新藤の気持ちが相当落ちていることに、動揺を隠せない。今まで、両親の言い合いや大吉の暴れっぷりを目にすることはあったものの、身近な自分より年上の人間が落ち込む姿を、間近で見たことがなかった。
いつも、大人は自分にアドバイスをくれて、励ましてくれる存在だった。それは母親との関係も同じだ。たとえ弱い部分を見せられたとしても、そこを真っ向からぶつけられたことはない。暗に、弱さは相手をけん制するための道具であり、すぐに立ち直るのが、大人だと思っていた。いつか、自分もそうなるのだと。でも、どうやら違ったようだ。
「わんっ!」
新藤が自宅から持ってきた家族のアルバムを事務所で眺めていると、ベルがソファに飛び乗ってくる。凜の膝に両足を乗せて、抱っこをせがむように体を押し付けてくる。自分のことをまるで子犬とでも思っているのだろうか。
「分かった、分かった」
ベルの胴に軽く腕を回して抱き寄せると、アルバムのページをめくる。新藤の妻である理沙は、想像していたよりもボーイッシュだった。小柄でどんぐり眼、笑うと八重歯がのぞく可愛らしいタイプだ。新藤の趣味に意外さを感じながら、どこか胸がもやっとする自分を押さえられない。アルバムをさかのぼっていくほど、新藤の家族をのぞき見している気分になる。
調査のためにも、自由に見て欲しいと許可はもらっているものの、子どもが生まれた産婦人科であろうベッドの上での二人の笑顔を見て、そっとアルバムを閉じた。これ以上は、今は見たくない。心配そうに胸元で凜を見上げるベルの頭をそっと撫でる。
「よし、気分転換に散歩でも行こっか!」
朝から事務所にいても、依頼人は一人も来ていない。いつでも事務所のカギは開けっ放しだ。もし用事があれば、中で待っていてくれるだろう。散歩、という単語にベルが嬉しそうに飛んだ。その瞬間、右足がテーブルの上のカップを引っかける。短い陶器のぶつかる音がして、中の飲み物がこぼれる。
「あぁっ! ちょっと布巾を持ってくるから、まっていて!」
流しから戻ると、余計に興奮したベルが、オレンジジュースのついたアルバムの端っこを舐めている。それを引きはがし、さらに布巾で慌てて拭く。写真が濡れなかったかと確かめるように数枚めくると、凜は少しだけ違和感を持った。テーブルを拭き終わると、まとわりつくベルをなだめながら、数冊積まれたアルバムをあちこち眺めてみる。やはり、そうだ。
「理沙さんの家族写真はあるけど……。ねぇベル、どうしてあんまり子供の時の写真がないんだと思う?」
ベルが、困ったように首を傾げてから、部屋の隅に走っていく。アルバムのほとんどは大学生の時のサークルで行ったであろう旅行の写真や、新藤と家族になってからのものだ。小さい頃の写真はあるものの、多くはない。凜の実家では、母親が分厚いアルバムに写真を貼って、脇にコメントの紙までつけている。それがうざったいと思いながらも当然だと信じていた。記憶がないのだから、親がしてくれて当然だと。
自分の中で答えが出ぬまま、ベルが駆け戻ってきて鼻先で背中を押す。見ると、口元にリードをくわえている。
「ごめんごめん、行くよ」
事務所の階段を駆け下りて、街に走り出す。散歩のコースは特に決めていない。時間は大体1時間。ベルは外が好きな上に、体力を使っておかないと事務所で走り回ってしまう。できるだけ、一番体力のある凜が多くの距離を歩くようにと暗黙の了解があった。
「どこから行く? 途中で洗剤も買いたいし、ドラッグストアに寄っていいかな」
ベルが前を歩きながら、答えるように高く尻尾を振る。少し歩いては振り返り、凜と目線を合わす。利口でコミュニケーションがとりやすい。凜が笑顔を向けると、ベルは嬉しそうに口を開けて涎をたらすほど笑う。そして、ベルのトイレも済ませて、買い物を済ませた凜とベルの散歩が終盤を迎えた時だった。
突然、凜の耳に男性の大声が飛び込んできた。
「危ないっ!」
同時に、横断歩道の右方向から乗用車が走り込んでくる。目の前には、今にも転びそうな老婆の姿。思わず手を伸ばそうとした凜の体が、後ろにぐいっと引っ張られる。目の前を、ちかちかとした閃光が走り、足を止める。
「わんっ! わんっ!」
瞬きをして目を開けると、横断歩道の青信号が点滅している。どうやら、凜の力で過去の残像を共鳴してしまっていたようだ。駆け足で横断歩道を渡り切ったところで、今度は眩暈がした。右方向に体が崩れそうになって、電柱に手をついた。すれ違う人が心配そうに、しかし一瞬だけ視線を投げてくる。
「ベル、待ってね」
急に喉元に吐き気まで込み上げてくる。これは、強烈だ。ぎゅっと唇に力を入れて結ぶと顔を上げた。やはり、である。凜の視線の先にいたのは、一体の幽霊である。それを見てから、ふいに新藤の言葉が脳裏に蘇る。あれは、絵画教室の講師が相談に来た時期だっただろうか。まだ凜も事務所を手伝い始めてすぐの頃、呪われた絵のせいで文太も散々な目にあった。
「和泉町の、コーヒーショップの角の横断歩道は気をつけろよ。変な老婆の悪霊がいるから。なるべく通るなよ」
日々、こんな注意事項は共有しているものの、ご飯を食べながら話すことも多く、メモにまとめているわけではない。実際に見つけて後悔するのも、仕方がない。無意識に霊に吸い寄せられるように近づいていくベルのリードを勢いよく引くと、凜は方向を変えて歩き出す。
「ベル、ダメよ。見たでしょ、あの霊。両足がないのに立っているんだよ。それにすがりつくような顔。ろくな目に遭わないって。お年寄りに優しくっていうのは知っているよ。でも、それは生きている人間限定ってことで合っているでしょ?」
自分に言い聞かせるように話しながら進むが、まるでベルは肯定するように首を縦に振る。凜を見上げて笑顔を見せ、一声鳴いた。
「……うーん……。どうしてこう、見なかった振りって後味が悪いんだろうね」
足を止めて、数秒悩む。お座りをしていい子に待つベルの頭を撫でて、凜は溜息をついた。くるりと踵を返し、霊の前で足を止めた。すがるような瞳だった老婆が、嬉しそうに微笑んだ。一瞬、さっきまでの霊への嫌悪感を忘れそうになる。
「通りすがりの感じる人に対して、悪意のある訴えをするのは止めてくれませんか」
だが、気を許してはいけない。強く意見をいいつつ、ベルを近づけないようにリードをしっかりと自分の体の側に引っ張る。それでも、力のある霊なのだろう。小者を引き付けてしまうのか、老婆の背後からカエルのような動きをする小さい霊がぴょんっと跳ねだしては、ベルの体に乗ろうとする。
何も感じずに笑顔でいるベルの代わりに、凜は数回、それらを払い落とすように尻を叩く。キュッと耳障りな破裂音を残して、それらは一瞬消えるが、気づくと老婆の背後に戻っているようだ。これでは堂々巡りだ、早く離れよう。再びそう決めて歩き出そうとした凜に、老婆が声を掛ける。
「ごめんなさいね。どうしても、気づいてほしかったの……時々気づく人はいるけれど、無視して行ってしまうから……」
凜の脳裏に、原付で走り去る新藤の絵が浮かぶ。それは、あれだけ異様なオーラを出していれば当然だ。
「あなた、早く成仏した方がいいよ。っていっても、ここを離れられない地縛霊みたいだけど」
「わしは……っ! 心残りがあってあの世には行けないんだよ!」
涙の混じったような声に、思わず振り返る。老婆は下を向き、両足をさすっている。乱れた髪と汚れた服。彼女は、どのような生活をしていたというのだ。
「……心残りって?」
凜の言葉に、瞬時に老婆が顔を上げる。輝く瞳に、もはや嫌味はない。
「聞いてくれるんか!」
「……私、幽霊を扱う探偵事務所でバイトしているんだ。そこの探偵は、霊がこの世にいるのは理由があるって、口癖だから」
「そうなんだ! そうなんだよ!」
身を乗り出すように訴えてくる姿が、なんとも奇妙で気味が悪い。どんどん関わっている自分を止めようとするが、老婆は話し出した。
「実は、ここで事故にあったのは、孫の誕生日プレゼントを買うためだったんだ」
「え、おもちゃを買おうとしたの? 事故にあったってことは」
「未だに、渡せていないんだ。きっと、孫も寂しがっていると思うんだよ。だから、孫にどうしても謝りたくて……」
凜は、一気に目の前の老婆が可哀そうになってきた。それを悔やんで、事故の現場でずっと悲しさを抱えているというのか。もしここで孫に会って満足するのであれば、老婆にとってもいいことに違いない。たとえそれが孫には見えていなくても。
「分かったよ。それじゃあ、……おばあちゃんの家の住所を教えてくれない?」
凜がそういうと、老婆は這うようにして近づいてくる。思わず後ずさりして両手で押しとどめる。
「大丈夫! ハグとかはいらない! 住所を教えて!」
さすがのベルも怖かったのだろう。尻尾を巻いて、凜の背後に隠れてしまった。常に陽気だけれども、肝心な時には絶対に役に立たないだろうと心に刻み込む。老婆は残念そうに肩を落とし、さらに申し訳なさそうに続けた。
「実は、事故の前からの記憶が曖昧なんだ……。孫も顔は覚えているんだけど、名前は……。ともこ、だった気がするんだが」
交通事故があったのであれば、ネットニュースや新聞で分かるだろう。現場ははっきりしているのだ。家族の名前さえわかれば、あとは家に行って孫に事情を伝えればいい。自分の祖母がこんな風に後悔をしていると知れば、きっと孫も泣いて悲しむに違いない。
「分かったよ。それじゃあ、調べてから、また来るから。それまでは、この横断歩道で悪さなんて絶対にしないでよね」
凜が厳しく言うと、老婆は首が折れそうなほどに強く何度も頷いた。凜はベルのリードを引っ張りながら散歩を再開しつつ、再び憑いた小者を落とそうと尻を数回叩いた。