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32 笑う亡霊

「文太! おい、文太」

 新藤がゆっくりと声をかけると、ふわふわの毛並みの美男猫がそっと目を開けた。オッドアイの瞳がぼんやりと新藤を見上げ、そして顔に力が入る。自分が探偵事務所のソファにあるクッションに寝かされていることに気づくと、早速毛づくろいを始めた。

「文太、分かるか? 何があったんだ一体。凜! 文太の目が覚めたぞ」

 新藤の声を聞いて、遠くから凜とベルも駆け寄ってくる。それでも、肝心の文太は一向に口を開かない。もしかして記憶がなくなってしまったのではないかと思い、確かめる。

「悪いな。さっき録画のビデオを見ていてな。文太の好きな探偵園城寺の最終回、消しちゃったんだよ」

 新藤が言うより早く、文太が跳ね起きる。怒りを表すように毛を逆立てる。

「どうしてだよ! 俺、あれを楽しみに昨日の夜だって……」

 そう叫んだ文太は、新藤だけでなく驚いた表情の凜とベルを前にして、気まずそうに座りなおした。そして、ぽつりとつぶやく。

「霊なんて、所詮誰かの邪魔になる存在だって、思ったんだよ。だから、俺だって」

「文ちゃん! どうしてそんなことを言うの」

 凜が、文太以上に怒りを露にする。確かに、倒れている文太を事務所になんとか連れて帰った新藤を見て、凜は悲鳴を上げていた。霊が意識を失うことなんて、新藤だって初めて見た。事故や殺意ではそうならない。きっと、霊同士のもめ事だったのだと推測していた。

「いびつな三角関係を見ちまったんだよ。ある女はいつまでも死のうとするけど、死ぬ気はないし。そんな女をずっと助け続ける男の霊は、自分がどんどん悪霊になっていくのに気づかないし。さらに、二人と一緒に自殺しようとした男は、女が死んでいないことを恨んで成仏しないし。さらに、それでもこの世にいることで不安定になって助けを求めているし……」

 新藤が耳を傾けつつ先を促すと、文太はいつになく力の弱い声で自分が見てきた一部始終を語った。一階のテナントの妙な音は、不安定な男が放つモールス信号『SOS』だということも。

「でも、誰しもきっと後悔ってあるはずだろ? みんなが思いを伝えて死ぬわけじゃないんだ。確かに、その後に霊になってしまうことをどう思うかは、それぞれ意見が違うと思う。ただ、俺たちは文太が霊で可哀そうなんて、これっぽっちも思っていない」

 新藤は、ずっと視線を落としている文太に強く言い切る。ゆっくりと新藤を見上げた文太の瞳が、少しだけ潤んでいる。

「でも、……でも俺もどうして自分がここにいるか分からないんだ。もし、何かがあって、俺もあんな風に……なってしまったら。きっとみんなに嫌われて」

 文太が気にしていたのはそこだ。いつか、自分が悪霊になって誰かを傷つけてしまうことが不安になったのだろう。ここで時間を過ごすようになって、お互いが大切な存在になりつつあるのは、新藤にもよくわかった。すると、いち早く凜が動いた。今にも泣きそうな文太を両手で抱きしめると、赤子をあやすように背中を小さく叩く。

「大丈夫。その時は、私がきっとなんとかして守ってあげるから」

 新藤が言うことは、もう何もなかった。凜の温かさで、文太も落ち着きを取り戻していく。ゆっくりと体を舐めて毛づくろいしていると、ふと動きが止まった。

「あ、気づいた? それに関しては、俺たち可哀そうだと思っているよ」

 新藤が、少しだけ苦笑いをして言った。文太の動きが止まる。それだけ、ショックなのだろう。

「いや、それもあって何があったのかな、と。文太のふさふさの尻尾、俺も大好きだったんだよ。でも、今のも可愛いよ。お尻の根元からほとんど、尻尾がなくなったけど……」

「あ、あ……あああああ。ふざけんっなよ!! あいつら!」

 事務所の中に文太の叫び声が響き、それに反応したようにベルの遠吠えがしばらく続いたのだった。

「とはいえ、文ちゃんが無事でよかったよね」

 新藤は、凜が入れてくれたコーヒーを受け取り、ソファに並んで座った。文太とベルは、今夜は二人仲良くくっついて眠ることにしたようだ。事務所の奥に新藤が作ったベッドスペースに、二匹が寝そべっている。ベルのおかげで、文太も尻尾がなくなったことを少なからず受け入れたようだ。聞けば、二つの霊がぶつかり合って幽体爆発した瞬間、逃れようと背を向けたが波動を浴びてしまったらしい。尻尾と気を失うだけで済んだのは、もはや幸運だった。新藤が現場の騒ぎに気付いて姿を見せた時には、道路脇に吹き飛ばされて転がる文太だけがいた。そして、道路では、車に轢かれた女性が全身から血を流していたのだった。

「その女の人、今回も旦那さんが助けてくれるか試したくて、飛び出したのかもしれないね。でも、とうとう……。SOS男が邪魔をしなければ助かったのに」

「いや、遅かれ早かれ。むしろ、旦那に直接呪い殺される日も近かったんだと思うよ。むしろ、男は待っていたのかもしれないな。その瞬間を間近で見届けるのを」

「それにしても、こんな身近なところで自殺サークルとか、止めてほしいね」

 凜は、まだ何かに怒っているようだ。

「一階のオーナー大丈夫かな。いや、俺だって依頼でもないものに首を突っ込む主義じゃないさ。だから、今回だってあの女の自殺未遂なんて関係ないって」

「本当にそうなの?」

 新藤は、いつもより鋭い声の凜に戸惑う。何が言いたいのか、よくわからないのだ。

「新藤さんが、その女性の自殺未遂に関わりたくないのって、奥さんが関係しているんじゃないの?」

「……何が言いたい」

 テーブルにカップを置き、今度は新藤がゆっくりと低い声で問う。その真剣さが伝わったのか、一瞬だけ凜は怯んだ。しかし、諦めなかった。

「私、ごめんなさい。ずっと気になっていたの。机の引き出しに、新藤さんが写真を大切に置いているのも、時々ここで寝ながら泣いているのも」

 急に、かっと体が熱くなる。だがそれは怒りではなく、恥ずかしさだった。誰にも知られていないと思っていたのに、こんな一回り以上下の学生に気を遣わせていたのだ。

「悪い! 俺、情けないな。大丈夫、今度からそういうのは見せないっていうか、気にするな」

 制止するように、右手の手のひらを凜に向ける。だが、そんな冗談も通じないようだ。

「待って! 新藤さんも大人でしょ。さっきの文太みたいに、素直になりなよ。……って、私も人のこと言えないんだけど。でも、あの事務所に来た人も、どうするの? 探すの? 私たち、もう仲間でしょう。少しでも荷物があるなら、私にも持たせてよ!」

 凜の真剣なまなざしに、ふと新藤の肩の力が抜ける。どうしてこうも、いつも人に導かれてばかりなのだろう。いつになったら、きちんと大人になったと自信がもてるのだ。新藤は、大きく息を吐いた後、静かに話した。

「文太はすごいな。さっき、俺がいったのは自分に向けてだったのかもしれない。誰しも、きっと後悔はあるよな。まさに、それは俺のことだよ。俺の嫁、理沙は一年と少し前に死んだ。交通事故ってことになっているが、最近妙なことが分かって。どうやら、俊太と一緒に何かを調べていたらしいんだ」

「え、俊太さん……?」

「あぁ、まだ本人には確認していない。でも、死ぬ半年前には、二人があちこちで一緒にいるのを目撃されている。まだ、あいつには確認していないけど、きな臭いんだ」

「まさか、何か疑っているの? 実は、……これいうなって言われているんだけど。晴人君のことを聞いたの。亡くなる前に、週末遊ぶ約束だったことも」

 新藤は、やはり凜が知っているのかと確信をもった。最近、どこか自分に対して気を遣っていたのは、このせいだったのだ。

「仲は良かったからな。でも俺の後悔は、そこじゃない。理沙が死んだ時、俺たちは滅多にしない喧嘩の真っ最中だったんだ。くだらないことに、俺が怒って……」

「そんな……」

「家の片付けとか、晴人のアルバムの整理とか、俺の実家のこととか。よくある些細な夫婦喧嘩さ。それまで喧嘩なんてほぼしたことなくて、俺はちょっと嬉しくもあったんだ。でも、仲直りの仕方が分からなくて。気づいたら、数日理沙が家を空けて……そのまま」

 凜が隣で息を呑む気配がした。人に同情されたくない。思い出したくない。後悔したくない。だから、誰にも話したことなんてない。それなのに、なぜ漏らしたのだ。新藤の心臓がきゅっと痛み、目頭が急に熱くなった。込み上げるものを堪えきれず、大きく息を吐くとうめき声が漏れた。そのまま、頬を大粒の涙がこぼれる。

「あの女は、生きられるのに逃げたんだ。理沙は、俺たちはもっと家族でいられたはずなのに。俺、悔しくて……。だから、今は霊と関わりたくなんてない。俺は、理沙と晴人に会いたいだけなんだ。俺を許してくれるなら、俺を」

 今まで誰にも打ち明けてこなかった後悔を吐き出すと、ふっと背中に温かさを感じた。新藤は、子どものように膝を抱えて丸くなる。涙が膝を濡らし、肩が震える。葬儀でも、こんなに泣くことはなかった。背中を、ゆっくりと優しく小さな手が撫でる。

「事務所に来たのは、理沙の父親だ。あいつは、父親をずっと探していたんだ。俺は、その問題も片付いたのだと勝手に決めていた。どうして、父親がここに来たのか分からない。でも、俺は探し出してやる……。理沙は、理沙を」

「うん、うん。少しずつ解決していこうよ」

 凜が優しく撫でる手のひらで、少しずつ新藤の気持ちが落ち着いていく。

「……フルーツポンチ、うまかったよ」

こんなところを大吉に見られたら、殴られるか、笑い飛ばされるか。そんな考えた脳裏をよぎった時、部屋の隅で寝ている文太の、珍しいにゃあという寝言が部屋に響いた。


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