熱を出してから、どうも調子が戻らない。いつもはすぐそばを霊が通るだけで察知できるのに、今は何も感じない。昨夜は、一階のオーナーに音の苦情を言われて降りたものの、何も聞こえなかった。つまり、もちろん二階の騒音ではない。さらに、普通の人では聞こえるような心霊音まで失ってしまっている。それだけ、体調が悪いということだ。通常の人であれば、精神的に下降した時に霊現象などを感じ取るはずだ。しかし、新藤は逆だった。元気な時ほど敏感に霊の存在を感じ取り、精神や体調面に支障をきたしている時ほど、無音になる。新藤にとっては、これが大きな問題だ。なにせ、商売あがったりだからだ。
痰の絡まったような咳を数回すると、洗面台でうがいをする。とりあえず、昨夜は適当に謝ってどうにかなったが、この状態で依頼人が来たら仕事にならない。文太から聞くところによると、自殺未遂を繰り返す女性は、元夫に守られているために問題はないだろうということだったが、気にならないと言えばウソだ。だが、晴人の成長を一緒に見守りたかったのにも関わらず、意図に反して死んでしまった妻を思うと、あんなにも簡単に命を投げ出そうとする女性に、積極的に関わりたいとは思えなかった。
仕事にならないのであれば、事務所にいても仕方がない。夏の終わり、秋の入口で天気はどんよりとしている。今にも雨が降り出しそうな曇り空だったが、新藤はビルの下に止めてある原付に跨った。こんな時は、田舎道を走るのが気分転換になる。人混みから少し離れた田んぼ道を目指す。途中、ぽつり、ぽつりと雨音がヘルメットを鳴らし、目的地に到着する頃には地面が濡れて色が変わり始めていた。
「おお、なんだ連絡も無しに。珍しいな。雨が降っているのか。おっと、洗濯物をしまってくるから待っていな。早く上がれ」
店先で佇む新藤を引き入れると、店主は駆け足で奥に引っ込んだ。絵画に引きずり込まれた文太を助けるため、ここを訪れたのは少し前のことだ。短期間で店の中の商品はそれなのに変わったようだ。それが売られたのか、葬られたのかは定かではない。だが、テーブルに置かれた万年筆に手を伸ばした時、鋭く低い声が飛んだ。
「触るな!」
びくり、と思わず手が震える。ほぼ同業者としては、迂闊だった。ここにあるもので、『普通』ということはない。お互いのためにも、気を付けなければならないはずだ。
「ほら、早く上がれって。タオルで拭かないと風邪ひくぞ。って、お前もうひいているな?」
謝ろうと振り返った新藤に、冗談で場を和ませたのは店主である善だ。答えるように数回咳をした新藤は、靴を脱いで廊下へ上がる。そのまま、奥の和室へと慣れた様子で進んだ。ここは、骨董屋と称して様々なものを扱う店である。良いものも悪いものも置いてある。少年時代に親戚の叔父に連れられてここへやってきた新藤は、善の話の面白さに取りつかれ、その後も一人で通い続けている。もはや、善も親戚のような感覚だ。
「体調が悪そうだな」
ポットから急須にお湯を入れると、善は二人分の湯呑に茶を注いでくれる。一年中出しっぱなしの炬燵に足を入れて、新藤はテーブルに顔を伏せた。
「俺、今何も感じないんだ。こんな気分、理沙と晴人がいなくなって以来だ」
ことり、と側に湯呑が置かれ、ほんのりとお茶のいい香りが漂った。ずず、とすする音がした後、善が静かに言う。
「そうか」
「理沙が死ぬ前に、何かの事件を追っていたみたいなんだ。でも、そんなこと俺は知らない。あいつが死ぬ前、大学で俺の親友と真剣に話している姿を見たやつがいるんだ」
新藤が顔を上げると、数センチ先に善の顔があって、驚いてのけぞった。
「お前、理沙ちゃんを疑っているのか? 今更か」
鋭い突っ込みに腹が立つ。新藤は認める。そうだ、これは疑いであって、嫉妬だ。
「だって、理沙はいつもそうだった。俺の前では決して泣かないのに、大学の時だって俊太の前では涙ぐんでいた。何をしていたのかも、俺はまるで知らない。ましてや、そいつを夫と人に紹介していたなんてっ!」
気持ちを抑えきれず、新藤は拳でテーブルを叩く。湯呑が音を立てて揺れ、少しだけ茶がこぼれた。善はビクともせず、静かに茶を飲んでから言った。
「お前、聞こえないって言ったな。何があったのか詳しくは知らん。でも、『霊は理由があってこの世にいる』って言っているのはお前だろう。視えない俺なんて、聞こえなくてラッキーだ。でも、お前は違うだろう。聞こえないんじゃない。聞こえるのに、聞こうとしていないだけだ」
気づけば、窓の外の雨音は激しくなっている。ガラスに打ち付ける一定のリズムが、新藤の脳内を余計に空虚なものにする。霊の声を聞いて、誰かを救えると信じていた。あの日、あの自動車事故の犯人は捕まった。信号が青になって走り出した車の前に、急に飛び出したのは理沙だ。だが、そこに晴人の姿はなかった。そして、今も見つかってはいない。晴人の荷物と残された目玉。だが、新藤はどこかで晴人は生きていると信じているのだ。それを探るためにも、霊や事件の近くにいる必要があると確信している。
「俺が、あいつらの話を聞こうとしていなかったって言いたいんだろ」
新藤が、善に悪態をついた瞬間、ガラスに光が走る。数秒遅れて、地鳴りのような音が響いた。どうやら、近くに雷が落ちたらしい。
「なんだよ。酔っぱらっているのかよ。絡むな、面倒くせぇ。何しにきたんだ、お前」
雷の爆音と、あまりにも的を得た指摘に、新藤も片手を挙げて謝った。
「悪い。善さんの顔が見たかっただけなんだ。……あと、ちょっと話はきいてもらいたかった。あーあ、嫁を守るって、あいつみたいなことを言うんだろうな」
新藤の脳裏に、自殺しようとする妻を、身を挺して守る霊が思い浮かぶ。すると、勢いよく頭を叩かれて、テーブルに顎をぶつけてしまった。再び、雷鳴がとどろく。
「なにするんだよ!」
「馬鹿野郎! 俺だって、この店のせいで嫁さんを呪い殺しちまった口だ。あのなぁ、人を一人守るとか幸せにするなんて、簡単にできねぇんだよ。雷に当たる確率なんかより、不幸にしちまうことのほうが倍率高いんだよ。辛い泣き顔じゃなくて、幸せそうな顔を覚えていてやれ。守っていると思っている奴の方が、守れていなかったりするんだよ」
善の言葉を飲み込めずに眉間に皺を寄せていると、善はぐいっと湯呑を飲み干した。そして、汚いものでも叩くように炬燵の布団を叩く。
「湿気ったせんべいみてぇな野郎だな。今日は帰れ! 俺には手に負えねぇや。これから、客もくるんだ。そんなに霊視ができねぇなら、そろそろ実家に顔でも見せてやれ。あぁ、実家って寺の方だぞ。叔父さんが、寂しがっているに違いないだろ」
この話になると、逆に新藤の方が居心地悪くなる。早々に腰を上げると、店を後にする。まだ雨は降っている。雷もなっている。だが、少しだけ気持ちが楽になった気もした。もし、理沙が何か事件に巻き込まれていたのだとしたら、それを調べる必要がある。もし、自動車事故も偶然ではなかったら……。理沙が、何かから逃げて飛び出したのだとしたら……。そう、逃げてはいられない。新藤は、近々俊太に会おうと決意した。そしてその前に、妻を助けるという霊の姿を見に行くことにしたのだった。