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29 笑う亡霊

 最近の凜はついてない。霊の話ではない。良いことがないということだ。特に、母親が会いに来てからは、悩んだ顔をする回数が増えた。さらに、今日はまた泣いている。でも理由は母親ではない。好きな男とうまくいっていないのだ。

 文太は、部屋の隅で特製毛玉吐きをしたり、空中三回転トイレ放出を披露したりしたものの、凜には見向きもされなかった。呆気なく姿を消すそれら残骸を見て、虚しくなって声をかけるのもやめた。

「凜、今日俺、下の事務所にいようと思……っ」

 話の途中だというのに、大吉と自分の食べた朝食の片づけをした凜は、返事をすることなく玄関から出て行ってしまった。

「……あれは、ある意味、何かに憑かれていると思うんだけど!」

 早々に二階の事務所に来ると、文太はソファで寝ている新藤の耳元で叫んだ。声の大きさもだが、文太のふさふさと揺れる尻尾が何度も鼻をふさぎ、たまらず新藤は飛び起きた。

「お前、俺の体調の悪さは関係ないのか?」

 肩を落とし、まだくすぐったさの残る顔を何度も撫でるが、文太は我関せず、である。

「俺だって、昨日自殺未遂する奴を見てから気分が悪くて、深酒しちまって。その上、家に帰ってアルバムとか見て理沙の情報収集をしていたら、さらに気分が落ちてまた酒を飲んで……つまり今の俺は……」

 新藤は呟くように言うと、口元に当ててトイレに駆け込んだ。どうやら、二日酔いらしい。新藤があんな姿を見せることも珍しい。

「おい、ベル。新藤も調子悪そうだな。家族のアルバムを見ているってことは、家に帰ったのか?」

「分からない! 昨日からあんな感じ。ねぇ、遊ぼう!」

 いつもテンションの高いこの犬のことは苦手だが、嫌いではない。この感じだと飛び掛かってくることは目に見えたので、一旦棚の上に避難する。しつこさに嫌気が指して距離を置かれたことなど、ベルには伝わっていないようだ。

「本当に次から次へと、色んなことに巻き込まれる奴だな。……それにしても、新藤が自宅で作業をするなんて珍しい。凜だけでなくて、こっちも機嫌が悪いってことか」

 トイレから何度も聞こえる嘔吐音を聞き流し、文太は前足を舐める。右手で後ろを丁寧に掻き、最後に首元の毛を数回舐めていると、青い顔の新藤が出てきて、ソファに倒れ込んだ。棚から飛びおりて、耳元にそっと近づいた。

「水、飲むか? それとも棚から食うものを取ってこようか」

 文太の言葉に細目を開けた新藤は、ふわっと体全体を抱きしめる。そして、文太の尻尾の付け根部分を軽くトントンと叩き続けた。

「おオ、おお……そこ、そこそこ」

 猫のポイントを押さえた愛撫に、文太の気分が高揚してどんどん尻を突き出すように高く上げる。新藤のリズミカルな手の動きに、うっとりと目を閉じる。再び目を開けた時、すぐそこにベルの顔があって飛びのいた。

「文太が、うっとりしている! 気持ちよさそう、なんで! どこがいいの」

 確かに、犬にはこの腰も砕けるような気持ちよさが分かるはずがない。文太は、うっかりそれをベルに見せてしまったことを後悔しながらも、雰囲気を変えて姿勢を正した。

「文ちゃんは、優しいなぁ。……よし、起きるか。ちょっと気になることもあるんだよ」

 頭をひと撫でしてから、新藤は再び気だるそうに体を起こした。

「実は、昨日なんだけど自殺未遂した女の人がいてなぁ。いや、結局は未遂で問題ない。でも、あの人またやると思うんだよ。それに、なんか気になるんだよな。あの白い靄」

「霊もついているのか。じゃ、俺もついていこうかな」

「そうか。助かるよ、文太」

 新藤は礼を言い、再び文太の尻を叩き始める。ん、んん……ベルに恍惚の表情を見られたくないと思いながらも、文太は無意識にまた尻を突き上げてしまうのだった。


 新藤が居合わせた自殺未遂現場は、探偵事務所からものの数分の位置にある踏切だった。ある程度の通行人はいるものの、新藤がいうには昨日の女はいないらしい。そんな同じところで何度も同じ行為をするわけもない。新藤と文太は、近くをぐるりと回って情報を集めた。もしかしたら、同じような光景を目撃した人がいるかもしれない。道行く人や通りで店を営む人に新藤が声を掛けてみたものの、一向に手掛かりと呼べるものはなかった。諦めかけた文太たちが、事務所に帰ろうとした時、目の前をひとかけらの小さな靄が通り過ぎた。幽霊同士で感じるものかもしれない。その敏感な匂いのようなものに反応した文太が、新藤を振り切って後を追いかける。

「文太!」

 背後から新藤が呼ぶ声が聞こえたが、文太は振り返ることなくその靄を追いかけた。数百メートルも走った頃だろうか。商業ビルの前で、靄がさ迷うようにその場をうろうろとし始めた。裏通りに面しているころは人通りがない。だが、遠くを歩く女子中学生だろう二人組が悲鳴を上げて振り返った。見上げると、ビルの屋上で白いスカートが揺らめいている。誰かが、屋上の端に立っているのだ。そうなると、やることはただ一つ。女性の悲鳴が再び空気を切り裂いた時、文太は体が動かなかった。せめて、飛び降りた女性が死んだ時に霊が迷うことなく成仏できる手伝いをしようと、近くで待ち構える。だが、屋上から飛び降りた女性は真っ逆さまに地面に向かって落ちてきたものの、地面に衝突はしなかった。

「……え?」

 背後の女生徒達も、驚いたように漏らす。なぜなら、白いスカートを履いた女性は、今文太の目の前に立っているのだ。しかも、ハイヒールを履いて、鞄まできちんと肩から下げている。

「ごめんね。驚かせちゃった? 大丈夫。私、死のうとしても死なないから」

 女性のにっこりと微笑んだ笑顔が気味悪い。そして、馬鹿にされたと思ったのだろう。女性生徒たちはお互いに文句を言い合いながら、その場から駆け足で消えていった。

「あーあ、怒っちゃったかな。でも、私だって死にたいって思っているのに。あの人が邪魔して、死ぬこともできないなんて……」

 そう言う顔は、嬉そうだ。女性も大通りに抜けて歩いていく。文太はまずはその後をこっそりとつけて、女性の家を調べることにした。気になったのは、すぐ後をついてくる白い靄だったけれど、時々人間の形をすることには、気づかない振りをした。女性は、今まで死のうとしていたことが嘘のように、商業施設の駐輪場に止めてある自転車に乗ると、颯爽と駆けだした。さらに、途中でスーパーに寄ると大量のお菓子や野菜を買って籠に突っ込んだ。意気揚々と走る姿は、主婦そのものである。文太はあまりにかけ離れた様子に違和感を持ちながらも、女の自宅と思われるマンションまで突き止めた。振り返った時に、周囲に白い靄は消えている。

「……どうすんだよ。俺、帰り道分からねーぞ」

 結局、必死で周囲の景色を思い出し、文太が目に涙を浮かべながらやっと探偵事務所に戻ってきた時には、すでに日が落ちていた。たくさん文句をいってやろうと思っていた文太だったが、新藤の姿をビル一階のテナントである美容院に見つけて足を止めた。まさか、文太の帰りを待たずに身なりを整えているというのか。だが、ドアをすり抜けて分かったのは、新藤もそこで困っているということだった。

「新藤さん! ね、聞こえるでしょう? ピンヒールのような足音が。あなた二階の事務所で若い女の子を雇っているでしょう。三階のお孫さんよね。彼女の足音じゃないの? 本当に、うるさいのよ。せっかくつけているラジオだって、この音で聞こえない時があるんだから」

 耳を塞ぎたくなうような高い声。そして、甘い声の割に内容は確実に誰かを責めている。店のオーナーである彼女は、ここらで少し評判らしい。なにせ五十代には少しばかり派手なフリル付きのワンピースを着て、腰までの長いパーマをかけ、ゆっくりと飛ぶように歩く姿が目立つのだ。甘く高い声は、どうやら女の癇というのに障るらしい。凜がいう言葉で文太にはよく分からなかったけれど、どうやら嫌われているらしい。

 だが、確かに女の言うとおり、『コンコン』という音に紛れて、足を引きずるような『シュー、シュー』も混じっている。これが繰り返されるなら、気になるだろう。一瞬、美容院に設置されたカット台の鏡越しに、文太の姿を見つけた新藤が喜んだ顔をする。帰ってこないことを、心配はしていたようだ。

「ねぇ、何がおかしいの? これ、どうにかなるんでしょうね」

 再び女に詰め寄られている新藤に、挨拶代わりの片手を挙げると、文太は今日はもう休もうと三階へ足を向けた。

「そんな面倒な奴に絡まれているなら、今回は帳消しにしてやるさ」

 その捨て台詞が新藤の耳には、きっと届いていないはずだ。


 翌日、事務所へ寄ることなく、文太は昨日の女の住むマンションに足を向けた。新藤は最近朝が弱い。体調も悪そうだし、女がまた危ないことをするなら、せめて近くにいようと考えたのだ。凜の不機嫌は大吉に移り、三階が居心地の悪いことも理由のひとつだ。同じ道を辿ると、大分スムーズにマンションまで到達する。

「俺って、本当に天才だよな。あの事務所で一番優秀なんじゃね?」

 マンションのエントランスの塀に座り、まずは身体を舐めて綺麗にしていく。三度目に、右脇を丁寧に舐めようと顔を向けた文太は、自分に視線をよこす存在に気が付いた。もはや力が残っていないのだろう。首から下半分は透けている。つまり、首から上だけが空中に浮いている霊だ。すぐに、それが何か分かった文太は挨拶をするように尻尾を左右に振ってみた。すると、相手の霊も困ったように笑うと小さく首を傾けた。お辞儀をしているつもりらしい。文太の脇まで浮遊してくると、ゆっくりと塀に首を乗せる。まるで打ち首で処刑された男の、さらし首のようだ。凜が見たら、悲鳴を上げること間違いなしだ。

「あなた、昨日から彼女に付きまとっていますね」

 控えめな口調だが、明らかな牽制だ。微かに男と分かる風貌のそれは、毛づくろいを続ける文太に遠慮しながらも、迷いはないようだ。困ったような笑顔は変わらない。

「お前こそ、なんで変な真似ばっかりしているんだよ。その身体、辛いだろうがよ」

「分かりますか。霊も、多少は感情が残っているんですよね。それが、体全体を蝕むように痛む……。私は、彼女を救っているんです」

「あいつ、お前に助けてくれって頼んで死んでいるのか? あんま可愛くないよな。凜の方が、ぼん、きゅー、ぼんってやつだぞ。あれ、すげえ美人って意味の言葉だろ?」

 いしし、と文太が笑うが、霊はまるで聞いていなかったように続ける。

「彼女は僕の妻です。えぇ、私の職場に、彼女が派遣でやってきたんです。でも、彼女は常に何か悩んでいました。結婚してからも変わらなくて、いつも死のうとするんです。それを、僕は必死に止めてきました。いつの間にか、生き甲斐だったのかもしれません……」

「は? やばくね、それ」

「あの日、僕たちはもう一緒に死のうと決めました。薬を飲んだんです。でも……」

「お前だけが、死んだのね」

 毛を舐めすぎて、胃がむかむかする。もしかしたら、男の話の内容のせいかもしれない。気を逸らすために、文太は塀の後ろにある花壇の草を夢中で口に突っ込んで咀嚼する。男は、まるで気にしていない。

「僕は、誓ったんです。死のうと続ける彼女を、守っていこうと。……でも、彼女は死のうとする一方で、生活を楽しんでいる気もするんです。僕は、彼女を助けるたびに体が削られていくとい……」

 文太が噛めない草を必死で飲み込もうと奮闘している途中で、男の声は途切れた。辺りに視線を走らせたが、すっかり霊の気配は消えている。はぁ、霊って本当にややこしい奴ばっかりだな。大きくため息を吐くと、文太は探偵事務所に引き返すことにした。花壇の草が風もないのにひっそりと揺れていることに、気づくものは誰もいなかった。


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