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26 ベルの憂鬱

 凜は、目を覚ましてベッドから出るとすぐにそれを整えた。部屋のドアを開けると、包丁の音がする。部屋に香るみそ汁の匂いで、自分がどこにいるのか錯覚しそうになった。実家では、毎朝台所に行くと朝ごはんがあった。それが疎ましくもあり、当たり前のことでもあった。

「あら、おはよう。早いね。おじいちゃんは、お友達と約束だって出かけたわよ」

 きっと居心地が悪いからだ。そう言いたいのをぐっとこらえてテーブルにつく。ベルの散歩だって、母と二人が気づまりだから、大吉は自ら買って出ているのだ。

「私も出かける」

 母が来て、もう五日だ。いい加減、田舎に帰ってくれないだろうか。返事をするのも面倒で、目の前に置かれたみそ汁の具をつつきながら、首だけ適当に縦に振る。

「本当に、学校にちゃんと行っているの? 留年なんてしたら、許さないからねぇ」

 半ば威圧的な言葉に、凜はむきになって顔を上げた。

「うるさいな! おじいちゃんの世話だって、勉強だってやっている! バイトで稼いでおこづかい使っているじゃん! お母さんは、昔から私のこと信用していないからね」

 一瞬、母の表情がひるんだ隙に、今まで溜まっていたものを一気に吐き出した。

「私はいつだって、私なりにきちんとこなしてきた。勉強もして大学に入った。でも、お母さんは一回も褒めてくれたことなんてない。否定的で、いつも友達や誰かと比べられた」

「そんな……」

「私のこの力だって、お母さんの家系でしょう? お母さんにその力がなくっても、お母さんのせいじゃない。私、嫌な思いいっぱいしてきたんだよ。それなのに、私のこと子供っぽくなくて嫌だって言ったの。覚えている? ねぇ」

 母は、今度こそ困惑した表情をした後、微かに胸の辺りを撫でる。これもいつものことだ。自分に都合の悪い方向に話が進むと、体が弱い振りをする。そうして、凜が譲るのを待っているのだ。だが、弱々しい瞳で凜を見つめ、何か言おうとして再び口を噤んだ。

「なによ。本当にそういうところも、もう勘弁してほしいの! 昔、私の視線が責められている気がするとも言っていたよ! それって子供に言うこと? 今が本当に責めているって時だから!」

 凜は自分でも止められなかった。口が勝手に動いて、でも本当にそれでいいのか分からなくて手に力が入る。テーブルに当たり、みそ汁の椀が揺れる。あ、と思った時には遅かった。くるりと回った椀が転がり、中身がテーブルにこぼれていく。母は、もう視線を上げようとしなかった。流しにある布巾をとる振りをして、両手をつく。小さく肩が震えていることに気づいた。気配があって振り返ると、台所の入口で文太がじっと見つめてくる。

テーブルを拭く気にも、母の背中に触れる気にもなれず、凜は部屋に戻って急いで着替えた。台所に戻るとテーブルは汚れたまま、母も文太もいない。勝手にしろ! 心の中で叫び、凜は玄関を飛び出した。

「お、どうした」

 階段を下りたところで、事務所から出てきた新藤と出くわした。時間だったとはいえ、気持ちの整理をする間もなくて動揺する。目じりに浮かんでいた涙を拭うと、凜は首を振った。

「なんでもない。行こう。あ、ベルも連れて行くんだ。私がリード持つよ」

 恐らく、新藤に目が赤いことは気づかれているだろう。だが、無言でリードを渡してくれる。相変わらず力強くリードを引くベルは、今日も無邪気に元気である。

「ベル、本当に文太が怒っていること気づいていないよ。愛情表現ってものを学んだ方がいいよ、この子。もうー、早く仲直りして欲しいけど」

「ベルはお調子者だからなぁ。文太も意外と構って欲しがりな癖に。ま、こいつらでどうにかするだろう。とにかく、今日は歯医者の幽霊事件だな」

「私が視た映像だと、きっと事件があそこであったはず。患者かもしれない」

 凜が、この数日で周囲に聞き込んだ情報は、新藤に伝えてあった。院内の不潔な診療内容、歯科助手たちの不和、道徳的な問題。だが一方、近所の主婦たちの誉め言葉もあった。

「あそこ、子どもに優しい歯医者なのよね。ほら、子どもスペースにおもちゃもたくさんあるでしょう。おかげで子供が遊びに行く感覚で付いてきてくれるのよ」

 そのせいか、あちこちボロボロの建物への擁護派もいた。

「お父さんの代から引き継いでの経営でしょう? うちも地元代々だから、自然と行っているの。子供も診療がなくても遊びに来ていいって行ってくれて喜んでいるの。新しい建物だけがいいって限らないわよね」

 新藤は、そんな諸々の情報を仕入れたうえで、凜と共に今日も燕たちが顔を出す医院の玄関口に立っていた。すでに診療を開始しているとあって、駐車場は相変わらずの満車である。一旦人が引くまで、院内に入るのは止めておく。ベルと新藤がボール遊びをするのを横目で見ながら、凜は朝の母との会話を脳内で繰り返していた。あれは言い過ぎだったと、少し経てば分かる。帰ったら、一言でいいから謝ろうと決めた時だった。

 診察を受けていた時に触られた感触、そして玩具スペースで感じた気配。それが再び身近にある気がした。すぐに、右手に風が抜けるような違和感があった。新藤に伝えようか迷ったが、確信もなく、そして近くにいることに安心した凜は、そっと立ち上がる。ボールに夢中になる二人をよそに、導かれるように建物の裏手に回った。ドアが一つある。外れていて、鍵はないようだ。ぐっと持ち上げると、ドアが薄く開いた。手を引かれるように、その中へ体を滑り込ませる。どうやら、あの流しの物置部屋に繋がっているようだ。と、ふいに両足を強く時引っ張られる感覚が襲い、体が床に倒れた。そのままぐんっと物置スペースに引かれる。前半身が廊下を滑り、思わず流しの突き出た足にしがみつく。

「誰か! 助けてー!」

 声をいっぱいに叫ぶが、誰も来てくれない。診察室と玩具スペースとつながっていたはずなのに、そこは急に薄暗くなる。両足の膝までを圧迫するような感触があり、身動きがとれない。それが、どんどん尻まで上がってきて恐怖に身をよじる。

「ぼく、ここにいるんだよ……」

 耳元で叫んで、さらに凜のスイッチが入る。手に触れるものすべてを殴り、掴み、投げる。

「いや! 離して! 気持ち悪いってば!」

 凜がそう言った次の瞬間、足首がもぎ取られるほどの痛みに襲われる。どこかに潜り込んでいくスピードが増し、ぬめり、ぬめりと体が海の底に沈んでいくような感覚がした。次第に息まで苦しくなってきて、地上に空気を求めるように首を伸ばすと、今度は小さなものが顔を覆った。薬品の匂いがする。

「……ママも、僕のことをそう言ったんだ……」

 ぎゅうっと口元を抑えられて諦めかけた時、目の前に閃光が走った。荒い息を繰り返して目を開けると、見下ろすように立っていたのは新藤とベルである。その脇に、この間医師の愚痴を吐いていた犬田の姿。大きな音を蹴散らしながら階段を下りてきたのは、西村だった。凜の視界に入ったに西村の顔が大きくゆがむ。同時に、犬田が口元に両手を当てた。耳を劈くような悲鳴を発し、大げさだな、と思う。私は生きているし大丈夫、そう話そうとして、足元の違和感に気づく。ふと見下ろすと、自分が流しの下に掘られた穴に胸まで落ちているのが分かった。

「どうしてこんな……」

 次の言葉を出す前に、足元に小さな黒い塊があるのが見えた。袋だ。だが、全部入りきらなかったのか、小さな細い足が二本飛び出している。

……やっと、見つけてくれた。ごめんね。僕、まだ気持ち悪い?

 耳元にふわっと聞こえた微かな声を最後に、凜は意識を失うのだった。



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