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13 キャンバスの叫び

 初めに事務所に入ってきた時から、原田にはじんわりと影がまとわりついていた。

少なからず持ち合わせている霊能力で、教室の運営というより原田自身に問題があることは、なんとなく感じた。

 だが、妊娠中の妻を見る限り幸せそうな夫婦だったし、生活が苦しいと訴えている割に事業は順調そうだった。新藤は、冷静に男の情報を頭で整理しながら、絵画教室までの道を原付で疾走する。

 赤信号に停止すると、横断歩道に佇む老婆がいる。杖をつき、渡らないのだろうかと疑問に思っていると、ふと気づく。老婆の足は、ひざ下部分がない。歩けないのだ。横断歩道の先に、まるで数キロの道が広がっているかのように呆然と眺めている老婆が、ふいに新藤の方を振り返った。急いで視線を逸らし、原付を発進される。青信号だけを見つめ、横断歩道を横切った。帰りは、ここを絶対に通らないようにしようと誓う。

 街中では、人々に気づかれていないだけで様々な霊が溶け込んでいる。今のように、一瞬霊だと気づかないことも多く、うっかり声を掛けそうになることがある。向こうも、新藤が「そういう人間」だと気づくと頼りにされ、ストーカーされたことがあるくらいだ。なるべく自分の目的とするもの以外と関わらない、助けないがモットーではあるのだ。

 原田が示した画廊兼絵画教室は、新藤の事務所の隣町である和泉町にあった。周囲にはカフェやラーメン屋、アンティークショップも並ぶお洒落な通りだ。駅の反対側には、凜が通う大学もあるので、午後になれば学生で賑やかになることだろう。絵画教室の建物は一軒家で、駐車場にはプランターで多くの花が彩られていた。可愛らしい外観の白い木戸を引くと、中はさらに見ごたえがある空間になっていた。都会の画廊ほど洗練された空気はないのに、一枚一枚のキャンバスの脇に添えられた陶器やアクセサリー。それが指先から温まるほどのぬくもりを感じさせるとともに、自然と呼吸が穏やかになるようだった。

「あら、体験さん? 」

 声を掛けてきたのは、ドアの脇にある小さなソファに腰かけた女性だった。新藤より少し年齢は上だろか。絵の具で汚れたエプロンをしているところを見ると、生徒の一人だろう。大きな瞳で笑顔を見せた後、

「先生は奥でお話し中。ギャラリーを見ているといいと思いますよ」

と言ったまま、視線を手元の雑誌に戻した。作品の構想でも得ているのだろうか。遠目にも、色々な作品が掲載されているのが分かる。

 キャンバスや陶器の作品を含めて、どうやら関係者のものを売っているようだ。側に顔写真付きの名刺が置いてあり、経歴や作品への思いが書かれている。

「ありがとうございます。実は私、絵心が全くなくて。趣味も欲しいと思っているんです」

 新藤が言いながら、ソファの半分に腰かける。女性は、隣に座ると思わなかったようで、一瞬虚を突かれたような表情をした後、少し右側へ居住まいを正した。その隙に見えたのが、女性の着ているシャツの襟もとの赤い痣。この女性も、原田が言っていた被害者の生徒ということになる。何人もの生徒が同じような目にあっているのに、教室に通い続けているというのも怖くないのだろうか。新藤がうっかり尋ねそうになった時、再び白い木戸が開かれた。

「こんにちわー」

 大学生だろうか。明るい髪色の大学生くらいの女子が入ってきた。新藤と目が遭った瞬間、軽く会釈をしただけで部屋の奥へ迷うことなく進んでいく。今の子は、生徒なのか。隣の女性に尋ねようかと思ったものの、彼女はすでに雑誌を真剣に読んでいるようだった。

 せっかくなので、新藤も部屋の奥に進もうと立ち上がる。ギャラリーと教室の部屋の間にカウンター付きキッチンがあり、これが原田の言っていたカフェなのだろう。奥の教室では、先ほどの子がエプロンをつけて道具を準備し始めているところだった。と、その子の背後から飛び出してきた黒い小さな影に、思わず新藤はのけぞった。足元がよろめき、テーブルの隅に太股を打ち付けて鈍い声が漏れる。痛みを我慢している間に、影はいつの間にか消えていた。

「……大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫です。君は、生徒かな。教室の中を見ても構わない?」

「え、いいと思うけど……」

 自分より年齢が上の人と話すことに慣れていないのか、彼女はぶっきらぼうに答えると、作品の集められている棚から自分のものを探し始めたようだ。

 教室のあちこちに、生徒が描いていると思われる画が置かれている。奥にある流しには絵の具を洗った後の水と、パレットや水入れが残されたままだった。キャンバスを並べて座ると、五、六人が限界のスペースだろうか。小さく音楽が流れる中、生徒の彼女は新藤を気にすることなく準備を進めていた。

「それじゃ、お忙しいところありがとうございました」

「あ」

 教室の奥につながる廊下のドアから出てきた顔を見て、新藤の声が漏れる。相手も同じく、驚きの声を上げた。

「なにしているんだ、お前」

「何って……、絵でも習おうかと思って」

「はぁ?」

 スーツを着ていて新藤の言葉に顔をしかめたのは、刑事の俊太である。少し前に巻き込まれた、バス転落事故幽霊少女事件で少し世話になって以来である。あの時の礼をしろ、と絡まれかねなかったので、軽く首を振って外に行くように促した。

 二人で画廊から外に出た途端、俊太は声を荒げた。

「お前、また変なことに首を突っ込んでいるだろう! やめろって、もう。お前は大人しく家業を継げばいいんだよ」

 俊太の腕を咄嗟にとると、新藤は建物の陰に回り込んだ。そして、声のボリュームを落とすように右手で示す。

「あのな、ちゃんと俺は、あの先生に依頼を受けてここに来ているんだよ」

「とかなんとか言って、やる気満々なんだろ。この教室の人間が何人も被害にあっているんだぞ。お前、無暗に危ないことをしていると」

「仕事だ、しごと」

 母親のように口うるさく文句をいう俊太を振り切ろうとすると、背後から鋭い声が追いかけてきた。

「生徒、一人死んだんだろう? 絞殺だってな」

 思わず振り返って、距離を詰める。

「聞いたのか。それが、不思議でな。絞殺ではあるけど、痕がおかしいんだ。ロープでも人の手でも紐でもない。しかも、うっすらと残っているだけ。あれで首を絞められたというのか……」

「なんだそれ。首を絞められた風で、窒息死でもしたというのか」

「そうなんだよなぁ。……鑑識も他に人の痕跡はないといっていて……って、おっと。これ以上、お前なんかに話せるか!」

 俊太は、新藤の腹に軽く拳を打ち込んだ後、まっすぐに瞳を見つめた。

「気をつけろよ。あの講師、なんかおかしいぞ」

「おかしいってなんだよ。あの先生が、生徒を殺したっていうのか?」

 俊太に霊能力はないはずだ。それなのに、新藤が感じた原田にまとわりつく影と不穏な空気を俊太も察知しているというのか。

「……いや、そこまで狂気も矛盾も感じないんだけど、男の勘ってやつ? あいつ、友達にはなれないな」

「そんなこと聞いてねぇって」

 軽くかわし、俊太に背を向ける。やはり探るべくは生徒よりも原田ということか。

「おーい、俺の邪魔するような動きはするなよー」

 最後の言葉は無視して、新藤は教室に戻った。この数分の間に、生徒がもう二人やってきて、結局教室には新藤を含めて五人になるようだ。教室の準備を始めていた原田が、新藤に気づいて会釈をする。

「みんな、新藤さんだ。この間、仕事でお世話になったので、今日はお礼に絵画教室の体験に参加してもらうことになったんだ。よろしくなー」

 それぞれがすでに絵を描く体制になっているメンバーは、ちらりと見た後、軽く頭を下げるだけだった。最初にソファに座っていた二十代ほどの女性、明るい髪の大学生くらいの子、さらにいる二人は新藤より一回り以上年上に見えた。会話から二人は友達で、小学生の子供が学校に行っている間に、絵画教室に週一回通っているようだ。

 新藤の本来の目的が絵でないと分かっているが、原田は本当に体験をさせるつもりらしい。スケッチブックを新藤のイーゼルに立てかけると、まずは描きたい絵をデッサンすることを促された。

「すみません、俺、本当に絵心がないんですよ。全然思い浮かばなくて」

「いやいや、普通のことです。それでは、棚に写真集やイラストがあるので参考に見てみるといいと思います。あと、ギャラリーの作品を見るだけでも、ちょっと想像欲が湧くこともありますし」

「了解。それじゃ、ちょっと失礼して」

 新藤が席を立っても、誰も興味がないのか顔も上げなかった。さらに、生徒同士の会話も、友達主婦が少し交わしただけでほとんど静かな環境だ。確かに集中して描きたいのかもしれないが、同じ時間同じ場所にいるのに目を合わせようとしない彼女たちに、違和感しかない。

「先生、ここの塗り方なんですけど」

「せんせーい、これっておかしくないですか? ちょっと浮いて見えますよね」

 棚にある画集を何冊か手に取ってめくってみたものの、背後で次々と飛び交う原田を呼ぶ声に居心地が悪くなり、必然的にギャラリーに足を踏み込んだ。一見、すごく熱心な絵画教室というようにも見える。しかし、どこか原田を奪い合っているようにも感じるのだ。

 ギャラリーの絵や小物を順番に眺めてみたものの、気になることはない。ふと足を踏み入れたカフェスペースで、新藤はカウンターにある写真に目を止めた。何枚か並べられたうちの一枚を手に取り、凝視する。

「新藤さん?」

 背後から急に呼ばれ、思わずびくりと肩が跳ねる。振り返ると、原田が立っていた。

「あ、勝手にすみません。ちょっと、才能がなさ過ぎてインスピレーションが……」

「なかなか急には難しいですよね。調べていただくのは、教室の後でもだいじょ……、その写真がどうかしました?」

 新藤の隣まで来た原田がのぞき込む。手元の写真に写っているのは、男女合わせて九人。イベントだったのか飲み会の写真のようだった。みんなで写っている手前の真ん中で笑顔を向けている女性を指さした。

「この女性、生徒ですか?」

 原田が不思議そうに、新藤を覗き込む。

「いえ、一度体験に見えた方ですね。これはいつだったっけ。一年半前くらいかな。妻が連れてきた方だったと思いますよ。えーと、新藤さんのお知り合いですか?」

 新藤は写真をカウンターに戻すと、力のない笑顔で言った。

「妻です……一年前に、亡くなったんですけど」

 記憶にある限り、新藤の妻が絵画教室に行ったなど、聞いたことがなかった。


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