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23 ベルの憂鬱

 探偵事務所で生活をするようになって三か月が過ぎようとしている。初めこそ、以前の家が懐かしく思えて鳴いたこともあったけれど、今ではすっかり事務所が居心地よく感じている。怜奈に会えなくなったことは悲しいけれど、凜も新藤も優しい。時々忘れられることもあるけれど、ご飯はいつもお腹いっぱいもらえる。時間は決まっていないけれど、散歩にも連れてきてくれる。人間は気まぐれだし、まだまだ走り足りないことも多いけれど、不満に思ったことがあっても一回寝てしまえば大抵のことは忘れて幸せだ。

「僕は、幸せだー!」

 駐車場で柱につながれたまま叫ぶと、道行く人々が目を向けてくる。小さな子どもが触ろうと手を伸ばしてきた。嬉しくなって飛び跳ねてしまい、子どもが驚いて叫んで走り去ってしまった。せっかく撫でてもらおうと思ったのに、思いは届かず肩を落とす。こんなことは、しょっちゅうだ。ついさっき、事務所でも文太を怒らせてしまった。いまいち、なんであんなに怒ったのか分からないけれど、時々あんな雰囲気になることがある。気まずくて悲しくて反省するけれど、楽しいことがあるとつい忘れてしまう。今の子どもも、もしかしたらこれが原因で犬が嫌いになってしまうかもしれない。そう考えると、責任重大だ……。飛びつかない、新藤にいつも怒られていることだ。反省、反省……。

「ベルー! お待たせ。公園回って帰ろう」

 建物から出てきた凜は、右頬を押さえている。でも、ここでポツンと待っているのは寂しかったのだ。凜の顔が見られて、嬉しさで両足が勝手に跳ねてしまう。何度も飛びつこうとして、首が締って柱に引き戻される。

「公園!? 公園って言ったよね。行くいく! あそこに落ちている葉っぱ好きなんだ!」

 楽しくて幸せで嬉しくて、凜が柱から紐をほどくのも待っていられないくらいだ。膝に飛びつき、嬉しさを伝えたくて息が上がる。凜がリードを手に持ちながら、ベルの尻を数回叩く。

「ほら、変なのも憑いているよ。はたいておくから」

 新藤と凜と一緒に散歩に行くと、こんなことも時々ある。それは頭だったり、背中だったり、手足だったりする。数回軽く叩かれると、何が『ついて』いるのか分からないけれど、その後すごくお腹が減る。元気が出る、といってもいいかもしれない。ベルの脳内はもはや早く公園に行くことでしかなかった。

 散々走り回って疲れた足で事務所に帰ると、先客がいた。凜がドアを開けて挨拶をすると、男はソファで寝ていた体を起こす。あそこは、大体自分の場所なのに取られた気がする。ソファに飛び乗ると、案の定、男はすぐに立ち上がって新藤の机に移動する。知っているのだ。この男は、犬が苦手だ。

「もう、ベルったらまた。俊太さん、ごめんね。新藤さんはもう何日も出張に出ているの。電話はつながると思うけど」

「やっぱり、まだ戻らないか。あいつ、俺にもちゃんと報告しろって言っているのに」

 事務所の窓を開けて、涼しい風が入ってくるようにはなったが、まだ湿気は残る。冷蔵庫の冷たい麦茶をグラスで出すと、俊太は喉を鳴らして勢いよく飲んだ。

「僕も飲みたい!」

 ベルが叫ぶと、凜は待っていたかのように器に水を入れて、ソファの足元まで持ってきてくれる。飛び降りたベルは、俊太に張り合うように水を体に流し込んだ。凜や新藤と会話ができているとは思わない。でも、こうして凜は不思議と望んだとおりの行動をしてくれることが多く、ベルは大好きだ。その気持ちが溢れて、再び凜の足元に駆け寄って抱き着きたくなってしまう。

「ベル、無駄吠えはダメ。それに、ほらちゃんと座って」

 お尻を軽く叩かれて、腰を下ろす。頭を撫でられるのが心地よくて、目を閉じる。凜が俊太の方だけを見ているのは不満だけれど、頭に触ってくれている間は我慢しようと決める。

「ねぇ、新藤さんって結婚していたんだよね?」

 俊太が、返答に迷うように右の眉を上げて首を傾げる。

「あ、別に変な意味じゃないの。前に、新藤さんがちらっと写真を見ていることがあって」

「あぁ……」

 納得したように頷くと、あっさりと認める。

「そうだね。俺たち、大学の同期だったんだ。理沙、新藤の嫁はまじめでかわいい子だった。でも、ちょっと影があって、ミステリアスな」

「お子さんもいたんだ」

「あぁ。晴人っていって。二人が出かけるときは、俺が預かったこともあるんだぜ。新藤の子どもと思えないくらい可愛くて、やんちゃな男の子で」

「……でも、二人は死んじゃったの? どうして?」

「二年ちょっと前くらいに事故で、だよ。あの時の新藤の悲しみ方といったら……」

「なにそれ、ねぇ一緒にってこと? 交通事故?」

「それが、二人別々。理沙が街中で事故に遭って、俺が驚いて新藤に電話したんだ。でも一緒にいるっていうはずの晴人の姿がなくて、捜索をしたら……」

「晴人君は」

「マンションの屋上に晴人の靴と鞄と……」

 俊太が口を噤んでしまう。気になってベルが頭を上げると、凜は身を乗り出して話を聞いていた。お腹も減ってきたが、もう少し声を掛けるのは我慢しようと、顔を両手の上に乗せて目をつぶった。

「何? 屋上から落ちたってこと?」

「いや、晴人の姿は消えたんだ。でも、荷物の脇に落ちていたんだ。晴人のものと思われる……」

「荷物じゃなくて? まさか」

「目玉だ」

 ハッと凜が息を呑む音が響く。

「いや、晴人の物かは結局分からないんだ。目玉も赤ん坊だと少し小さいけれど、三歳を超えると本当に微々たる差で成長するだけでなぁ。だから、新藤はきっとまだ」

 そこまで話して、俊太は我に返ったように声を高めた。

「凜ちゃん、困るよ! これ、俺から聞いたって絶対に言わないでよ。あいつ、堅苦しいじゃん? 自分は探偵なんてやって、俺から情報を貪りとろうとするくせに、俺が話すとすごく責めてくるんだよ。こんなことを話したって知られたら」

 俊太は、凜が返事をしないことに焦ったのか、服を整えて帰り支度をし始める。また、少しでも話を逸らしたいのか、早口でまくし立てるように続けた。

「あの時、晴人はもうすぐ五歳になるって頃だった。週末は一緒に俺たちバーベキューする約束もしていたんだ。まぁ、俺と新藤はそれだけ深い仲だったってことかな。いやー、あいつの飲み会の時の酒の失態と言ったら」

 ベルをジャンプするようにして跨ぎ、俊太は事務所の入り口までそそくさと移動する。

そのまま、何言か残して去っていく俊太を、凜はいつものように見送ることもなかった。気になって、ベルが右手で膝を叩くと、凜は再び頭を撫でてくれる。

「大丈夫? あいつに、嫌なこと言われたの?」

 人間の話を、すべて理解できないことを悔やむことはよくある。その度に、賢くなりたいと願い、彼らの足元に体を寄せる。それしか自分にできることはないと思ってしまうのが悲しい。きっと、自分の言いたいことは全然伝わっていない。ベルはそう感じながらも、凜の顔がほころぶように何度も何度も彼女の手のひらを舐め続けた。

「……ありがとう。ベル、優しいね。私、こんなことを知って、次にどんな顔で新藤さんに会えばいいと思う? どうして」

 確かに、軽い気持ちで知ろうとしてしまった。だが、簡単にあんなことを話した俊太にも怒りが湧いているようだ。ベルが凜を思って鼻を鳴らした瞬間、テーブルの上のスマホが鳴った。新藤かと一瞬思ったが、表示された名前を見て、凜は溜息をついている。

「……もしもし? お母さん。ごめん、今ちょっと忙しくて。え? なに」

 凜の荒げた声に、ベルは姿勢を正した。何か、もめ事に巻き込まれているのかもしれない。今すぐ、助けが必要だったら自分しかいない、とベルは訴えるように電話に吠えた。

「誰! 凜をいじめないで! 僕だって、守れるんだぞ。文太だけじゃないんだぞ」

 鼻先を凜の手に押されても、めげずにスマホに向かって吠える。

「え? いつ。そんな、急に無理だよ。だって、大学やバイトがあるし。え? おじいちゃん? 分からないよ。いやいや、私が家のことだってやって……」

 電話の相手と話しながら、凜はソファから立ち上がって流しの下の棚を開けた。そこにあるのが何か、ベルは知っている。いい匂いが立ち込めて、心が浮きたつ。ざらざらと皿に流れるご飯は、空腹を満たしてくれる唯一の存在だ。追いかけて、凜が袋をどかすのも待ちきれず、顔を突っ込んで、口中をご飯でいっぱいにする。

「うまい、うまい、うまい!」

 嬉しくなって凜に伝えようと事務所を振り返ると、そこにはもう誰の姿もない。

「……またやっちゃった」

 ベルは肩を落としながらご飯を掻き込むと、欠伸を一つして床に伏せたのだった。


「おい。散歩に行くぞ」

 声を掛けられて目を覚ますと、そこにいたのは久しぶりに見る大吉だった。凜が事務所に出入りするようになって、新藤と大吉はよく話すようになっていた。特に、新藤と凜が散歩に行けない時は、極まれに大吉が一緒に行ってくれることがある。

「あれ、凜は?」

 普通なら、新藤がいない時は凜が散歩に行くはずだ。ベルの疑問が通じたのか、大吉が三階を指さした。

「凜は、ちょっと母親とアレでな。今、上で忙しいんだ。ほら、行くぞ」

 リードに繋がれて、大吉と外に出る。すでに朝のラッシュは過ぎたのか町の人通りは少なくなっている。大吉との散歩は、実はベルは大好きだった。歩く距離は短いし、寄り道も多い。時には、賑やかな音が中から洩れる建物の前に繋がれて、日が落ちるまで放置されたこともある。でも、その時の大吉は建物から出てくると紙袋にたくさんの食べ物を持っている。必ず、新藤や凜がくれない甘い何かを食べさせてくれる。それが楽しみで、ベルは今日も軽い足取りで空を見上げ、大吉の背中を追いかけた。

「おい。コンビニでタバコを買ってくるから。待っていろよ」

「分かりました!」

 大吉が紐を結んだことに反応して鳴く。背中を見送って数分、なかなか帰ってこない大吉を待ちながら、ベルは腰を落とした。その時だ。

「ねぇ、すごい毛並み綺麗だね」

 話しかけられて顔を向けると、そこにはベルよりも一回りほど小柄な長毛の犬が立っていた。白い艶のある毛から覗く黒い瞳は澄んでいて、ベルは思わず姿勢を正した。

「今、大吉さんを待っているんです! 褒めてくれてありがとう!」

 こんな綺麗なメスに話しかけられることなんて、初めてだ。ベルは文太と遊ぶ時に感じるそわそわする興奮とは別の何かが足下からせりあがってくるのを抑えきれない。

「多分、この後すぐに帰るんだ! 大吉さんがおやつもくれるかも! 一緒にどう?」

 我慢できずに誘うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

「僕、幸せだー!」

 いつもの反省はどこへやら、ベルは今日も大きく幸せを叫ぶのだった。


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