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31 笑う亡霊

 最近は天気がぐずつき、湿気が多い。文太は自慢の髭を丁寧に撫でながら、顔を洗う。ベルは相変わらず、一人で事務所の中を走り回っているので、顔を洗ったら棚の下に降りてからかってやろうと決めていたところだった。

 今日も、事務所のドアを開いて客がやってきた。ここを訪ねてくる者は、年齢も性別も、身なりもバラバラだ。でも、今回の客は特に変わっていた。大きなリュックを背負い、かなり日焼けしている。まるで山登りでもしてきたような大男で、顔がほとんど隠れてしまうほど髭を蓄えている。視線は鋭く、事務所内を素早く見回した。視えないと分かっていても、文太が机の隅に体を寄せるほど、男がまとうオーラは危険さを孕んでいる。

「誰かいないのか」

 呼びかけるより、呟くに近い。男は、事務所に入ってくることなく踵を返そうとした。その時だった。小さく悲鳴が聞こえ、壁に大きくぶつかる音がした。

「すみません! ちょっと留守にしていて。ご依頼ですか?」

 ぶつかったのは、凜のようだ。

「新藤はいないんだな。……いいか、俺のことは誰にもいうんじゃない」

 男は脅すように言うと、凜の回答を待つことなく階段を駆け下りて行ったようだ。文太は陰からするりと身を出すと、体制を低くして男の背中を目で追いかける凜に駆け寄った。

「凜! 大丈夫か」

 よく見ると、凜は両手で銀のボウルを持っている。中身がこぼれ、ジーンズが少し濡れている。それもあってか、凜の声には怒りが滲んでいた。

「何よ、あの失礼な男! 見てよ! せっかく作ったフルーツポンチがこぼれちゃったじゃない! もう、新藤さんの体調が良くないっていうから持ってきたのに。とりあえず、冷蔵庫入れておこうかな」

「本当だな。失礼な奴だ。でもな、凜。こんなに尽くしても、あの男だって礼のひとつも言わないじゃないか。俺が、一番凜のことを考えているんだからな? 分かっているか?」

 格好つけて言った文太だったが、すぐに込み上げてくる衝動に耐えられず、毛玉を吐き出した。げげ、という音にベルが反応して走り込んでくる。踏まれたからといって、汚れるものではないが架空の吐しゃ物の散乱に、凜が肩を竦めるのが見える。今日の凜は調子がいいようだ。彼氏と仲直りしたのかもしれない。でも、文太がそれをさりげなく問いただそうとすると、事務所のドアが開いた。今度こそ事務所の主である新藤のお出ましだ。

「お帰りー」

 凜が奥の流しから声を掛ける。新藤は、朝から自宅に戻って用事を足すと言っていた。やっと戻ってきたその手には、何冊もの分厚い本らしきものが積まれている。新藤の姿を見て興奮したベルがその足にまとわりつく。そして案の定、それらの本が新藤の手から数冊零れ落ちる。見かねた凜が、手伝おうと駆け寄ってきた。そして、顔色が変わる。文太もそれを覗き込んでみると、何やら色んな人物が写っているようだ。

「写真……。もしかして、この子が晴人くん?」

 凜の言葉に、アルバムを取ろうとした新藤の手が止まる。

「なに、誰! 晴人って。ねぇ、凜。俺にも教えて!」

 文太が甘えて凜の膝に両手を乗せて立ち上がってみるも、視線は新藤の顔に注がれていて悔しい。しかも、再び凜が別のアルバムに手を伸ばすと、さらに顔色が変わる。

「……この人」

「そうだよな。俊太も時々会うし、嫌でも聞こえたかもしれないな。いや、隠すつもりはなかったんだ。でも、わざわざ俺の暗い過去を話すこともないから。そうだよ。これが俺の奥さんの理沙と、息子の晴人」

「あ、家族が会いに来たってことだったんだ。ごめんなさい、知らなくて。帰っちゃった」

「なんだ? 確かに、家に帰っていたけれど、理沙も晴人も……もういないんだ。だから、ほとんど事務所で寝泊まりする生活をしていて。なんか、今更だな」

 そう言って軽く笑う新藤をよそに、凜は怪訝な顔をする。文太は、凜の視線を辿って気づいた。

「なんだ、さっき来たオヤジじゃん。これ、もっと若くね? うわー、老けるって残酷」

 文太の言葉を待たずに、新藤が身を乗り出す。文太を押しのけるようにして、凜の手元を覗き込んだ。

「オヤジ? さっき来たって。どれ! ここに俺の家族は写っていない」

 新藤の剣幕に若干おびえた様子の凜も、戸惑いながら写真の男に指さした。

「確かに、この写真ってすごく古いよね。……もしかして、これって」

「理沙の父親だ。これは、理沙が子供の時の誕生日会の写真だろう? 家のアルバムを持ってきて良かった。って、この人が……来た? いや、そんなことあるはずがない」

「どうして? 久しぶりに会いに来てくれたんじゃないの? なんか急いでいたっぽいけど」

「……理沙の父親に、俺は会ったことなんてない。あいつが中学生の時に、父親は姿を消しているんだ。母親も亡くなっていて、口には出さなかったけれど寂しかったと思う。でも、他に親戚もいなくて、とうとう理沙の葬式にも呼べなかった。それが……どうして」

 新藤は独り言のように呟くと、順次に立ち上がり持っていたアルバムを投げ出すと事務所を飛び出していった。きっと見つかるわけはない。でも、そうしないと気が済まないのだ。凜は、新藤が投げたアルバムを拾うと、テーブルに乗せる。そして、一人静かにページをめくっていく。その顔がどこか切なくて、文太は凜の背中に寄り添うのだった。

 結局、新藤が戻ってこないので、文太はさらし首の霊が気になって事務所を出た。自身も霊体である文太が、同種を見つけることはそんなに難しいことではない。いつもと反対方向に何かを感じたので向かおうとすると、急に一階の美容院から悲鳴が聞こえた。中を覗くと、あの奇妙に甲高い声を出す女が、耳を塞いで床に座り込んでいる。よく見ると、店の奥に青白い男の霊が壁にへばりつくようにして立っていた。そして、壁に指を当てて叩き、次に拳で壁をこするように動かしている。

「おい、何をしているんだよ」

 思わず、店に入って声をかけずにいられなかった。女は、もはや金切り声を出して叫んでいる。それだけで人が来そうだ。『コンコン……』霊は、女を凝視しながら壁を叩く。そして再びこする。『しゅー、しゅー』。まるで助けを求めるように、繰り返す。

「おいって! 意味のないことはやめろ! 口で言え」

 文太が半ば叫ぶと、青白い顔をした男は薄く笑った。

「これ、モールス信号なんだよ。これは、助けてっていう意味。僕たちは、誰かに言葉で伝えられないけれど、音だったら聞こえるでしょ? この人、僕が死ぬ前に付き合っていた女の人なんだ。僕のこと、支えるって。助けるって言ってくれたのに……」

「なんだ、それ。お前とこいつだと、親子くらい年が離れて」

「うるさい! うるさいうるさい! お前も、幽霊のくせに。親と同じことを!」

 男の幽霊は、文太にそう怒りをぶつけると、より早く壁を叩く音を刻む。女は悲鳴を上げて部屋を飛び出して行ってしまう。それを見て、男の指に力が入らなくなったようだ。

「ほら、見ろよ。外はどんより曇り空。俺たち幽体にはもってこいの天気だ。どうだ、俺と一緒に気晴らしにでも行かないか?」

 あわよくば外に連れ出して、二度とこのビルに入れないようにしたかった。あの女のことだ。神主や坊主を呼んで、無駄にお祓いでもされようものなら、自分の身が危ないかもしれない。文太の言葉に、男の霊は意外にも興味をもったようだ。根本的に、誰かに依存したい体質なのかもしれない。

「……いいの?」

 若干、その顔に浮かぶ微笑みに怖さを覚えたものの、店を出ようとすると男の表情が変わった。

「あいつ……! まだ生きているのかよ」

 文太が外に目をやると、そこにはあのさらし首の姿がある。同時に、少し前を歩くのは妻である。妻の表情は晴れやかに見えるが、背後のさらし首は、もはや顔さえ口から下がかすみ始めている。さらに問題は、この間までは白い靄だったのに、今では色がどす黒く変化し始めている。

「お前、あいつを知っているのか?」

 男が微かに頷いた。さらし首と妻は会社で出会ったといった。もしかして、この男も同じ場所にいたのかもしれない。文太にとっては、あの黒い靄が気になった。色の変化は心の状態を表している。このままでは、あれは悪霊にもなり得るタイミングに来ている。どうやら、この霊はさらし首がこの世にいることを妬んでいるようだ。会わせないほうがいいかもしれない。そう考えた時だった。男の霊がすっと文太の前を素早く通り抜けて、店を飛び出した。

「あっ! おい、待て!」

 霊がぶつかり合えば、街中で不可思議な事故が起きる可能性は高い。どうにかして、それは止めたかった。

「くそっ!」

 文太も慌てて追いかける。追いついた時には、周囲で小さな騒ぎになっていた。思ったとおり、交差点でつむじ風が起きていたのだ。原因はもちろん、霊体のいざこざである。

「お前、もういい加減にしろよ!」

 男の霊体が、晒し首の黒い靄にまとわりついている。そして、二体が渦を巻くように絡まり合い、風が巻き起こっているのだ。これが大きくなったら、周りの人間に被害がでかねない。散歩の時間なのだろう。保育園の子どもたちが叫び、保育士の女性たちが抱きかかえるように避難している。

「放っておいてくれ! これが、俺の使命なんだ」

「そんなわけないだろう。お前の嫁は試しているだけだ。そんなことでしか、愛情を確かめられない、碌な奴じゃないんだ」

「お前に関係があるか! 同じようなものだろう。お前も結局、死んでいないじゃないか」

 文太は、ヒートアップしていく二人の間にジャンプをして割って入る。驚いたように、二人は一瞬離れて、風が収まる。

「お前たち、知り合いか?」

 いがみ合うように距離を保つ二人。さらし首は文太に気づくと、はっとした顔をする。

「君にはこの間話しただろう。俺と妻は、自殺をしようとした。だが、その時にこの男もいたのさ」

「そうさ。僕たちは、自殺サイトで意気投合してね。一緒に死のうと決めたのに、お前の嫁は生き残った。なぜか知っているか? お前の嫁は、薬なんてほとんど飲まなかったんだよ! 俺は最期のあの時気づいて、どうしても許せなかった。騙されているお前が!」

「放っておいてくれよ! それでも、いいんだ。俺は、あいつが笑って生きていくのが嬉しくて」

「んじゃ、どうして今のお前は、黒く姿を変えようとしているんだ?」

 二人の言い合いを聞いていた文太が、冷静に割り込んだ時だ。辺りにより一層大きな悲鳴が響く。同時に、車のブレーキ音。続いて、どんっと鈍く重い音がした。文太が振り返った時、花柄のスカートをはいたさらし首の妻が、道路の真ん中で横たわっていた。

「ざまーみろ」

 文太は、危険を感じてその場を去ろうとした時、背後で男が呟いた。

「う……うおおおおおおおお!」

 振り返った文太の目に飛び込んできたのは、さらし首が叫ぶ声。そして、あんなにも妻を守りたいと思った男の笑顔だった。辺りに突風が吹き、辺りの人々は身を低くするのだった。



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