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27 ベルの憂鬱

 目が覚めた時、凜は待合室のソファに寝かされていた。体を起こすと、慌ただしく警察が出入りしているのが見えた。ベルが気づき、数回吠えると、すぐに新藤がやってきた。脇には刑事の俊太もいる。

「お、大丈夫か?」

 そういう新藤の脇を、ブルーシートで覆われた『何か』が運ばれていく。ソファに座ると、窓の外が見えた。すでに規制線が張られているが、周囲にはやじ馬がかなり集まっていた。

「あれって、もしかして……」

 凜の下半身は泥で大きく汚れていた。あれが夢だったとは思わない。でも、あの鼻をつくような刺激臭と白い棒のような足。脳裏に蘇るだけで、喉元に何かがせりあがる。

「私、信じられない! あの子がケガをして倒れていて、先生があそこに埋めようとしたなんて! でも、だから言ったでしょう? この病院はヤバいって! あの子どもスペースだって本当は、」

「はいはい。そういうのは、署で聞きますから。同行お願いしますね。おーい、誰か! 助手さんをパトカーに」

 俊太が声を掛けると、一人の警察官が近づいてきて、まだ興奮気味に話す彼女の手を引いていった。

「全く勝手なことを。俺だって存在は気づいたさ。後から調べようとしたのに、また憑かれやがって。無事だったからいいものの」

「何を言っているんだよ! 病院から悲鳴が聞こえた時、お前真っ青になって飛び込んだらしいじゃん。あの子が言っていたぞ。めっちゃやばい男と犬きたー!って」

 笑いながら話す俊太を無視すると、新藤が続けた。

「埋められていたのは、近くに住む男の子らしい。といっても、カルテもなくてなぁ。まだ捜査中。あのスペース、どうやら子供たちが勝手に出入りして遊ぶスペースになっていて、友達でもない子もついてきたらしいな」

「そんな……、親が知らないうちに?」

「あー、最近この辺りも多いらしいんだ。いわゆる、ネグレクトっていうのかな。小学校にも上がらない子供が放置されていて、周囲の大人も気づかないんだ。あの細さは、きっと食事もまともにもえらえていなかったんだろうな」

 凜は、最初に医院に入った時の様子を思い出すように、診察室に目を走らせた。床に走る血潮。荒れた診療台。小さくてもはっきりとした悲鳴。

「……いや、だからね。勝手に入る子供が悪いんや。僕が帰ってきた時、子どもが血だらけになって転がっていたら慌てるやろ。勝手に器具をいじるのがアホなんや。救急車なんて呼べるか。ここはね、病院だからな。変な噂でもたったらあかんから」

 診察室から西村が警察に両腕を押さえられて現れた。そして、凜に気づいて捨て台詞を吐く。

「心霊屋っちゅうから、変な現象だけ解決してくれたらえぇのに、余計なことまで。危なく金までとられるところだった。刑事さん、あの人たち変な商売してるんやで」

 睨みながら去っていく西村に、凜が悔しさで下唇を噛んだ時だった。ふわりと新藤がその頭を撫でる。

「気にするな、凜はよくやった。ただの貧血だけど、顔色が悪いな。落ち着いたら帰るぞ」

 探偵事務所にいるだけで、ここまで危ない目にあうとは思っていなかった。ベルの頭を撫でながら、凜は気持ちを落ちつける。まだ、少し眩暈がして気分が悪い。新藤は、報告書に書くためだろうか。玩具スペースの方へ歩き出す。そして、そこに付いていこうとして話しかけた俊太が、軽く手を振り払われたのに気づいた。一瞬、俊太も驚いたようだが、凜の方を振り返った時には、いつもの笑顔だった。

「凜ちゃん、大変だったね。俺はもう行くから、よく休んで」

「ありがとう。俊太さんは、新藤さんに呼ばれて?」

 首を伸ばして背後を確認した後、俊太は頷いた。

「そうそう。いきなり警察連れて来いって言われてびっくりしたよ。ま、これで俺の成果になるからいいんだけど。でも、なんかあいつ機嫌悪いみたいだねー」

 二人の雰囲気がおかしいことに、少し前から気づいてはいたが、今回のことで確信する。だが、そこは刺激せずに凜はつづけた。

「ネグレクトって、嫌だね。親子ってなんで面倒くさいんだろう。私は干渉されることが嫌だったけど……でも、育ててくれたのは親なんだよね」

「一定数、そういう被害の子はいるんだ。服も着替えず、食べ物もない。髪も伸びて男の子なのに、女の子みたいになって。地域課とも連携して、対策をしていこうと思うよ」

 俊太は、いつも適当な冗談ばかり言っているようだが、こうして真面目な部分もある。地域や周りの人間を救おうと、刑事に奮闘している。凜も、最近尊敬している一人だ。

「じゃ、新藤によろしくね! また事務所に行くから」

 軽く手を上げると、俊太はそのまま医院を出て行った。

 ベルに見守られること三十分、凜の体調も落ち着いて、新藤と一緒に事務所に戻ることにした。朝もほとんど食べていないので空腹も限界を迎えていた。新藤は、出前でソバをとろうと提案してくれたが、母のことも気になっていたので三階に戻ることにする。と、事務所のドアを開けた新藤が素っ頓狂な声を上げた。

「なんだこれ! 水浸しだぞ! 文太!」

 事務所を覗き込むと、ソファの下に潜り込んだ文太の尻が見えている。そして、辺り一面が確かに水浸しだ。ベルが新藤の手から離れ、事務所に飛び込む。同時にソファから飛び出してきたものに驚いたのか、足が止まる。それは、顔だけ犬のような原型があるものの、体が黒い煙の状態だ。つまり、前足一本以外、体がないのだ。それはベルを見て喜んだように口を開けたが、歯も抜け落ちたようにない。文太が前足にかじりついていく。一方、ベルは高い声で吠えると、事務所の外へ飛び出してきたのを凜が受け止める。

「こいつ、この間から事務所にやってきて悪さしてやがる! また来やがった!」

 文太が見たこともないほど、毛を逆立てている。初めこそ嬉しそうにベルの方へ走ってこようとした犬もどきだったが、事務所の様子に腹が立ったようだ。顔中が口になる程大きく開けて、新藤にかぶりつこうとする。

「散れ!」

 一度両手をついたあと、右手を挙げて大きく伸びあがり、さらに十字を切るように横に素早く腕をふる。いくつか連続で念仏のように言葉をつづけたあと、新藤が両手を叩いた。すると、どんどん煙が濃くなっていたそれが、破裂するようにして完全に消えたのだ。

「なに、あれ……」

「あやかしになれなかった下層だろう。ベルは視えるばかりに、憑きやすいんだろうな。うっかり仲良くなっちゃったのかもしれないな。だから、事務所に変な感じがしたんだな」

「確かに、時々わたしも気づいて落とすことがあるけど。最近、散歩はおじいちゃんに任せていたから……。あ、もしかして事務所を汚しちゃったっていうのもさっきの」

 凜が言うより早く、ベルが背後から飛び出した。文太の元へ駆け寄り、体をこすり付ける。大きな毛玉にもまれ、文太も久しぶりに黙って素知らぬ振りをしていた。怒った手前、仲直りのタイミングを探していたのかもしれない。

「良かったじゃない! 文太は今夜こっちに泊まれば? 私もお母さんとちゃんと話さなきゃ」

 凜が事務所を出ようとすると、文太が早速悪態をつく声が聞こえた。そしてさらに、新藤の泣きつくような小言も追いかける。

「えー、これ俺一人で拭くのー?」

 階段を上がって、玄関を開ける。どうやら大吉はまだ帰っていないようだ。それだけではない。母の靴もないことに気づいた。帰るとは聞いていない。心臓がぎゅっとつままれるように痛み、凜は靴を脱いで部屋に上がった。台所のテーブルに一枚の紙きれがある。スマホのアプリで連絡などすぐできるのに、未だに母はこういうところがあった。

「……凜ちゃんへ。押しかけてごめんね。きちんと生活できているのに、心配してうるさくしてごめんなさい。子供の頃のことも、傷つけているなんて気づかなかった。応援しています……だって」

 力が抜けて、椅子に座る。いつも、自分の伝えたいことは後手に回る。本当はそんなことを言いたかったわけではないのに、誰かの悲しそうな顔を見て、自分が傷つけたのだと思い知らされる。スマホを出して、母の名前を見る。いくつか文字を打って、すべてを消した。凜の中で、いくつも湧き上がる不満が片付いたわけではない。でも、それをうまく撮りだして説明できるほど消化できていない。手紙を小さく折ると、鞄にしまう。

「親って、なんなんだろう……」

 いつもなら軽口で答えてくれる文太も、今日はいない。事務所に戻って呼ぶ元気はない。凜は胸の中に広がる、理由も分からない悔しさを押し込めて、静かに天井を見上げた。



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