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16 キャンバスの叫び

一週間後。新藤は一枚のキャンバスを手に画廊のドアを叩いた。木戸を開けてくれたのは、原田の妻である。まるで新藤が来ることを予想していたかのように、驚いた様子はない。一礼してから新藤を中に入れると、持ってきたキャンバスを無言で受け取った。

「あの日、画廊のカギを開けていたのは、あなたですね」

 原田が、あと一時間仕事で空けることは、事前に調査済みだ。彼女は絵を教室の奥の棚に戻すと、目線を上げることなく強い口調で言った。

「別に、私は何もしていません。この絵から何が出てきて、彼女たちを傷つけたのだとしても、罪にはならないでしょう。それとも、主人にばらしますか?」

 お腹に添えられた手が、微かに震えている。彼女が一人で抱えるには十分すぎるほどの苦痛と戦っていることは想像に難くない。

「いえ、ご主人はきっと事実には気づいていないでしょう。そして、私も報告する気はありません。ご主人がこれまで何人の生徒さんと不貞関係を持ったのかはわかりません。でも、恐らく奥さんは長い間、苦しんできたのではないでしょうか。その長年の恨みに、きっとこの絵が反応してしまったんだと思います」

「私と主人は、大学の同級生でした。その頃から女癖が悪いことも知っていたけれど、諦めきれなかったんです。でも、教室を開いてまで、次々に生徒に手を出すあの人に我慢できなくて……けど、人が亡くなるなんて思わなかったんです。呪いが本当にあるなんて」

 言いながら、彼女は涙をこぼし、頬を拭った。これから彼女は、誰にも言えない罪を背負っていくのだろう。新藤は、彼女を責める気にはならなかった。

「あなたの思いは、私を通してではなく、あなた自身の口からきちんと伝えるべきです。たとえそれがどんな結果を招いたとしても、原田さんには知ってもらうべきだと思いますよ。たとえ、教室の生徒同士の仲がこれ以上うまくいかなくなったとしてもね」

 話しながら、どの口が言うのだと自分で突っ込みたくなる。ここに凜が描いた出来損ないの絵を持ってきたのも、口実でしかないのだと分かっている。誰よりも、直接伝えられなかったことを後悔しているのは自分だと思い知らされる。

「あと、先日も聞いたのですが、この絵を持ってきた女性のことです」

 妻は、まだくぐもった声を漏らして泣いていたが、新藤を見上げた。

「その女性は、私の妻だと聞いたかもしれませんが……すでに亡くなっています。彼女が夫と名乗る男と一緒だったと聞きましたが、私ではないんです。妻とはどこで出会ったんですか。どうして、あの絵を持ってきたのでしょうか」

 何度か小さく咳払いしてから、妻は絞り出すように言った。

「本当に、別の絵画サークルで知り合っただけなんです。その時は、彼女は一人でした。私がする主人の浮気の愚痴を黙って聞いてくれて、役に立つかもってくれたんです。その時は、こんな呪いの絵だと言わなかったし、あのイベント以来会っていないんです」

 そう言って、これ以上は知らないとばかりに首を振っている。新藤は諦めて、画廊を出ようと木戸に手をかけた時だった。「あ」と、妻が声を漏らしたので振り返る。

「でも、そういえば……彼女、何かの事件を追っているんだって言っていましたよ」

 事件、とは何だろうか。探偵事務所を始めたのは、妻が死んでからだ。それまで、新藤夫婦に事件なんて存在していなかった。妻は、何を追っていたのだろう。小さく会釈だけして、新藤は画廊を後にした。


 原付で事務所に戻ると、中では騒がしさを取り戻していた。相変わらず文太はベルをからかうように棚の上を闊歩していたし、凜は紅茶の良い匂いで部屋を満たしていた。

「おかえりなさい。奥さん、大丈夫だった?」

「あんな絵を置く奴ら、放っておけばいいんだよ。俺がどれだけ辛い思いをしたか!」

 凜の言葉に文太が叫び返す。二人に片手をあげて答えると、新藤は椅子に腰かけた。机の引き出しを開けて、写真たてを取り出す。そこには公園で、笑顔で写る家族がいた。逞しく肌の焼けた新藤と、ワンピースに麦わら帽子をかぶった妻。そして、二人と手をつないではじける笑顔を向けているのは、小さな男の子。少し眺めた後、新藤は再び写真を引き出しの中に戻した。原田に渡す報告書を書くために、パソコンを立ち上げる。

「凜ちゃんー、今晩のごはんは何かなー?」

 最近では、大吉が三階の玄関を開けて、二階に叫ぶようになった。

「もう……っ! 本当に何もしないんだから!」

 凜は小言で文句を言うと、ベルと文太の頭を撫でてリュックを背負い、事務所を後にした。カタカタと、新藤がキーボードを打つ音だけが、事務所に小さく響いた。


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