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17 時の指輪

「それにしても、暑いな」

 成仏探偵事務所の二階で、家主である新藤は上半身の服を脱いで呟く。振り返れば、足元には大量の毛皮をまとった犬が一匹。腹を天井に向けてひっくり返っている。だらりと垂れた舌からはよだれが落ち、床を濡らしている。本棚の上にいる猫だけが、涼しそうな顔でそんな二人を見下ろしていた。

「あー、今日も快適だなぁ。凜、早くバイトから帰ってこねぇかな」

「おい、文太。ちょっとその涼しい顔がストレスだから、三階に行ってくれない?」

 新藤が不満気にいうと、文太は猫に珍しくにんまりと口角を上げた。

「俺、幽霊だからさ。みんなにも見えないしさ。暑さも感じないわけ。あー、快適」

「その分、俺たちはうまいものを食えるからいいんだよ。食べるって、サイコー」

 普段は、文太が愛らしい姿からは想像できないほどの嫌味をぶつけてきても、何一つ言い返さない新藤だが、さすがに暑さでいらついていた。人一倍傷ついた顔をすると、文太はいじけたように顔を両手にうずめ、くぐもった声を出した。

「最近、大吉の奴、何かを感じるらしんだ。俺が部屋を歩き回ると、こう、眉間に皺を寄せて床を這いつくばるようにして後をついてくるんだぜ。二人きりなんて嫌だよ、気味が悪いよ……」

 新藤は、猫が嫌いだ。猫は、大抵こうして人の気持ちを簡単に操ろうとする。つい、可愛そうになって撫でてやりたい気持ちになったが、本棚に行こうとして足元のベルにつまずき我に返る。そのままソファに突っ伏すと、新藤は目を閉じた。

 開け放った窓から聞こえてくるのは、いつまでも鳴くことを諦めない蝉の声。文太の止まらない愚痴をBGMに、新藤の脳裏にはあの夏の風景が蘇っていた。


 ※

「あー、うるせぇ。うるせぇ! いつまでこの音を聞いてりゃいいんだよ」

「ちょっと、静かにしなさいよ。蝉が嫌なら、永遠に船の上にいればいいじゃない」

 真っ白な肌にすらりと伸びた手足。ストレートの黒髪を背中に流しながら、さゆりは冷静に言い放つ。向けられた男は小柄で、前髪を神経質に直しながら睨んだ。

「そうだよ、高石。夏の島に来て、蝉や虫がたくさんいるなんて当然だろう」

「……んだよ。女王様のご機嫌取りが」

「なんだと! おい、じゃあお前、マジで」

「やめろ、俊太! 余計暑いわ。とはいえ、お前本当汗かかないよね。掻くのは冷や汗だけか? えっと、コテージはどこにあるんだっけ。うわ、スマホの電波全然はいらないじゃん」

 高石の胸倉を掴もうと勢いをつけていた俊太の肩を軽く叩き、新藤はスマホをポケットに戻した。島の周囲3キロほどの小さなこの島に、新藤は大学の仲間たちと訪れていた。本州の桟橋から船で約三十分。高石はサークルの活動中は常に文句を言っている。ここまでくる船上でさえ、船の揺れに悪態をついていた。夏休みとはいえ平日の真昼間、乗り合わせた客は、他に数組しかいない。同世代と思われるカップルや外国人観光客だけで、高石の悪態もあってか言葉を交わすことはなかった。また、これだけ観光客が少ないことには、もうひとつ理由がある。

この『鳥島』は太平洋に浮かび、かつては日本兵が太平洋を守るために砲台と弾薬を所持していた要塞だった歴史がある。今でこそ、誰でも自由に出入りはできるものの、島のあちこちで奇妙な噂は絶えない。そもそも無人島で警備はなく、電気も取っていない島は夜になれば完全な暗闇に落ちる。コテージが一つだけあるものの、本州の桟橋でカギをもらい宿泊料を払うだけという、いわば無法地帯なのである。恐らく一緒に来た観光客は夕方の船便で本土に戻るはずだ。

「新藤君、あっちじゃない?」

 声を掛けられた方を見ると、半袖に短パンを履いたショートカットの女子が森の奥を指さしていた。手元には、手書きの地図とコンパスがある。どうやら、島に来る前の下準備は一番整っているようだ。

「すごい、さすが理沙。思いつかなかった」

 新藤が驚くと、理沙はチャームポイントのえくぼを見せて笑った。大きな瞳がよく似合うショートカットは、島にいるとより溌剌としていた。高校時代から憧れたミステリーサークルが大学にないことに衝撃を受けて、行き当たりばったりで立ち上げて集まったメンバーは同学年のみ。先輩もいない中で、理沙は誰よりも冷静だった。

「でも、私は新藤君みたいに、みんなを元気にさせる方法は思いつかないよ?」

 小首を傾げて、新藤の前を颯爽と歩いていく理沙を追いかけたくなる。これが、俊太に言われた言葉だったら、きっと嫌味だと思ってしまうだろう。気になる女子に言われる言葉というのは、どうしてこうもまっすぐに心に突き刺さるのだろう。

「おーいおいおい。気になっちゃっているようですね。そんなんじゃ、みんなにバレバレですよ。まぁ、本人にばれて先に進めたいって人もいるだろうから止めないけど」

 耳元で呼吸することなく一気に話しかけられて、驚いて振り返った。

「あ、あぁ。山崎か」

 三十分という短い船旅で、俊太が始めた怖い話も重なって具合が悪くなった山崎だったが、どうやら回復したようだ。新藤も、違う意味で気持ち悪くなっていたが、船を降りたら視界も良くすっかり気分爽快だ。さらに、背後でもめていた俊太と高石、さゆりも混じって理沙を追いかける。

「島が小さいんだから、コテージまでだってすぐでしょ。歩いていれば見つかるだろ」

 誰に絡むとでもなく突っかかる高石の言葉を、拾う者はいない。

「じゃあ、コテージまで少しあるし、再開する? 例の怖い話」

 俊太が駆け足で追いついてきて、新藤と肩を組む。先を歩いていた理沙も歩調を合わせて、六人がほぼ横並びになった。

「あのさぁ、何度も言うけど、うちはミステリーサ―クルであって、オカルトクラブじゃないわけ」

「新藤、そんな固いことを言うなよ。お前も好きだろ? 禅昌寺の肝試しだって、三丁目の公園の笑う女探しだって、一緒に行ったじゃん」

「放っておくと、お前らが何をするか分からないからだよ!」

 まぁまぁ、と理沙の止める声を合図に、さゆりが続けた。

「それより、私もさっき少し気分が悪くてきちんと聞いていなかったの。初めから話してくれない?」

 新藤が思うに、意外と一番のオカルト好きは、さゆりなのではないだろうか。俊太が嬉しそうににまりと笑うと、声を大きくする。

「では改めて……。さっき、俺たちが乗った船。昔、小型船が沈没しちゃったんだよ。合宿をする高校生が乗っていて、ほとんどの生徒は助かったんだけと、一番の有望株が死んじゃったんだ」

 実際、新藤もあまりまともに船の上では話を聞いていなかった。ごくり、と喉を鳴らす。

「え、聞いちゃった? みんな、聞いちゃったよね」

 そこにいるメンバーが何事かと、顔を見合わせる。俊太は再び楽しそうに笑い宣言した。

「えっと、実はこれを聞いてしまうと、その死んじゃった男の子が来まーす!」

「は? なにそれ。そんな馬鹿なことあるわけないじゃん」

 早速、高石が皮肉を言う。その脇で、さゆりが足を止めた。島は海風に合わせて湿気がひどく、歩いているだけでじわりと額に汗が滲むにも関わらず、唇が青くなっている。

「嘘だと思っていてもいいよ。でも、気を付けて。今からいうことは絶対にしないで」

「もししたら、どうなるの?」

 俊太は急に真面目な顔で、みんなの顔を見回す。理沙が冷静に突っ込むと、続けた。

「連れていかれる。だから、今から言う三つのことだけは避けてね」

 いやっ、とさゆりが悲鳴を上げる。相変わらず高石は無視しているが、全員が耳を澄ましていた。

「まず一つ目。死んじゃった子は船で落ちた後に溺れているから、顔が水でむくんじゃったんだ。多分、ひどいと思うけど、顔をそむけないでね」

「え、なんかすごいリアルなんですけど」

 さゆりが呟くように言う。恐らく、嘘か本当か見極めようとしているのだろう。

「二つ目。海で一緒に泳ごうって誘ってくると思うんだ。でも、絶対にいいよって言わないで。溺れさせちゃうから」

 もはや、誰一人として感想を漏らすものもいない。俊太はその空気に満足するように頷くと、今度は声を潜めた。

「三つ目。何かあっても、その子を一人にしてはダメだよ。寂しがり屋だから。でも、これさえ守れば、大丈夫。最後には、遊んでくれてありがとうっていって、帰っていくよ」

「だから、どこにだよ」

 再び、高石の皮肉が復活だ。

「おっけー。これだけ。その子は、すぐに来るよ。ちょっと待ってね」

 新藤は爽快な顔でメンバーの顔を見回した。いつも、こうだ。メンバーが自由に設定するサークルの目的場所は危険なこともある。何かあった時に、いつも対応できるようにしているが、今日は警察がすぐ来てくれることはないのだ。せめて、みんなのメンタルを把握しておきたかった。

 さゆりがこんな時は一番危ない。整った和風美人顔に俊太は夢中だが、メンタルは弱めだ。高石は、なぜこのサークルに入ったのか分からないほど、いつも辛辣だ。ホラーを馬鹿にして、ミステリーは解けない。そして、山崎はよくわからないけれど、とにかく喋っている。新藤は、ちらりと真横の理沙を盗み見た。

「顔をそむけない、海で遊ばない、一人にしてはいけない。顔をそむけない、海で……」

 ブツブツと呟きながら、必死の形相で指折り数えている。どうやら、見事に信じてしまったようだ。

「まっすぐ生きるっていうのも、罪だよな」

「……一人にしては……」

 新藤の言葉など耳に入らないかのように呟き続ける理沙。

「まぁ、まぁ理沙ちゃん。そんなに固くならないで。そんなに怖がっていたら、きっとその子だって傷つくと思うなぁ。四つ目に、怖がらないっていれたほうが……」

 山崎が勢いよく話し始めたが、理沙が本気で四つ目を足そうとしたのを、新藤が睨む。

「あ、嘘ウソ。そんな無駄なことを覚えているより、ね、あそこ探検しない?」

 山崎の言葉に全員が足を止める。顔を上げれば、目の前にウッドコテージが建っている。そしてその奥に見えるのは、普段の日常生活では見ることがないような廃墟と

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