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40 秘めた想い

「ベルー、散歩に行くぞ」


 自宅を出て、階段途中にある二階の探偵事務所のドアを押すと、すぐに愛犬が顔を出した。愛犬と言っても、自分のペットではない。分かってはいるものの、日々愛着が湧くのを抑えきれなかった。孫と一緒に住んでいると、可愛いという前提はあるものの、戸惑うことも多い。初めこそ、『おじいちゃん』という立場に甘えて自分を繕ってみたものの、代償で得た物と言えば居心地の良さではなく、疲れだった。それは、凜が頑張ろうとするほど、肩身が狭くなった。


 最近、凜も学校で忙しいのか、家の中のことにあまり構わなくなった。それが心地よくもあるが、どう心配していいのかもわからない。どうやら、この探偵事務所のアルバイトが関係しているみたいだが、凜が話してくれるのを待つしかないだろう。大吉は、ベルの首にリードをつけながら、『それに……』と内心呟き、ぶるっと身震いする。


「おー、いやだ。絶対ここ、なんかいるだろう。ベル」


 昔から、何か視えることはないが感じることはできる。最近は、家でも小さなものがウロウロしている気配があるが、悪いものではないと放っておいている。凜に特殊な能力があることも知ってはいるが、詳しくは聞いていない。知らなくていいことなんて、山ほどあるのだ。


 背後に興味を持っているベルの首を引き、散歩へ連れ出す。今や、新藤も凜もベルの散歩はほとんどしない。新藤の事務所の家賃は一年間ただとしているが、これで飼い犬の散歩まで請け負っていたら、まるでお手伝いだ。


「本当に、俺って人がいいよなー」


 話しかけると、隣で嬉しそうにベルが吠える。唯一の味方はペットだというのは、良く言ったものである。背中を撫でてやると、今日の散歩コースに入った。とりあえず、パチンコは夕方にしようと心に決めた。


 住宅街をしばらく歩いたところで、ふとベルの足が止まった。視線の先にいたのは、若い女性だろうか。電信柱にもたれるようにして座り込んでいる。大吉の手からするりとリードが離れ、ベルが猛ダッシュで女性に駆け寄った。


「おい! お前はダメだって」


 もつれそうになりながら、最大限の速さで追いかける。学校帰りのほんの小さな小学生が、ベルに驚いて飛びのいた。その頭を謝る様に軽く撫で、大吉がベルに追いついた時には時遅し。ベルは、女性を心配しているのか超至近距離で顔を覗き込んでいる。


「こら、ベル! すみません、大丈夫ですか」


 無意識に、ありったけの低い声を出してしまう自分にげんなりだ。大吉はまずリードをとり、ベルを女性から引きはがした。見ると、四十代前半だろうか。すらりとした女性の顔は青白い。その顔に見覚えがあって、大吉は手が止まった。麻雀会で仲良くしている友達の娘だ。面識はほとんどないものの、どこか有名な国立の研究機関で科学者をしていると言っていた。自慢げに何度も写真を見せられたから、顔まで覚えてしまっている。


「すみません、……大丈夫です。ちょっと眩暈がしてしまって」


 義務感からか女性は必死で立ち上がる。ベルが不安そうに、女性と大吉の顔を見比べた。次に、彼女にかける言葉を迷った。なぜなら、友達から彼女の事情を聞いているからだ。三か月ほど前に、夫を病気で亡くしてしまったのだと。


「えーっと。家はどちら? ほら、ここら辺はタクシーも通らないし」


 怪しくないためには、彼女の親と友人関係であることを伝えた方がいい。だが、そうなると無駄に気を遣わせてしまう恐れもある。普段はパチンコ以外でめっきり使わなくなった頭をフル回転させて考える。


「平気です。ご迷惑をおかけしたら、主人に怒られます」


 現代の女性としては、なんと奥ゆかしいことだろう。少しだけ呆気にとられた大吉の前で、再び電柱に手をついて女性がしゃがみこんだ。もはや、迷う気持ちはなかった。


「俺は怪しい奴じゃない。こんな具合の悪そうな子を置いて、帰れるか。俺みたいなジジイにとっちゃ、あんたみたいな娘さんを襲おうなんて考えないから心配するな。なぁ、ベル! お前だってそう思うだろう?」


 わざとだみ声を出して、邪な気持ちがないことを表す。良い感じにベルも応戦するように吠え、彼女がうっすらと微笑みを見せたのを感じた。


「それじゃあ……、あと数百メートル先にある郵便局の前のマンションなんです。そこまで、手を貸していただいてもいいですか」


 そう言って、大吉の腕に手を乗せた彼女の体は、肉を感じさせないほど細かった。彼女の夫はしばらく療養していたというので、かなりストレスもあったことだろう。まだ食事が喉を通らなくて、貧血になったのかもしれない。親には、遠慮してSOSを発することができていないのだろう。そう思うと、余計に放っておくことなどできない。


 女性は、みどりと名乗った。大吉にもはやもたれるようにして歩く姿は、病人そのものだっただろう。いっそ救急車を呼ぶか迷っているうちに、無事にマンションの前に着いた。


「あの、お茶でも飲んでいってください」


 マンションのエレベーターの前で、彼女が言った。幾分顔色は良くなっているが、まさか部屋に上がることは躊躇われた。


「いやいや! それは遠慮するよ。もう大丈夫だろう。私とベルはここで失礼するから」


「うちのマンション、犬も大丈夫なんです。それに、もうすぐ主人も帰ってくるので、お礼を言わせていただかないと」


 彼女の言葉を聞いて、大吉は首をひねった。主人、というのは夫である。もし、みどりが友達の娘で間違いなければ、夫は死んでいるはずだ。いや、もしかして人違いなのだろうか。


「ささ、どうぞ」


 ちょうど着いたエレベーターに乗り込む彼女を、ベルが追いかける。


「おい」


 リードを慌てて引くも、どうやら降りるつもりがないようだ。仕方なく、大吉もエレベーターに足を踏み入れる。どんどんややこしいことに巻き込まれていることを自覚しながら……。


 五階につくと、みどりは幾分軽やかな足取りで数戸目の玄関でカギを差し込んだ。家に着いた安心感から、元気になる気持ちは大吉も分かる。そして、玄関口に男物の靴が置かれていることにほっとして、みどりに声を掛けた。


「すいませんね、こいつ」


 足元に姿勢よく座るベル。外で待たせておくべきか迷っていると、家の中に上げて構わないという。洗面所からすぐに持ってきてくれたタオルで足を拭くと、ベルは勢いよく廊下を走っていく。


「ベルっ! こら!」


 後から追いかけるように部屋に入ると、大吉はテーブルの上の食器に目を止めた。


「あら、ごめんなさい。朝は二人でバタバタとしていて、食器が出しっぱなしでしたね。すぐかたづけるので、座ってください」


 貧血で倒れていた女性にさせることではない。止めようとしたのも虚しく、彼女はさっとテーブルから数枚の皿とカップを流しに移動させた。二人分の朝食の痕跡。ソファに脱ぎ散らかされた靴下とパジャマ。どう見ても、夫婦二人での生活を覗いているようだ。なるべく見ない振りをして、ベルに大人しくするよう背中を撫でる。


「……旦那さんは、帰りが早いんだね」


 思わず探るようなことを言ってから、壁にある写真たてに気づいて息を呑む。そこには、夫婦二人の旅行や結婚式、風景の写真に混じって、友達夫婦が写っている。やはり、みどりは友達の娘である。


「ご兄弟はいるの?」


 やかんを火にかける音が聞こえる。「いいえ」という軽い調子の後、「どうしてですか?」

と、奥からもみどりの不思議そうな声が届いた。


「いや、知り合いに似ている子がいてね」


 大吉は、どうにかごまかしながら椅子に腰かけた。本のラックには、『終末期の過ごし方』、『死に向き合う』など死生観の本が多く並んでいる。やはり、みどりの夫は死んでいるはずだ。だが、部屋の中の生活感はまるで消えていない。なにより、彼女がごく当たり前のことのように夫の話題を出しているのだ。


「ゾンビって、信じているかい?」


 急須で熱いお茶を湯呑に注いだ彼女が、テーブルにことりと置いた時、大吉は呟くように言った。


「なんです?」


 明らかに純粋に聞き返している、みどり。その足にまとわりつく、腹を空かしたベル。旦那は本当に帰ってくるのだろうか。一度死んだ人間が、生き返ることなんて、あるはずがない。そんなのゾンビ映画の世界だ。まさか、自分がその餌食になることなんてない。そういい気かせながら、大吉は目の前のお茶を喉に流し込んだ。



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