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36 襖の奥の秘密

「凜、今日もベルの散歩に行くのか?」


 大学に行く前に、ひととおり家の家事を済ませようと、半ば駆け足で行ったり来たりする凜を追いかけながら、文太が言う。最近は、新藤が行けないことも多いので、凜と大吉が交互に行くこともある。だが、そうなると文太がこうして焼きもちをやくのだ。


「今日は、私大学は休みだけど用事があるから、おじいちゃんに頼んだよ」


 その返事だけで、満足したのが伝わる。少し前に起きた幽霊事件のせいで、文太の気持ちのバロメーターを示す尻尾が失われてしまったものの、猫にしては表情が豊かだ。


「もー、文ちゃんもそういう意地悪やめなよね。散歩なら、一緒に来ればいいじゃない」


 家事の最後として、トイレに専用の薬剤を撒いてから水を流し、手を洗う。友人の家で飼われていた生前、文太はそれなりに外へ出ていたらしい。だが、それも塀の上での日向ぼっこや可愛いメスを見つけるためで、動き回ることが好きなわけではないようだ。


「凜、早く帰ってきてね。最近、大吉が夜に一人カラオケしてうるさいんだ。三階だから誰にも迷惑かけないって、俺がいるじゃんね。見えなくても、いるじゃんね!」


 まだ文句を言っている文太を残し、凜は急いで自宅を後にした。


 ベルを連れて行かないのには、理由があった。今日は色々な場所を回りたかったことと、霊の集まる場所に連れて行って、無駄に憑かれることを避けたかったからだ。文太なら自力で振り払うのでまだしも、ベルはすぐに色んなものを連れて帰ってしまう。ただでさえ、今の事務所は色々と乱れているのに、問題を起こすのはごめんだ。まず、凜が向かったのは図書館だ。事故のことをネットで検索しても、情報がなかったからだ。ここには、過去の新聞記事まで置いてあると聞いている。老婆に聞いた、事故の時期は半年ほど前のはずだ。そうなれば、見なければいけない数もそんなに多くはない。


 市立図書館はガラス張りの近代的な建物で、平日の昼間に人は少ない。幼児を連れた母親や老人、ごく少数で勉強をする若者がいる程度だ。受付で案内されたスペースに行くと、凜は闇雲に新聞を取り出しては、事件記事に目を走らせるのだった。


 空腹を覚えて時計を見ると、あっという間に三時間以上が経過していた。昼を過ぎている。図書館の中に小さな喫茶店が入っていることを思い出し、記事をすべてスペースに戻すと、凜は館内を奥へ進んだ。


「簡単には分からないと思ったけど、こんなに大変なものなのかな」


 店員にサンドウィッチとコーヒーを注文すると、凜はテーブルに肘をついてため息を漏らした。どうにか新藤の力を借りずに頑張りたいが、やはり相談すべきなのか。迷っている凜の耳に、突如静寂を切り裂くサイレンが響いた。窓の向こうには消防署がある。そこから、一台の消防車がものすごいスピードで出動していく。どこかで、火事だろうか。


「……救急車!」


 もし、交通事故でけがをしたとしたら、救急車の要請があったはずだ。半年前であれば、救急隊員の記憶にも残っているかもしれない。凜は、運ばれてきたサンドウィッチとコーヒーを急いで胃袋に突っ込むと、図書館を飛び出した。


 消防署に行ってはみたものの、今度は受付で足止めをくらった。探偵事務所で働いているものの、事件といえば幽霊騒ぎや見えない何か。碌に調査の『いろは』を教えてもらったこともない。そもそも調査員でもないのだが、今となっては新藤の隣で数か月ぼうっとしていたことが恨めしい。


「ごめんなさいね。関係者以外に、事件や事故の情報をお伝えすることはできないので。お引き取りください」


 受付で交差点での事故を伝えると、年配の女性にあっさりと突き放される。食い下がる隙もなく、下唇を噛みしめる思いで建物を出る。記事もない、情報もない。このままでは、帰れない。そう思って表へ回ると、消防士たちがホースを使って訓練をしているところだった。先ほどの出動はしなかった人たちだろう。素早い身のこなしと大きな声に見惚れていると、一人の男性が近づいてきたことに気づかなかった。


「ご家族の方?」


 背後から声を掛けられて、驚いて振り返る。浅黒い肌に精悍な顔立ち。自分の父親とは正反対の種類だ、と心の中で思う。そして、思わず頷いてしまった。


「そうなんです! でも、消防士のみなさんの家族ではなくて、少し前に救急車で家族がお世話になりました!」


 瞬間的に口から出た嘘に、自分でもびっくりした。だが、相手は凜の嘘になんの疑問も持たなかったようだ。表情を崩して、雰囲気がやわらかくなった。


「お、そうなんだ。わざわざ来てくれてありがとう。ご家族は、大丈夫だった?」


「……いえ、亡くなりました。でも、みなさんにお礼が言いたかったのと、私は詳しいことを教えてもらえないから、知りたくて」


「そうか。残念だったね。ちなみに、そのご家族って……」


 話がどんどん先へ進んでいく。話している内容が正しいかもわからないので、答える凜の心臓は大きく跳ねていた。緊張で、口の中がからからに干上がっていく。


「おばあちゃんです。半年前に、和泉町の交差点で事故にあって。ちょっと髪もぼさぼさで、服もきれいではなかったと思います」


「え? もしかして、吉田電気店のおばあちゃんの? でも、あれは……。君って」


 急に、男の表情が曇る。自分の言った何が間違いだったのか分からず、凜の顔も固まった。警察に突き出されたらどうしよう。脳内に警報が鳴り始めた時、建物から女性が走ってきた。


「隊長―! 今、本部から電話がきて。……あれ、あなた」


 近づいてきた女性は、先ほど受付で凜を門前払いした人だ。益々雲行きが怪しくなってきた。凜は迷うことなく、頭を下げてはっきりという。


「すみません、お騒がせしました! 色々事情があって……ありがとうございました!」


 それだけ叫ぶと踵を返し、返事も待たずに消防署から走り去った。少し走って振り返った時、誰も追いかけてきていないことに、ほっと胸をなでおろす。


「吉田電気店、ね。次はここに行ってみようか」


 凜は緊張から逃れた解放感と、キーワードを手に入れた高揚感から逸る気持ちを押さえながらスマホで地図を出すのだった。


 調べてみると、吉田電気店は和泉町の老婆がいた交差点の道から三本奥に入った程度の場所にあった。外観は、かなり古ぼけていて看板もさびている。商店街とはいえ、周りの店がリニューアルしている中、時代がひとつ前にいるようだ。店の前を通って覗いてみると、照明器具が吊るされる狭い店の奥で、頭の禿げた男が新聞を読みながら座っているのが見えた。つまり、明らかに暇そうだ。


「うちに何か?」


 何度か店の前を往復した時、脇から声を掛けられる。見ると、セーラー服を着た高校生くらいの女の子だ。長い黒髪が風になびく。真っ白で細身の体から、明らかな警戒感は発せられているものの、真面目そうな印象が強い。


「あ、ともこちゃんに用事があって」


 老婆が言っていた孫の名前である。誕生日プレゼントをこの子に買うにしては大きすぎる。妹がいるのだろうか。


「……お母さんに?」


 少女が怪訝そうに、凜のことを上から下まで眺める。自分の母親を『ちゃん』付けする若者が目の前に現れたのだから当然だろう。だが、凜の方が驚いた。あの老婆は、嘘をついたというのだろうか。


「すみません! ともこさん、ですね。いや、……妹さんだと違うのかな。あれっと」


 混乱する凜に、少女が後ずさる。またここで問題になっても溜まらない。誤解される前に、一気に事情を吐き出した。


「実は私、幽霊探偵の事務所でバイトをしていて。この度、おばあさんに依頼をされました。お孫さんの誕生日プレゼントを買えなかったと後悔していて、どうしても一度」


「嘘を言わないでっ!」


 少女の声量に、驚いて止まる。凜が口ごもっていると、少女は肩で荒い息をしながら睨みつけてくる。


「何が目的なの? おばあちゃんは、死んだのよ。これ以上、私たちを苦しめないで!」


「おい、どうした?」


 からりとドアが開き、顔を出したのは店番の男だった。少女の父親だろう。だが、少女はそれに答えることなく、店の中に飛び込んで消えた。


「あいつの友達かな? ごめんね。最近、あいつも色々悩んでいるようなんだ。おばあちゃんが死んだのも受け入れられないのかもしれない。許して、また遊んでやってな」


 それだけ言うと、凜の顔も見ずにドアを閉めてしまった。何が起きたのかも分からず、凜の脳裏には、悲しげな老婆の顔が浮かぶのだった。


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