目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
24 ベルの憂鬱

「凜、お風呂掃除の仕方なんだけど、いつもこのスポンジを使っているの?」

 リビングでテレビを見ながら化粧をしていると、風呂場から母親の呼ぶ声がする。昨夜から、何かにつけて家の中のポイントを指さしては、どうしているのかを聞いてくる。だが、本当は聞きたいのではなく、間違いを正したいのだと知っているから、うんざりするのだ。

「そうだよ! だって、おじいちゃんが元から使っていたんだから!」

 上京してきた母親は、数日の予定といって迷うことなくこの家にやってきた。ホテルに宿泊してくれれば、こんなに気忙しくならないのに、と不満が湧く。

「だって、それならどうしてこんなにカビが生えるのよー」

 半袖と短パンで腕まくりをしている母親に弱腰になった大吉は、頼んでもいないのにベルの散歩にそそくさと出かけて行った。観光に行けばいいのに、と伝えても家事をしようとする母親に根負けして、凜も歯医者の調査に乗り出すことにした。少なくとも、昨日詰めてもらった物が取れてしまったので、埋めてもらう必要はある。風呂場から聞こえるシャワー音を背中に、凜もそっと玄関のドアを閉めた。

 診察開始は九時と聞いていたものの、凜が歯科医院に到着した時には、開院前なのにすでに患者の車で駐車場が埋まっている。こんなにも人気の町医者だったのかと感心する一方、入口のドアの前が鳥の糞で汚れているのが気になった。見上げると、どうやら燕が子育てしているらしい。可愛い顔が見下ろしているのを眺めつつ、医院の中に入った。昨日はいなかった受付に、年配の女性が座っている。保険証と前日の診療のことを伝えると、事務的な反応で、待合室で待つように言われる。とはいえ、すでにソファは埋まっている。窓辺にある映像で泳ぐ魚を水槽の前で眺めながら、居心地の悪さを打ち消した。

待合室の奥まで進んで初めて、意外にも敷地が広いことに気づく。奥にトイレのドアがあることは分かっていた。しかしその先に、広いスペースがあり玩具が置かれている。そして、さらに奥にドアがあり、恐らく診療室の裏側に繋がっているのだろう。建物外見の古臭さとは異なり、院内は動線もしっかりした造りになっているようだ。腕時計を見て、もうすぐ診療が始まるかと思った、その時だった。ふいに、奥から女性の短い悲鳴が上がる。待合室に座っているのは老人が多く、どうやらあまり気づかなかったようだ。みな落ち着いてスマホや雑誌に目を落としている。気になった凜は、遊具スペースを抜けて奥のドアをそっと開けてみた。すると、鋭い女性の声が飛んだ。

「閉めて!」

 勝手に開けたことを怒られたのかと思った。しかし、それ以上に奥の部屋の惨劇に動転していることはすぐに分かった。荷物置き場と掃除用具場所として使われているのだろうか。タオルや薬品、段ボールなどで埋めつくされているようだが、奥の水道から水が放出されている。まるでホースを使っているかのように、水が勢いよくあらぬ方向へ散っているのだ。部屋に体を滑り込ませ、ドアを閉める。そして、水道のところへ駆け寄りのぞき込む。

「どういうこと……?」

 四方へ飛ぶ水は、誰も触っていない。凜の顔にも勢いよく水がかかる。

「あなた、入ってきちゃだめよ! 犬田さん、早く止めて!」

 受付にいた女性が、若い金髪の女の子に声を落として叫ぶ。

「いやいや、蛇口は締っているんですよ! 勝手に出てくるんだって!」

 ふわっと足元を何かがよぎる感覚があった次の瞬間、凜のそばで甲高い笑い声がした。ハッと周囲に目を走らせるも、そこには慌てる白衣を着た女性二人のみ。誰かがいる、そう確信するも、凜の目には見えない。だが、その笑いを最後に、水は止まったようだ。濡れた前髪を整えながら、年配の女性が片付けるように言い、反対のドアから診療室に戻っていく。建物の構造全体が、ドアを介してぐるりと一周できるようになっているようだ。

 犬田も肩を竦めて応える。流しの脇にある雑巾を手に取って、床を拭き始めた。手伝おうと、雑巾を持って腰をかがめると、犬田が今更驚いたように声を上げた。

「びっくりした! だれ!」

「勝手にすみません。実は私、新藤探偵事務所の者で、怪異の依頼をいただき来ています。……ついでに治療を」

「あ、もしかして先生に探偵代をちょろまかされているでしょ」

 マスクをしていて表情は見えないものの、犬田は少し馬鹿にしたように笑ったのが伝わる。先ほどの同僚への態度を見ても、なかなか感じがいいとは言えない。無言でいると、犬田は雑巾を流しで絞った後、マスクを外した。目の細さと反比例するように唇が厚い。

「幽霊事務所でしょ。先生から聞いている。ね、やっぱりここってなんかいるの? 最近マジでやばいんだよね」

「今の水が止まらないとか、ですよね。他にどんなことがありましたか?」

「うーん。例えば、待合室の実が勝手に落ちてきて床で割れていた。あれ、なかなか実なんてならない木らしいの」

「それは……、どうでしょう。器具が移動したり、落ちたりとか」

「そうだね。あ、あるある。診察室の奥にレントゲン撮影の場所があるんだけれど、そこって患者さんが中に入るだけで、先生が外からボタンを押すの。患者さんのセットは私たち。それが、ボタンを押していないのに音が鳴ったことはあるかも……。別にわたしは怖くないんだ。でも、さっき見たでしょう? 血相を変えているのは吉井さんだけ」

 犬田の話が途切れる。何事かと思ったら、犬田が背後を振り返る。どうやら、階段を下りてくる足音が聞こえたようだ。

「先生! 水が噴き出したんだけどー! 本当いやだよ、こんなことばっかりー」

 西村は犬田に軽い相槌を打つと、凜に気づいたようだ。しかし、特に咎めるわけでもなく診察へと吸い込まれていった。すぐに、女性が患者を呼ぶ声が聞こえた。

「もう、全然気にしていないの! 片付けるの私だっていうの」

 犬田の不満から逃れようとした時、待合室から大きな塊が視界に滑り込んできた。そこは、先ほど通った玩具スペースだ。凜の腰にも届かない背丈の子どもが、走ってつみきを手に取ったのだ。

「りゅうくん、今日もフッ素を塗りに来てくれたのかなー」

 犬田が背後から声を掛けてくる。子供は一切顔を上げずに熱中しているが、母親が犬田に頭を下げる。

「子どものスペースがあるなんて、優しい病院ですね」

 お世辞ではなく率直な思いを告げた凜だったが、内情は異なるようだ。犬田は鼻で笑うと、声をひそめた。

「あんなの見せかけ。あの玩具だって、たまたま患者さんで寄付したいって人がいてタダでもらって始めたことなんだよ。ソファが敗れても、ドアが外れても、窓が割れても放置。ここで、治療なんてしないほうがいいよ」

「え、そんなに?」

「病院ってさ、結構細かく色々決められているけど、あの人って端から破っていくから。ゴミも専用の業者に出すんだけど、噂では注射針を段ボールにため込んで海に捨てに行っているって」

「まさか!」

「実際、滅菌っていう高熱消毒も全くしていないし、ゴミも一般の場所に出しているよ。さっきの男の子たちには言えないけど、フッ素の使用期限なんて五年前に切れているし」

 若干、薄ら笑いを浮かべ話す犬田に、ひきつった笑顔で応対する。

「このスペースの噂を聞いて、診療がないのに無駄に遊びに来る子どももいるのに、先生は私たちにどうにかしろっていうし。とにかく、ここはやばいの。幽霊なんていなくても」

 もはや、返事をする気にならない。それでも、犬田は止まらない。

「この間なんて、親知らずを抜いたおじいさんがいて。薬の影響で、血が止まらなくて大変。夜にもう一回きたけど、どくどく口の中に血が溢れて。バキュームで吸うのに気持ち悪くなっちゃった」

「治療で、ってこと? 危ないなら救急車を」

「あー、それ禁句ね。先生が一番怒るやつ。考えてみればさ、病院に救急車なんて止まっていたら、次から行かなくない?」

「あー……でも」

 ね、というように犬田が笑った時だった。玩具スペースから男児の叫び声が聞こえる。転んだのかと目をやると、どうやら高く積み上げた積み木を崩してしまったようだ。母親がなだめるように脇に腰を下ろしている。診察室から、男児を呼ぶ声も届いた。

「ほら、もう行こう」

 母親に強く手を引かれて、泣きそうなほどに身をよじりながら男児がスペースから消える。だが、凜が気になったのは、診察室に入る時に、男児が漏らした言葉だった。

「僕じゃない! 崩したのは。勝手に、あいつがやったんだよ、ママー!」

 診察室に戻っていく犬田の背中を見てから、玩具スペースを通る。確かに、積み木は四方に散らばっていて、勢いよく崩されたように見えた。と、すぐ近くで木の葉がかすれるような微かな音がした。それは、スリッパを滑らせて歩く音のようでもあったし、漏れた笑い声のようでもあった。足元から湧き上がる鳥肌に耐えられず、凜はスリッパを機械に戻すと医院を飛び出した。振り返ると、建物を囲う空気まで暗く淀んでいるように見える。診察を受けに戻るべきか悩んでいる凜は、ふとポケットに違和感を覚えた。右手を入れると、小さな物に触れ、息を呑む。ミニカーだ。こんなものを入れた覚えはない。あの男児が入れる隙もなかったはずだ。何かが意思表示をしている。そんな気味悪さを隠しきれず、凜は歯科医院から離れるのだった。



コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?