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21 時の指輪

寝苦しさに目を開けると、首にベルの尻尾が巻き付いている。日暮れに近づき、少し部屋の温度は下がっているようだが、裸の上半身だけでなく首元までぐっしょりと汗を掻いている。ゆっくりと尻尾をどかして体を起こす。ぼんやりと、古い夢を見ていたことを覚えている。

「うっわ! あっつ! せっかく来たのに、力を奪われる場所だな」

 入口に目を向けると、大学時代からの友人で今は刑事の友人が立っている。こんなにうだるような暑さの中、長袖シャツとスーツに身を包んでいるくせに、まるで汗を掻いているように見えない。夢と現実が脳内に混在して、新藤は大きくため息を吐いた。蝉の声は、もう聞こえない。

「なぁ、一年の夏休みに鳥島に行ったの、お前覚えているか?」

 俊太は冷蔵庫まで行くと、勝手に開けて中からビール缶をとった。ブルタブを押し上げて口元に流し込むと、手の甲で拭って言う。

「あ? お前が帰りのフェリーで理沙ちゃんに告った時のこと?」

 そして再び、ごくり、ごくりと喉を鳴らす。まるで、新藤にビールを持ってくる気はないようだ。ひくり、と鼻を動かしたベルが目を開ける。俊太が来たことに気づいたのだろう。ソファから転がるように降りると、俊太の足元に駆け寄って飛びついている。それを避けるように駆けてくると、俊太はソファに飛び乗った。

「はは、そんなこともあったよな。というか、その時は俺、一回振られているから!」

「おっと、そうだったな。むしろ恥ずかしがるなよ。その後二回振られているだろ」

 俊太が軽口をたたいて笑ったが、新藤は急に口を噤んだ。思わず、先を促す。

「覚えているよ。あの時、俺が行きの船で話したせいか、初めてみんなで心霊体験もした場所だしな。高石もさゆりも、あの時からキャラ濃かったよなぁ」

「そうだな……。あの時、俺たちを助けてくれた二人がいただろう」

 すでに夢の中で会った顔も朧気だ。新藤は、彼らが自分の妄想が作り上げた人物ではないことを証明したかった。そして、俊太はそれを叶えてくれる唯一の身近な人物だ。

「あぁ、いたな。なんか変な親子。というか俺、そういえばあの時見ていたんだよね。ほら、お前が理沙ちゃんと一緒に、あのオヤジとなんか話しているところ」

「え? そうなの?」

「わざわざ言う機会もなかったからなぁ。俺、驚いたんだよ。お前が幽霊とか視えるって、あの時理沙ちゃんに言われていて知ったから。あの子、どうして気づいたんだ?」

 新藤も、今でもあの時のことははっきりと覚えていた。

「あぁ、実はあの幽霊にも関係しているかもしれないんだけど。あの海、実はすごい溺れた人がいるっぽくて。陸地に着くまでに、何人もが船に乗ろうと手を伸ばしていたんだよ。海の中から。何人かが船の舳先から乗りこみそうなのを、俺が手で払っていたんだけど、理沙には見られていたらしい。怪しい動きをしているって」

「こっわ!」

「だろ? 絶対みんな帰るときに怯えるから、言うなって念押ししていたんだ」

「なるほどねー。これで長年の疑問が解けたわ」

 そう言い、少し緊張した様子で、俊太はベルの鼻先を撫でている。やはり、あの二人は存在しているのだ。そうなると、理沙の死のカギを解く何かヒントが得られるかもしれない。新藤が、新たな記憶の開示に興奮していると、俊太は首を傾げた。

「それよりさ、もう一個聞いていい? あの時、理沙ちゃんって男に何かもらっていなかった? 俺、なぜか隠れていて見えなかったんだよね。思い出したら、気になるんだけど」

 新藤はきゅっと左手で拳を作った。そうだった。なぜ、こんなにも過去の記憶として封じ込めていたのだろう。あの時、理沙が受け取ったものを自分は身に着けているのだ。

「これだよ」

 拳を俊太に突き出す。薬指にはまっているのは、男物の指輪だ。

「え? お前のそれって、結婚指輪だったと思っていたんだけど。違うの?」

 そう勘違いする者は多い。だが、これは理沙が死んだときに唯一持っていたものだった。きちんとケースに収められていたこともあり、自分へのプレゼントかもしれないとも思った。薬指にぴったりとはまったこと、刻印もないこと、新藤がアンティークを好むことを理沙も知っていたなど理由は色々とあった。だが今、それもすべて違うのだと思わされる。

「まぁいいや。おい、新藤。何の話をしているんだよ。いきなり昔話? そんなことより、飲みに行こうぜ。ゆっくりと聞いてやるから」

「俺が、理沙に告白を断られた二回。一年半くらいあったんだ。あの時、理沙はそれどころじゃないって言っていた。俺はそれをさみしく感じたけど、深く聞かなかったんだ。それで、しばらく待ったら、あいつ片付いたからって言って……」

 新藤は記憶を手繰り寄せるようにして、言葉を紡いでいく。

「理沙は、あの男に会うために。島のこともあの男がしている奇妙な行動も調べて……。あいつ、俺のことは絶対に裏切らないってあの時……いや、すべてはきっと」

 新藤の様子に、俊太も異変を感じたのだろう。ベルから手を離すと、きちんとソファに座りなおした。ビルの前を大きなサイレン音を鳴らして救急車が通り過ぎていく。完全に外界の音が消えるのを待って、俊太が尋ねる。

「新藤、今更何を考えているんだよ。理沙ちゃんと晴人くんは、確かに残念だったと思う。でも、あれは事故だったって警察も……」

「理沙は! おかしいんだ。興味もないはずの絵画教室なんて行って、親しくもない人間に事件を追っているって打ち明けているんだ。あいつが、一人でどうしてそんなことを」

「……理沙ちゃんが? それ、本当なのか?」

 新藤は頷き、絵画教室の講師の依頼で調査したことで、偶然にも理沙が呪いの絵を渡していたことを知ったと伝えた。俊太は顎下に手を当てて、考えるように唸る。新藤が、声を絞り出すようにして訴えた。

「しかも、夫と名乗る男と一緒だったらしい。もちろん、俺は知らない。あいつは、何かをしていたんだ。俺は、それは知りたい。そのカギは、もしかしてあの時の二人が握っているのかもしれない」

 まさか、と呟くように漏らした俊太だったが、すぐに続きを打ち消した。ソファから立ち上がり、窓を閉める。そして、励ますように新藤の肩を叩いて言った。

「じっくり教えてくれ。いくらでも聞くさ。でも、本当涼しい場所で飲みながらな」

 新藤も小さく頷き、ソファから立ち上がる。空っぽになったソファに、ベルが飛び乗り眠る体制に入った。珍しく文太も本棚からとんっと降りてくると、ベルの腹の脇で身を丸くする。新藤と俊太はそのまま、事務所を後にした。見送るベルの瞳には、俊太の背中のシャツが汗でぐっしょり濡れているのが見えた。

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