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22 ベルの憂鬱

 大学で授業終わりにランチをした時から、おかしいと思っていた。一口飲んだアイスコーヒーが凍みて眉間に皺を寄せた。大好きな根菜を噛もうとして、瞬間的に脳内に痛みが走る。それに気づいてしまったが最後、もはや何をしても常に口の中の痛みが気になるようになった。

「なぁ、凜。そんなに痛いんだったら医者に行こうぜぇ? 俺、ついていけるし」

 今や首から上の右半分すべてがズキズキと痛む。探偵事務所のソファに転がる凜の顔を覗き込み、文太が声を掛ける。乱暴だけれど優しい言葉を紡いでくれる文太の背中をそっと撫でると、実際の感触はないはずなのに、文太はうっとりと目を細めた。青とグレーのオッドアイでじっと見つめられると、胸が締め付けられるほどの愛しさがこみ上げる。

「うーん、そうだよね。これ絶対に虫歯だよね。でも、歯医者って実は小さい頃に何回か行ったことがあるだけで……。怖いじゃん」

「そんなことを言って、俺みたいに抜くことになったら後悔するんだぜぇ?」

 そういって、文太は欠伸をするように大口を開けた。確かに、前歯の脇の歯が上下揃っていない。思わず吹き出してしまい、一瞬痛みが遠のいた。

「本当だ! 相当痛かったでしょう。……分かった、病院を探してみるね」

 ポケットからスマホを取り出して検索をかけていると、文太が脇腹を頬に摺り寄せてくる。安心しろ、とでもいうような行為に、スマホを放り出して全体的に体を撫でまわす。

「ぶんちゃーん、可愛い! 今日の夜は一緒にお布団で寝ようねぇ」

「ばーか、ばーか。俺は、箪笥の上に特等席があってだな」

 凜と文太がソファから落ちそうになりながら、体をくねらせてじゃれ合っていると、鋭い声が飛ぶ。続いて、腹に重い衝撃が加わる。

「わん!」

 何度も存在を誇示するように鳴くのは、事務所の番犬ベルだ。具合の悪そうな凜を心配しつつも、しばらくは部屋の隅に座って様子を見ていたものの、ついに我慢ができなくなったようだ。二人の間に割って入るように飛び込んできた。それが文太の怒りに触れたようで、ソファから飛び降りるとベルを威嚇し、再びジャンプして飛び掛かる。普段であれば、そのまま追いかけっこが始まるところだ。ベルが喜んで飛び跳ねたものの、文太の威嚇は止まらない。威嚇をして睨みつけた後、尻尾を振って背を見せてから、事務所を出て行ってしまった。三階の大吉の家に帰ってしまったのだろう。ベルは入口まで追いかけたものの、傷ついたように目線を下げて凜の足元に戻ってきた。

「ベル、今の良くないよ。ちゃんと仲直りできる?」

 体を起こし、心なしか肩を落として俯くベルの背中を撫でてやる。

「ちょっといいですかね」

 事務所の入り口からのぞき込んできたのは、すらりと長身の男性だ。顎髭と髪の毛はすでに白髪だった。眼鏡の奥の瞳が、事務所の査定をするようにぐるりと見回している。

「あ、どうぞ! ただ、すみません。今、新藤は仕事で外していまして、後日……」

「こっちは一刻も早く解決したいんやけど」

 凜の説明に被せるように言い切る男は、無遠慮に事務所に足を踏み込むとポケットから煙草を取り出した。ライターで火をつけて、ふう、と煙を吐き出す。男に妙な威圧感を覚えながら、テーブルの上に灰皿を準備して、ベルに部屋の隅に行くよう指示をする。新藤はここ三日事務所に戻っていない。大学生時代の仲間の元を訪ねているということまで聞いているが、それが仕事なのかは実際把握していなかった。だが、このままこの来客者を帰してしまうとクレームになるかもしれない。場合によっては、悪いうわさも立てられそうな恐怖感があった。歯痛をぐっと堪えて、灰皿に煙草を押し付けている男の前に立った。

「承知しました。私がまずお伺いします」

 メモ帳とペンを用意してソファに座ると、男の舐めるような視線に耐える。

「まぁ、ええか。この時間は料金には入らへんよな」

 凜が答えようとするのを手で遮り、男はテーブルに名刺を放り投げた。触ることにも嫌悪し、逆さに放られた文字を首を斜めにして読み込むと、どうやら近くの歯科医院の院長らしい。

「あぁ、あそこの薬局の角の看板が」

 そこまで口にして、止める。名刺の歯科医院は、地元で数十年はやっていそうな年季の入った建物だった。最近来た台風で、駐車場に置かれた看板が大きく傾き割れているが、一向に修理をされないので、凜も気になっていた医院だと気づいたのだ。だが、院長はまるで気にしていないようで湯水のように話し出す。

「困るんだよね。診療中に電気がチカチカ切れたり、朝来ると物の位置が変わっていたり。ワシはあまり気にしないけど、若い子がいて騒ぐんだよね」

「ワシ……」

 鋭い視線を向けた後、最後の煙草のかけらをすりつぶし、体をソファに深く沈ませる。足を組み、男は値踏みするように無言になった。気まずさを押し殺し、凜は口を開いた。

「先ほどもお伝えしたんですけど、探偵の新藤は出張に出ています。ただ、お急ぎということですので、本人に確認をして私が調査を」

「あぁ、あぁ。なんでもいいよ。どうにかしてよ。ここ、幽霊とか悪霊を退治してくれるんでしょ。もう面倒くさいんだよね。ギャーギャーうるさいの」

「はぁ……。それじゃあ今まずは確認を」

 ストレスもあったのだろうか。話しているだけでも右上の歯に鈍痛が走った。思わず頬を押さえて、舌で痛みのある歯を探った。男の表情が変わる。

「あれ、もしかして歯、痛いの? お姉さん」

「……はい」

「いつから? 冷たいものが凍みる?」

 男の意図するところが分からず、怪訝な様子で凜が頷く。男は両手を叩いて立ち上がった。

「よし! 病院で歯を見てあげるよ。で、院内をちょっと見てみよ。なんか分かるかも」

「えっ、ちょ……。私は、除霊などを担当しているわけでは」

「ええから、ええから。分かるだけでいいし。原因も心当たりあんねんけど、面倒だし確信は欲しいやん。あ、でも担当外ってことは、お金はかからんでええよね」

 にやりと笑って肩を竦める男に、凜は反論する武器を持っていなかった。そして、男は凜の言葉を絶対に最後まで聞いてくれない。

「西村ですわ」

 と、改めて名乗った男は明らかに嫌な奴だった。だが、凜は手で押さえた頬の下で疼くものをどうにかしたいのも本音だった。

 ベルを連れて訪れた歯科医院は、最新設備という言葉からは遠いものだった。駐車場には草が生い茂り、窓ガラスの一部は割れていて院内からカレンダーで隠されている。

「今は昼休みでな。三時から午後の診療やから。それまでに終わらせてな」

 ベルを柱につなぐと、凜は西村に従って院内に入った。待合室には長ソファがコの字型に置かれ、巨大な植物が吹き抜けの天井まで伸びている。病院独特の薬品の匂いを感じながら、スリッパを履く。

「この傷も、もしかして今回の件で」

「それは元からや」

 ソファのあちこちが切れて、中の綿が飛び出しているのを見て聞いた凜に、西村は迷惑そうな苦笑いで答える。謝るタイミングもなく、余計なことは言わないと心に決めて診察室に足を踏み込んだ時だった。医療器具が床に落ちて散らばるような音が劈き、足を止める。診察台が三台あり、それぞれが仕切りで遮られている。その一番手前の床一面に血液が広がっている映像が飛び込んできた。心臓がぎゅっと縮まり、視界が揺れる。壁に手をついて頭を軽く振った時には、床の血はすっかりと消えていた。すでに診察スペースの椅子に腰かけていた西村が、顔を上げる。

「なに、幽霊視えた?」

「あ、……いえ」

 ここで、何かがあった。凜は直感的に悟ったが、どこまで西村に伝えるべきか判断ができず首を振り、診療台に座る。トレーの上の器具をぐしゃりと崩した後、すぐに背もたれが倒されていく。確かに痛みはどうにかしてもらいたいが、二人きりで診察をされることにさえ少々恐怖を感じて体が硬くなる。

「何。とって食べるわけやなし。はよ見せてよ。口開けて」

 若干のイラつきを隠さず促され、小さく唇を開いた。ミラーでぐいと押し開けられると共に、西村は右手でライトを引き寄せた。のぞき込んで三秒、「虫歯だな」と呟いた。そのまま、甲高い音を出す電動器具で歯を削られること数秒。痛みを感じる余裕もなかった。

「ほい、終わりや。うがいして」

 紙コップを手渡され、備え付けの洗い場で口を漱ぐと、我慢できずに訴える。

「あの! 虫歯だったら言ってください! 痛いかもしれないじゃないですか」

「痛かったのか?」

「え? ……いいえ」

「痛みは、あると思うから感じるんだ。なんでもそうだ。辛いと思うから涙が出る。怖いと思うから足がすくむ」

 もう一度口をゆすぎながら、凜は西村の言っていることを考えた。外から、ベルが何度か鳴く声を心の支えにする。

「……つまり、辛いことも分からなければいいってことですか」

「はよ。削ったとこ蓋をするわ」

 凜の言葉に返事をすることなく、西村は再び診療台を倒していく。不本意にも口を開けて目を閉じながら、凜は右足を冷たい手が何度もひやりと触るのを感じていた。








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