラに気づく。
「やっぱり……。晴人、虹を見に来たのか?」
驚いたのだろう。晴人の目から、小さな涙がひとつ落ちる。泣くのを堪えるように、唇が震えている。小さく頷く姿は愛おしく、思わず土管に入って抱きしめる。寒かったのか、体も小刻みに震えていた。それを温めるように背中を撫で、新藤は謝った。
「写真を撮ってくれるつもりだったのか。ごめんな、気づかなくて。ごめん、良かったよ、無事で。ごめんな」
「こんな感じでな。晴人は優しい子だったんだよ」
ソファでちょこんと澄まして座る文太に、新藤は自慢するように話す。あの後、晴人を連れて帰ると、理沙は号泣した。そして、お互いに謝った。三人で、どこかに行くときは必ず誰かに言うことを約束した日だった。
「その夜、晴人が熱を出して、大変だったんだ。お腹も壊すし」
「新藤に怒られて、びびったからじゃないのか」
相変わらずの憎まれ口に、新藤は文太のおでこをつつく。
「馬鹿。病院に行って調べたら、なんと猫アレルギーだったのさ。そういえば、あの猫もお前みたいに、一見ちょっと高貴な感じで長毛だったな。な? 一緒に暮らせないだろ」
ふんっと鼻を鳴らして、文太がソファから飛び降りる。感想も言わずに、ベルの脇に寝転んではゴロゴロと喉を鳴らしている。まぁ、興味もないよなぁと思いながら、新藤は再び机のアルバムに目を落とした。そこには、あの時のままの晴人と理沙が笑顔で写っている。この世界に戻りたい、と思いながら新藤はページをめくった。