凜が見つけた絵について、まず二人は探偵事務所に戻った後、ネットや資料で情報を収集した。どうやら呪われた絵画としてコレクターの間で有名な作品のようだったが、一九五〇年頃ヨーロッパで売買されたことを最後に行方知れずになっているようで、教室にあったものが本物なのかは、新藤たちに判断はできなかった。
「え? 今日の夜? そりゃ急だな。なんだよ出張って。いや、分かった。分かりました! なるべく行くように……行くって!」
新藤は、スマホの通話を勢いよく切るとソファに向けて放った。気持ちを落ち着かせるために、凜が入れてくれた紅茶を喉元に流し込み、足元に座るベルの頭を無心で撫でた。
「どうだった? えっと、知り合いの骨董屋さんだっけ」
凜が、資料から目を上げて問いかける。ソファに置かれた鞄には、猫が好きなおやつやおもちゃ、ぬいぐるみを詰め込んでいる。もはや、本物の猫扱いである。
「なんか、明日からインドに買い付けに行くから、今夜絵を持ってこいっていうんだよ。凜、大吉さんのご飯大丈夫か? 大変だったら、俺が一人で画廊に行ってからオッサンのところへ」
「何を言っているの! 文太が警戒していたのに、私のせいでもあるんだから。絶対に行くし」
普段、付きまとう文太を足蹴にしている凜だが、どうやら愛情は持っているようだ。鞄を見れば明らかだったが、神経を逆なでしないためにも黙っていることにした。すでに、時間は六時を回っている。骨董屋まで原付だと一時間くらいかかるだろう。急がないと、文太の身も危険が及ぶかもしれない。だが、新藤は原田に連絡するかをためらうのだった。
二時間後、新藤と凜は、古びた田舎の骨董屋の店先で大きなキャンバスを抱えていた。結局、新藤は原田に電話をすることなく、いわばこの絵はこっそりと忍び込んで盗んできた。画廊のカギがかかっていなかったことが幸運だったが、二階には原田夫婦の居住がある。足音を忍ばせて教室の暗闇を探るのは、今まで味わったどの仕事よりスリリングだった。うまく持ち出せたことに、新藤の疑問は確信に変わっていた。
「これは随分、良いものをもってきたなぁ」
骨董屋の店主は、額に皺を寄せてじっくりと眺めた後、嬉しそうに微笑んだ。だがその微笑みも、ぎらついた瞳と彫の深い顔のせいで、妙な威圧感がある。
「善さん、大事なのはこの絵じゃなくて。ほら、ここ。ここにいるのが家の猫なんだって。こいつだけでも、ちゃんとこっちの世界に戻したいんだ」
新藤がキャンバスに指を押し付けると、骨董屋主人は無言で指を跳ねのけた。
「そんな風に触るんじゃねえ! こいつは、俺がきちんとした場所に戻すんだ」
「こっわ……。だから、ちゃんと持ってきたじゃねぇか。あとほら、これ」
新藤の言葉を待っていたように、凜が鞄から諸々出して並べていく。猫が大好きなおやつにおもちゃ、そして除霊に使えそうな聖水に札。そのどれもを一瞥した後、主人はケッと唾を吐く真似をした。
「水ぅ? 馬鹿にしているのか。絵がダメになるだろう! 札? 本当にそれでどうにかできるなら、やってみろ。他のもな」
新藤が、お守りのようにもっているこの札で、霊や問題を解決できたことはほとんどない。だが、凜と善の与える圧迫感から無視はできないと思った。札を絵の上に置き、空中に手をかざす。そして、「出てこい、文太。出てこい」と抑揚をつけて呟いた。力を入れても、息を止めても何も感じない。何事もなかったように顔を上げると、善が作業台の向こうから睨んでいる。新藤は肘で凜を小突き、次の対策を促した。空気に飲まれた凜が、慌ててチュールの封を切ると、先っぽに出して絵に近づける。数分待ってみたものの、動きはない。
「で、気は済んだのか?」
善の言葉に、新藤と凜が何度も激しく首を振った。この呪われた絵を処分するだけなら、焼くなり捨てるなりして終わりだ。だが、文太を助けるとなると二人での解決は難しかった。新藤の前で、善はにやりと笑うと取り出したのは猫のおもちゃだ。それも、五個はある。スイッチを入れると鳴き声を上げながら動くようで、やたらとうるさい。
「それを、どうするの?」
凜が首を傾げると、善は猫のおもちゃのすべてスイッチを入れた。永遠と大きな音で鳴き声を上げるおもちゃに、新藤は顔をしかめた。善は、二人に向けて奥の座敷を指さした。
骨董屋の店の奥は、善の住まいになっている。小さな和室にトランク一つあるのは、明日の海外へ飛び立つ準備だろう。ガラス戸を占めると、善の声もよく聞こえるようになった。
「絵は、自分の空間を壊されることを嫌う。ああしてれば、原因となる猫なんてすぐに追い出されるはずだ。にしても、妙なペットを飼い始めた上に、また変なことに首を突っ込んでいるんだろう」
善は、ポットから急須にお湯を入れると、二つの湯呑にお茶を注いだ。一日同じ葉っぱを使っているのか、ほとんど色のない出がらしだったが、新藤は一口含んでから言った。
「あの絵、なんなんすかね。呪いって本当だと思う?」
「俺も見るのは初めてだが、聞いたことのある代物だな。作家が自分をモデルにしているといわれているが、彼女と子供を置いて失踪した夫を憎んでいる絵だと言われている」
「ドアの影は、出ていく夫ってことか」
「まぁ、諸説はある。夫を奪いに来た女の影で、妻と子供を殺しにきた、とかな」
「なるほど。それで、二人は恐怖で叫んでいる、と。この絵が置かれた絵画教室の講師が、恐らく複数の生徒と恋愛関係になっていると思う。絵は、自分の最も嫌う環境に反応して、女たちを端から呪ったのかもしれないな」
「刑事の友達の話だと、最後に死んだ女性は妊娠していたらしい」
「そうか……。そこまで、許せなかったのかもしれないな。で、お嬢さんはどうだい」
善が、部屋の隅で新藤たちに背を向ける凜に問いかけた。呪いの絵はここに置いていくとして、絵画教室には代用品を戻す必要がある。原田にとって、思い入れはなかったようだが、明らかに無くなっていたらまずいだろう。
「うーん、私だって絵心ないんですよ。これでいいですか?」
善が近くの画家に頼んでもらったというキャンパスに、凜が油絵で描いた模写はお世辞にも褒められたものではない。しかも、教室に渡す前にきちんと乾かすことも考えれば、ある程度完成までに時間がかかっても問題ないだろう。大体の部分を覚えていれば、構図的には問題ないと踏んでいた。
「ひでぇもんだな」
「もー! じゃぁ、新藤さんがやってみてよ!」
筆を投げた凜に、肩を竦めて新藤が降参の意を示した時だった。骨董屋の方から、何かが床に落ちる金属音と聞きなれた声が飛んだ。
「あーーーー! もうあいつら嫌だ!」
新藤と凜が和室を飛び出して店先を除くと、テーブルの上でわき腹を丁寧に舐めている文太の姿があった。
「文ちゃん!!」
凜が駆け寄って、文太を抱きしめたように見える。驚いたのか、大きく目を見開いた文太は固まっている。新藤も安心して、凜の隣に立った。絵を見下ろすと、そこには初めて見た時と変わらない、叫ぶ女性と男児の姿がある。鳴き続ける猫のおもちゃのスイッチを順番に止めていくと、新藤は文太に問いかけた。
「大丈夫か? どうして引き込まれたんだ。あの二人は、何か言っていたか?」
いつもは凜の足元に巻き付いているくせに、抱きしめられるのは苦手なようだ。我に返った文太は、するりと腕から抜け出ると、再び体のあちこちを舐めながら答えた。
「分からん。気づいたら、あいつの足元に吸い込まれていた。信じられねぇ、あいつらずっと叫んでいるだけなんだ。言葉なんて分からねぇ。ただ、叫んでいたんだ」
「そうか。とりあえず、帰ろう。戻ってきてくれて良かったよ」
新藤の言葉に、文太は無言で鼻を鳴らした。その光景を、文太のことなど見えない善が面白そうに見守っていた。