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14 キャンバスの叫び

学校を終えた凜は、当初そのまま画廊に直行して新藤と合流する予定だった。だが、授業で使った教材があまりにも大きく場所をとってしまうため、一度自宅に荷物を置くため帰った。探偵事務所にベルの餌をあげにいくと、文太が喜んでつきまとってしまい、結局そのまま付いてきてしまった。出会った時は、悪運をもたらす憑き物でしかなかった文太も、今では姿が見えないだけで飼い猫と変わらない。多少、空中を浮遊したり、言葉を喋ったりするが、それも愛嬌のうちだと思うようにしていた。

「あの画廊に行くんだろう? ベルも行きたいってうるさかったんだぜ。残念だよな」

 電車で隣の和泉町まで戻ると、文太が心にもないセリフを吐く。犬好きの凜が、ベルを無意識に優先的に撫でてしまうことに、根を持っているようだ。

「文太は、どう思う? 生徒は誰に殺されたのかな」

 駅から画廊までの間、隣に浮かぶ文太に話しかける。道行く人に不審に思われないよう気を付けなければいけないが、凜にとってもこれは生活の一部になりつつあった。

「あの男が、猟奇的な殺人者とかだろうな」

「え? どうして生徒を殺す必要があるの?」

「……それはだな。猟奇的な男というのは、そういうものなんだ」

「なにそれ」

 自分の答えに満足そうにしている文太は、小さな欠伸を一つしてから、首元の毛並みを舐めてそろえている。

「あ、ここだよ。もしかしたら、教室は終わっちゃっているかもね。入ってみよう」

 白い木戸を開けて入ると、中には絵の具の匂いがしていた。その瞬間、目の前に見えた映像に足が止まった。

「ねぇ、今度パンフレットを作る時に、モデルになってもらえない?」

「えー、私が描いているところってこと? 恥ずかしいよ」

「そんなこと言わないでよ。君が、一番きれいなんだ」

「えー、奥さんより?」

 教室から出てきた二十代くらいの女性の後を、原田が歩いてくる。生徒への簡単な依頼かと思ったら、男は女の腕を軽くとった。待っていたかのように、女が振り返りその胸に収まる。男の手は、女性の背中を数回往復した後、ゆっくりと下半身に迫っていった。

「凜?」

 文太の声で我に返った凜は、大きくため息をついた。小さい頃から、時々あることだった。ある場所や人と出会った時、ふいにまるで目の前で起きているかのように見える映像。だが、それが今の時間軸で起きていないことに、すぐ気づく。初めは未来かと思った。でも、それが過去の出来事が見えているのだと知ったのは、小学生になった時だろうか。その時には、友達の間では陰で気味悪いと言われていることを、凜は知っていた。

「最低だな、あいつ。文太、新藤さんを連れて早く帰ろう」

 間違いがない。これは、原田が巻き起こした痴情のもつれというやつだ。きっと妻がいる男と関係をもってしまった女が、気を引きたくて自殺未遂をしようとしたのだろうか。

「こんな男、最低! 私の彼は、絶対そんなことしない!」

「文太! だから勝手に人の心を読むのはやめなさいって!」

 文太は、何の能力か人と話すだけではなく、気持ちも読めるようだ。勢いあまって声を荒げてからハッとする。これでは、変人だ。だが、ギャラリーから奥にかけて部屋を覗き込んだが、誰の姿もない。

「教室は終わっているようね。新藤さんはどこに行ったんだろう。帰っちゃったのかな」

「いや、近くにいるっぽいぞ」

 とりあえず、教室の中を覗いてみる。奥に続くドアがあるので、事務室でもあるのかもしれない。その廊下には、生徒たちの鞄や着替えが置けるようなスペースと、服が汚れないようにだろう、貸し出しのエプロンが並べられていた。さらに、棚にはいくつものキャンバスがあり、凜は興味がそそられた。

 何度も塗りなおししていることが分かる風景画や凜の体の半分はありそうなほど大きな人物画。子供たちの作品だろうか、手のひらに収まりそうなキャンバスにリンゴがひとつ描かれているものまである。ひとつずつ見比べるようにキャンバスを動かしていると、次の一枚に触れようとした瞬間、右手に素早く痛みが走った。思わず手を引くと、文太が棚の上でキャンバスを睨んでいる。どうやら右手に飛び掛かったようだ。

「凜、この一枚には触るな」

 暗い中、文太の示した絵を覗き込むと、かろうじて絵の概要が見えた。外国の作品だろうか。ベッドの上で横になっている女性は、泣きながら叫んでいるように見える。一番手前にいるのは少年で、上半身しか描かれていない。だが、真顔で大きく口を開けていることからこの子も叫んでいるのだろう。だが、一切の表情がないせいで、悲しみか怒りか感情が全く読めないのだ。奥には家のドアが薄く開いており、小さな影がある。これは、何者かが襲ってきている瞬間なのか。

「……なにこれ」

 文太が、シャーっと威嚇をする。絵に変化はないものの、凜も体で気味悪さを覚えた。

と、再び画廊のドアが開いた音がして、新藤の声が聞こえてきた。

「すいません、予定にないことで時間をもらってしまって」

「いいですよ。全然お役に立てる情報もなかったようですし。妊娠前は、妻も教室を少し手伝ってくれていて、その時にイベントで遊びに来てくれたようでしたね」

「でも、妻が絵に興味があるなんて、今日まで知りませんでした……」

 勝手に奥まで入ったことを、どう言い訳しようか。新藤たちの話声が大きくなるにつれて、凜は焦った。

「でも、悪いことしていたわけじゃないし。調査だもんね、ね、文太」

 振り返った凜は、思わず息を呑んだ。さっきまで棚の上で威嚇をしていた文太の姿がない。小声で何度か呼んでみるも、返事がない。その時、あることに気づいた。今まで二人で見えていたその絵の中の一角、ベッドの足元に文太に似た猫が描かれている。しかも、見たことがないほど大きな口を開けて、叫んでいるようだ。

「え、うそでしょ。……文太!」

 凜が呼びかけても、絵の中の猫に動きはない。

「あれ、凜なのか?」

「あ、この間の事務所の」

新藤と原田が、教室からのぞき込んでいた。迷うことなく突進する。文太が絵の中に引きずり込まれてしまったと、どうやったら伝えられるだろう。興奮して言葉にならない凜の横で、原田が思い出したように告げる。

「そうだ! 新藤さん。その絵ですよ。私が奥さんのことが記憶に残っていたのも、この絵を持ってきてくれたからなんです。それ、海外のコレクターではちょっと有名らしくて」

 原田が教えてくれた詳細はこうだ。画廊をオープンさせたのは三年ほど前。専門学校で講師をしながら、教室の一部を借りて独自の生徒も集めていたところ、独立する見込みが立てた。受験用の絵画ではなく、自由に誰でも楽しめる絵画教室を開こうと、ここにオープンさせた。教室の生徒は順調に増えていくものの、固定となるには不安定で、さらに画廊の商品が売れることは本当に少ない。結果、カフェも併設してイベントを行うことで集客をしている部分もあるという。そんな中、定期的に開催していたペイントのイベントにやってきたのが、新藤の妻だという。凜は、新藤に妻がいたことも知らず、少し驚いた。だが、問題はその後だ。

「この方は、新藤さんとは名乗っていなかったと思います。それに、夫だと名乗る男性と一緒に来ていましたよ」

 原田の証言に、新藤は苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。それが怒りなのか失望なのか、凜には分からなかった。それでも、画廊を出て振り返った新藤は、何事もなかったかのように凜に話しかけたのだ。

「お前、なんか様子変じゃなかった?」 

 新藤と原田の話に虚を突かれていたが、我に返った凜が口から溢れるように流れを話した。文太と画廊に来て、絵を見つけたこと。絵を見る文太の様子がおかしかったこと。そして、振り返ったら文太がいなくて、絵の中にそっくりな猫がいること。

「あと、これ初めていうんだけど……」

 凜が口ごもっていると、新藤は早く話すように目で促した。気味悪がられてもいい、新藤にどう思われても関係ない。そう自分に言い聞かせてみても、誰かに話すのは怖い。

「私、本当に時々なんだけど、過去が見えるの。物に触れたり、匂いを嗅いだりした時に突然。コントールできないし、それがいつかも自分では分からないことも多いんだけど」

「予知能力の反対ってことか……、まさか」

「あの先生、生徒とデキているよね」

「え?……あぁ、やっぱりそうか」

 新藤は一瞬間を持たせた後、小刻みに何度か頷いた。

「よし。それじゃ、一回事務所に帰って作戦会議だ。まずは文太を助けてやらないと」

「え?」

「え? ってなんだよ。画廊の問題より、まずはあの生意気を助けないと恨まれるだろ」

 可愛い顔をして憎まれ口ばかり吐く文太を思い出す。何度もお尻を顔の近くに近づけては、お尻の快感を得られるポイントを叩くように要求してくるあの顔。尻尾を振って、丸い目で見上げて鳴く、実は憎めない猫。

「確かに、呪ってきそう。いや、そうじゃなくて。気持ち悪くないの?」

 その一言を誰かに向けて言うだけで、じんわりと瞳が滲む。鼻の奥が痛くなって、慌てて舌を向く。下唇を噛んで堪えても、声が漏れそうだった。と、後頭部に重みがくる。顔を上げると、新藤は顔全体で笑っていた。それは同情でも慰めでもない、心から面白いと思っている顔だ。

「え、じゃあお前。幽霊とか見えちゃう俺のこと、気持ち悪いと思うの? ショックなんだけどー」

「ち、ちがうっ! でも」

 再び頭を軽く叩かれた後、新藤は原付にまたがってヘルメットを投げてきた。

「ほら、早く乗れ。ベルも遊び仲間がいないと、うるさいぞー」

 込み上げた涙が一粒頬を流れると、凜はヘルメットをかぶった。新藤の後ろにまたがり、その腹にきゅっと腕を回した。

「おい、苦しい。文太を助ける前に、俺を殺すなよな」

 新藤の言葉に、もっと腕に力を籠める。ぎゃあ、とわざと悲鳴を上げた新藤の声とともに、原付が走り出す。そんな姿を二階の窓から見下ろす人に、二人が気づきことはなかった。


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