遡ること十日前。新藤が向かったのは、母校のある土地だった。都心から一時間かからずに到着するそこは、ベッドタウンとして数十年前から人気の町だ。駅を出ると、すぐに大学の正門が見えて、大人も子供も大半の人間が吸い込まれるようにして消えていく。自分たちが過ごした青春時代とまるで変わらない風景に安堵する一方、現実が錯覚なのではないかと勘違いしそうになる。今でも研究室に行けば教授が眼鏡の奥から試すような視線を向けてきて、ランチになるとサークルのメンバーでたわいもないゲームをするのではないか。休講があると聞けば即刻遊びに行き、休講がないと分かれば誰が代返をするかでじゃんけんをするのではないか。あの世界は、本当に過去の一部でしかないのかと思うと、門をくぐることを一瞬ためらう。
「ねぇ、二限の授業マジでだるいんだけど」
「だれー?」
「藤原先生だよー。もう日本語という共通言語を話していると思えないほど意味不明。言語学なんてとらなければよかったよ」
信号待ちの三人の女子大生の会話を後ろで聞いていると、いつの時代も変わらないことを噛みしめると同時に、新藤の時計が一気に早送りされる。時はきちんと流れているのだ。彼女たちは、息継ぎもしていないと思われるほど、次々に言葉を交わした。
「えー、あの人カッコいいから良くない? うちなんて、これからの授業しめじだよ」
「しめじー!」
「それな」
「あいつ、本当に嫌い。時々酸っぱい匂いがするし。しめじみたいに、背はぼてっとしているのにちょこんと顔が乗っている感じ。動くのも嫌いじゃない? 石づきに足をとられているのかって。そのくせ、何回も同じこと繰り返してさ。分身か!」
「いやいや、しめじって弾力があるのに味に癖がなくて、色んな料理と合うはずじゃね」
耳を劈くほどの笑い声が響く。聞いているだけで、内容はえげつない。自分が探偵事務所で一人仕事ができていることにほっとすると共に、大学生の凜が、学校でこんなことを話していないことを願っていると、信号が赤になる。一番文句を言っているのは、彼女たちの中ではむしろ最も可愛らしい真面目そうな女子だ。ストレートの黒髪は胸程まで伸び、背は低めで、ショルダーバックを下げている。高校生のような幼さからも、一年生ではないかと想像しつつ、彼女らを追い越して門をくぐった。スマホのメール画面を確認し、指定された建物を目指す。新藤が通っていた十五年ほど前は、校舎も古いものが目立っていた。しかし、老朽化が進んだためか、あちこちで近代的な建物が林立し始めている。特に、ガラス張りのお洒落な外観を覗き込むと、中では、生徒が電動ノコギリで丸太を切っている様子を見て驚いた。
「俺の時は、あんなの日差しの下か、倉庫の脇でやっていたぞ」
国立大学に押し寄せる経済面での問題点はよく聞くが、環境設備は生徒集めにも重要な課題なのだろうか。だが、指定された建物を見上げて、新藤は吹き出した。ここもかなり建物は古く、窓や壁に補強をするような板が打ち付けられている。それでも何年か前に改修されたのか壁はきれいだ。だが、その色はまさにサーモンピンクと呼ぶほど鮮やかで、まるで幼稚園の建物、もしくは南国のホテルのように異色だ。
「え、あいつここにいるの」
建物の中は意外にも綺麗で、新藤はエレベーターで三階まで上がった。一限目の授業が終わったのか、突如教室のドアが開くと、溢れるようにして学生が流れ出てきた。みな、新藤には目もくれず、仲間同士で声を上げて建物を移動し始める。すぐに空っぽになった教室を覗き込むと、教卓の前で見知った顔が片付けをしていた。
「よ、高石!」
新藤が声を掛けると、男が教卓の資料から目を上げた。
「あぁ、もう来たのか。悪い、俺もう一コマ入っているんだ。隣が研究室だから、勝手に入ってくれないか。昼でも食いに行こう」
久しぶりに会う旧友は、以前よりもさらにふっくらとした体形になっていた。丸い黒縁眼鏡を人差し指でくいと持ち上げると、笑顔もなく告げた。すぐに、学生が階段を上がってくる声が溢れた。そして、その先頭にいる顔に見覚えがあった。あの、信号待ちをしていた女生徒だ。教室の中を見て、再び笑う。
「お前のことかよ」
研究室のドアが微かに開いた音で、新藤はうっかり落ちていた眠りから覚めた。口元に垂れていた涎を手の甲で拭って目をやると、高石が大量の紙を手にうんざりとした顔をしている。
「よ、しめじ」
は? と明らかに困惑した顔を見ると、生徒になんて呼ばれているかは把握していないらしい。テーブルの上に紙を置くと、両肩を回して新藤を見る。さも迷惑そうだ。そして、それを隠そうともしない。
「後期は文化祭もあって授業数は少ないから、ただでさえ忙しいんだよね。何?」
そう言いながらも、机においた鞄から財布を取り出している。お昼を食べに行くというのは、冗談ではないらしい。だが、理沙の葬式にも来なかった高石が、そのことに一切触れないのは気を遣っているからだろうか。
「国立とはいえ、今は大学も自己収益を求められているんだ。おかげで、色んな店が独自にレストランをやっていて、結構うまいんだ。これが」
高石に連れられてやってきたお店は、生協の脇にあるお洒落なイタリアンだった。
学食で安いカレーを久しぶりに食べようと思っていた新藤は、高石の店の選択を意外に感じると共に、その金額に一瞬怯んだ。大学生が食べるとは思えない高価さだ。だが、頼んだパスタセットは金額に見合うだけの味で、二人はほとんど話すこともなく夢中でお腹に収めた。アイスコーヒーをストローで吸うのも最後の数滴になって初めて、高石が口を開いた。
「ねぇ、僕忙しいって言ったよね? 話があるから来たんじゃないの。馬鹿なの?」
つっけんどんに言い放ち、今にも席を立とうとする高石に、新藤は改めて噴き出した。大学の時、どれほどこの言葉を向けられたことだろう。その度に、俊太は突っかかっていた。あの懐かしさを、そのまま胸にしまっておければどれほどいいだろう。首を傾げた高石は座りなおし、目で話すように促した。
「実は、理沙が死んでもう数年経つから今さらなんだけど……」
「僕あの時、半年海外に留学していたから、知っていると思うけど」
「あぁ、別にその話をしにきたわけじゃない。最近、知ったんだ。理沙が死ぬ前に何か事件を追っていたって。いや、俺なんで高石のところに来たんだろうな。お前は何も分からないかもしれない。でも、何か知らないかと」
そこから、新藤は自分がしている仕事と、仕事を理由に出会った絵画教室の女性に聞いた話の内容をかいつまんで説明した。最後まで聞いた高石は、ぼんやりと空に視線を向けた後、唇が一度開く。迷ったように新藤も続けた。
「俺、理沙がわざわざ夫として紹介したからには、身近な人間なんじゃないかと思うんだ。もしお前が何か知っていたらと……。ここは、俺と理沙の共通の場所だったし。まさかお前が大学に残って、助教になるなって当時は思いもしなかったよな。俺は……」
何か言い淀んでいる高石の表情を、新藤は見逃さなかった。
「理沙と子供が一気に目の前から消えて、当時気力がなくなっていた。それでも、もし何かあるなら、遅いかもしれないが目を逸らしたくないんだ。高石、頼む。教えてくれ」
はぁ……、と迷惑そうにため息を吐くことを隠さず、高石は一気に告げる。
「君が今話した出来事とは無関係かもしれないことを前提に言うんだけど」
「分かっている。大丈夫だ」
「俺、留学する前に見ているんだ。ここで。二人がご飯を食べているところを」
「え、理沙が、か?」
なぜ新藤が訪ねてくるのかを、高石は察していたのかもしれない、と思った。だから、こんな高い金額の店で、わざわざ昼食をとったのではないか。だが、すでに結婚をして子供までいる理沙が、母校で昼食をとる必要がなぜあったのだろうか。
「相手は? ……俊太、なんだな?」
理沙が、自分を裏切るはずはないと信じていた。異性の知り合いと出かける時が仕事であったとしても、理沙は端的に報告していた。もし、自分に伝えずにいることがあれば、それは仕事や遊びを超えた本気の何かで、きっと身近な人間になるかもしれないと直感があった。
「なんだ、勘づいているんじゃん。だって、気づいたけれど今更声なんてかけなかったよ。だから、二人の関係なんて知らない。本人に聞きなよ。君、意外と面倒くさい人だな」
高石は相変わらず眉間に皺を寄せた上、午後の授業の準備があるからと腰を上げた。そして、新藤が手を伸ばす間もなく伝票をとると、さっと支払いを済ませて歩き去っていく。
それが、理沙と晴人への手向けのようにも思えて、新藤は高石の背中に片手を挙げて、次の場所へ向かうのだった。
大学からいくつかの場所を回って帰ると、事務所はまた事件に巻き込まれていた。凜から事情を聞いて、歯科医が子供を殺害していた事件が解決すると、疲れが出たのか新藤は数日熱を出した。どうにか体のだるさが抜けた朝、シャワーを浴びてコンビニに朝ごはんを買いに行く。まだ通勤ラッシュの最後の集団がいるのか、駅に向かう人は多い。ぼんやりとする頭で、人波に逆らって踏切を渡ろうとすると、ちょうど電車がくるのか遮断機が音を立てて降りてくる。足を止めて、電車が過ぎようとするのを待った新藤の視界に、一人の女性が入った。まさに、通過しようとする電車に飛び込む勢いで背後から走ってきたのだ。スーツを着て、パンプスで走る姿はOLのそれだった。周囲の人間が息を呑むより一歩早く、新藤は駆けだした。すぐそばまで近づいてきた電車が大きな汽笛を鳴らして飛び込んでくる。間に合わない! 思わず目をつむった新藤だったが、思いのほか電車は通常通り通り過ぎていく。上がっていく遮断機。そして、周囲の人は視線を投げながらも、関わりたくないのか足を止めることはなかった。線路の前には、先ほど飛び込もうとした女性が倒れこんでいて、うっすらと彼女の周りに白い靄があった。新藤は重い体を引きずって駆け寄り、彼女に手を差し伸べた。
「何をしているんですか! 危ないでしょう」
少し声をとがらせた新藤に対して、彼女は薄い笑みを貼り付けて答える。
「ほーら、やっぱり。私、旦那が守ってくれているから死ねないんだよ……」
どうやら、飛び込もうとした彼女を、何かが道路側へ引き戻したようだ。その疲れ切った笑顔と、まるで死ぬことを試すような女に、新藤は居心地の悪さを我慢できずに立ち上がり、それ以上訳も聞かずに歩き去った。