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25 ベルの憂鬱

 最近の凜は、どこかおかしい。探偵事務所に来ると、前は一緒にソファに座ってテレビを見たり、おやつを食べたりした。凜の学校の相談に乗ったことだってある。それなのに、今は少し顔を出しても、新藤がいないことを確認するとそのまま学校に行ってしまうか、ご飯だけ置いて簡単に頭を撫でてくれるだけ。熱いハグもキスもない。少し悲しいけれど、これがずっと続かないことは知っていた。凜には、凜の事情があるのだ。

「いいんだ。あのオバサンが帰れば、凜は元気になるんだ。それに……僕だって忙しいんだからね」

 口をモゴモゴと動かしながら一人ごちていると、探偵事務所のドアからするりと姿を現すものがいた。

「おはよう! また来てくれたんだ」

 この間、大吉との散歩で出会ったメス犬が、遊びに来てくれたのだ。いつも少し顔を出しては帰ってしまうが、ひと気の少ない探偵事務所で、今はベルに寄り添う唯一の友達だ。

するりとソファの足元に来て座ると、つぶらな瞳でベルを見上げる。嬉しくなって飛び降りると、遊びに誘うように両足で彼女をつつく。物静かに笑う彼女に、再びアタックしようとした時、ドアからしゃがれた声が飛んできた。

「おいベルー。散歩に行くぞ」

 振り返ると、大吉が立っている。最近では、もう朝の散歩は大吉と一緒だ。

「一緒にいかない?」

 そう誘ってみるも、彼女は静かに首を振って座ってしまう。置いていくのはかわいそうだったが、トイレにも行きたい。何度か足踏みした後、ベルは吠えた。

「ちょっと待っていて! すぐに戻ってくるから」

 彼女が優しく微笑んだのを見て、ベルは大吉の足元に滑り込んだ。リードをつけてもらい、引っ張るようにして階段を駆け下りる。背後で大吉がリードを引いて怒っているのも耳に入ったが、一瞬でも早く事務所に帰りたかった。

 お決まりのコースを回り、最後は公園で水を飲ませてもらう。水道の蛇口を開いてもらった瞬間、顔を突っ込むようにして口元にがぶがぶと水を流し込んだ。たくさん歩くと元気が出る。たくさん飲むと、走りたくなる。ベルが、再び公園の探索をしようと水から顔を離すと、目の前に女の子が立っていた。思わず駆け寄ろうとして、後ろからぐんっとリードを引かれる。あと一歩で手が届きそうだったのに、女の子まで届かずに両手が地面に着いた。

「だれ! かわいい! 一緒に遊ぼう!」

 ベルが吠えると、女の子は数歩後ずさってじっと見る。だが、逃げる様子はない。

「お嬢ちゃん、ごめんね。こいつ、すぐに遊びたくなっちゃうんだ」

 普段聞きなれない、頑張って出した大吉の甘い声がする。それでも、女の子は答えない。値踏みをするかのように大吉とベルを見つめてくる。そして、もしかしてと気づく。この子は、自分に興味があるのではなくて水が飲みたいのだと。

「いいよ、早く飲んで。僕、ちょっとこっちにいるよ。あとで遊んで!」

「こら、吠えるな!」

 大吉にリードを再び引かれ、ベルは水飲み場から離れた。思った通り、女の子は台の上部にある蛇口に飛びつくと、 噴水のように吹き出すそれを貪るように飲んだ。ベルが様子を見ようと近づきかけて、リードを引かれる。ただ、大吉も不思議とその場から離れようとはしない。数分経ち、やっと落ち着いた女の子に、大吉が話しかけた。

「お嬢ちゃん、まだ学校ではないのかな。幼稚園か? 今日はお休み?」

 肩を震わせるようにして振り返った子供は、大吉を睨むように見上げていた。ベルがよく見ると、服のあちこちには食べこぼしのようなシミが目立つ。履いているスニーカーはサイズが合わないのか、かかとが飛び出し踏んでいる。それによく匂いをかぐと、ベルは違和感があった。この子は、もしかして……。

「ばーか、ばーか! 女の子じゃないやいっ」

 そう叫びながら、子どもは公園の滑り台の方へ走っていく。普段なら、追いかけたくなるベルも、そんな気にならなかった。鼻を鳴らし、大吉を見やると複雑な表情だ。

 両親は揃っているのだろうか。幼稚園は行っていないのだろうか。大吉は、公園の帰り道にベルにそんなことを聞いてきたけれど、あまりよく分からなかった。探偵事務所が近づいてきた頃には、二人とも子供の捨て台詞を脳裏に押しやり、ゆっくりと休みたい気分になっていた。階段を上がったベルは、事務所からするりと出てくる姿に気づいた。

「文太―! 文太!」

 何度か呼んだが、文太は振り返ることもなく三階へ上がっていく。まだ、口はきいてくれないらしい。そして、ベルは思い出したのだ。散歩に行く前に遊びに来てくれた彼女のことを。少しで戻ると告げて、置き去りにしていたことを。慌てて最後の数段を駆け上がり、事務所に駆け込んだ。最後には、大吉もリードを手放していた。だが、足を踏み入れようとした瞬間、ベルの足が止まる。そこは、出発した時とは別の部屋に様変わりしていたのだ。なんと、ソファの脇には動物のものらしきフンが数個転がっているし、流しの脇のコップは床に落ちて割れている。ソファの皮にも爪でひっかいたような跡が残っていて、大きく荒れているのだ。

「なんだこれ! 誰がやったんだ」

 階段を上がってきた大吉も、背後で驚く。ベルと散歩でずっと一緒にいた大吉は、ベルのことを疑ってはいないようだ。

「今ね、今、文太が出ていったんだよ! ねぇ、三階に行ってみようよ! いい?」

 階段を上がろうとするベルのリードを、ぐいと大吉が引く。

「こら、上はダメだって言っているだろう。お前の面白いもんなんてねぇよ。……あー、凜が戻ってくるまでに片しておかねぇとなぁ。なんだこのウンコ」

 ベルと大吉は目を見合わせると、ため息をつくように肩を落とした。その後、黙々と片付けをする大吉の背後を、ベルは文太への疑いを募らせて、ただうろうろするのだった。


 暗闇の中、物音で目を覚ますと事務所の電気がついて顔を上げる。ドアの前に立っているのは、数日ぶりに見る事務所の主、新藤の顔だった。

「わぁ! どこに行っていたの。お帰り! お帰りー!」

 一目散に駆け寄って、足元をくるくると回って見せる。大きな手で頭や耳元を撫でられるのは気持ちが良くて、つい舌が出てしまう。

「ごめんな。ちゃんと凜に飯もらっていたか?」

 ひととおり頭を撫でてくれた新藤が部屋に入り、ベルも後に続く。リュックを下ろし、机にノートなど手荷物を置いた新藤は、なぜか疲れ切っていた。大きく息を吐くと、椅子に腰を静める。両手で顔を隠し天井を仰いでいるところを見ると、なぜかそわそわするような不安感に襲われた。どうしたらいいんだろう……迷っていると、再びドアが開く。

「やっぱり! ベルが吠えているから、もしかしたらと思って」

 三階から、凜が下りてきたのだ。新藤は椅子に座りなおすと、力なく微笑んだ。

「ベルの世話、ありがとうな」

「あ、うん……。っていっても、私も急に母が遊びにきていて。ほとんど散歩はおじいちゃんが行ってくれている。って、そんなことより、話したいことがあって」

「仕事の依頼でもあったか? ……てか、なんかこの部屋変な感じしないか?」

「そう? あ、そういえばおじいちゃんが、ベルが事務所でトイレを間違えたって言っていた気がする」

 今度は凜の足にまとわりついていたベルだったが、漏れ聞こえる単語に違和感を覚えて、反論する。

「僕じゃない! ねぇ、帰ってきた時にはあったんだよ! それ、本当に言っていた?」

 ただ、ベルがいくら吠えようとも、二人が気にする素振りはない。逆に、静かにするように諭されて、おとなしく足元で寝そべった。いや、不満はある。これが唯一の反抗だ。だが、凜が新藤に、仕事の話をしているのを聞いていると、ベルの瞼はどんどん重くなっていく。

「あぁ、あの歯医者か。俺も診察が雑だって、少し前に噂を聞いたな。そうか、じゃあ調べ次第、様子を見に行ってみるか」

「本当? ありがとう」

「それより、凜。右のほっぺた腫れていないか? まさかそこで」

「はは。それは、逆。あそこで治療を始めたんだけど、内情を知って嫌になっちゃって。この件が片付いたら別の歯医者に行こうと思っているの」

「大丈夫かよ、それ。まぁ、いいや。そういえば、文太はどうした。元気か?」

「あ、それなんだけどね。文太がおかしな……」

 ベルが聞いていたのはそこまでだった。久しぶりに、事務所に新藤と凜がいる。その安心感からか、ベルは静かに寝息を立てたのだった。


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