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12 キャンバスの叫び

「おじいちゃん、起きて。ねぇ、起きてったら」

 和室の布団に丸まって寝ているのは、春から一緒に暮らし始めた祖父の大吉である。大学に行くまでに時間の余裕はあるものの、家のことは終わらせてから出ていきたい。六時に起床して朝ごはんの準備や洗濯、風呂とトイレを簡単に掃除してから、化粧をする。実家に住んでいた昨年までは考えたこともなかったけれど、流れ作業のようで簡単には終わらない。その上、こんな風にいつまでも起床しない祖父までついてきた。大学へ進学し、家を出る条件はここに住むことだと親に言われ、簡単に納得したことを最近では少し後悔している。

「凜、今日の朝ごはんは何かな?」

「アジの開きとみそ汁、おしんこだよ」

 凜の実家が地方ということもあり、小学生に上がった頃には盆も正月もまとまった休みで遊びに来た記憶はない。それは、両親も口には出さないが、祖母が早くに亡くなったことも理由にあるようだ。だからこそ、上京しての大学進学に反対だった両親は、大吉との二人暮らしを凜が嫌がると思ったようだ。だが、広い世界を見てみたかった凜にとって、その条件に大きな問題はなかったはずだった。だが、あまりにもこの老人、甘えすぎではないかと最近思う。それでも、両親に愚痴も吐くことはできないので、凜は毎朝一人、もやもやとした思いを抱えているのだ。

「凜、見てみて。毛玉吐き」

 ゲゲ、と部屋の隅で小さな音が反芻する。ため息をついて顔を上げると、そこには柔らかい毛で覆われた可愛らしい猫がえずいている。次の瞬間、口からは大量の毛玉と液体が零れ落ちたが、実際に畳が汚れることはない。だが、気持ちのいいものでもない。

「文ちゃん、毛玉を吐くのは止められないと思うけど、わざわざ呼ばなくていいよ」

 大吉の世話だけでも大変なのに、最近出会った猫の幽霊がいつの間にか住み着いてしまった。片付けをしなくても、それはいつの間にか消えているのだが、凜は畳の上を拭きたい衝動に駆られた。

「なぁなぁ、今日は学校から帰ったら下に行くんだろう? 俺もついて行っていい? あの犬は嫌いだけど、凜と一緒にいたいんだ」

 再びため息をついて、猫の幽体を見る。すっきりしたのか、顔をうんと伸ばして左足の後ろの毛を舐めている。調べたら、ラグドールという種類の文太は、毛並みも艶やかで丸い顔、くりっとした瞳が愛らしい。さらに、おっとりとした佇まいが気品に満ちている。ただ、口の悪さと少々重い愛が玉に瑕だ。自分が死んだあと、飼い主だった新名に憑き、彼女が亡くなった後は、凜にまとわりついている。成仏する気は、更々ないようだ。

「もうっ!」

 愛情の重い文太となかなか起きない大吉に呆れながら、凜は学校へ行く準備をすることにした。


「こんにちはー」

 学校が終わった凜は、三階の自宅に戻る手前で足を止めた。最近では、夕方はアルバイト先のカフェに行くか、探偵事務所へ寄るかのどちらかになっている。仕事がほとんどないことは知っているが、ただの探偵事務所ではないここは興味深い。事務所の中はすでに騒がしく、探偵である新藤がソファの前で騒いでいた。

「あ、凜! 帰ってきたか。ちょっとベルを大人しくさせてくれ」

 ゴールデンレトリバーのベルが、部屋の中を興奮して走り回っている。普通の人なら、ただそれだけのことに見えるだろう。だが、新藤と凜の目には、ベルの前でからかうように動く文太の姿が視える。ベルは一緒に遊ぼうと追いかけているのだ。再び、ため息を吐く。

「文太! やめなさい」

 その一言で、文太は軽やかに本棚の一角に身を隠す。そしてベルは、まるで文太が下りてくるのを待つように、おとなしく本棚の前にお座りをした。

「おおオ……すごいですね。まるで犬使いだ」

 気づけば、ソファに一人の男性が座っている。いや、猫使いなんですよ。と、新藤が呟く声は聞こえなかった振りをする。

「こんにちは。ご相談でいらしていたんですね。少々お待ちください」

 新藤は、こういう時に全く気が利かない。聞いた話をメモすることもないし、お茶も出さない。調査報告書を初めて見た時、すべての人名はABCとアルファベットで示されていたことに驚いた。調査内容に不足がないため、定期的に依頼は舞い込むようだけれど、事務所としての信用が落ちれば、家賃収入にも響く。そう考えた凜は、事務のアルバイトを買って出たのだ。この事務所の内情を知った上で、この世にないものが視える人材は現れないため、新藤にも雇うことに迷いはなかったようだ。だが、シフトもなければマニュアルもない。自由と言えば聞こえはいいが、凜が率先して動かなければならず、要は無法地帯だ。

「どうぞ」

 お湯を沸かしてお茶を入れた凜は、やっと落ち着いた事務所で、客人にお茶を出した。

「ありがとうございます。実は、ここが……やばいことを調べてくれる探偵事務所だと聞いて伺いました」

 男の向かいに新藤と並んで腰かけた凜が、ごくりと唾を飲み込んだ。やばいこと、とは何だろう。

「まずは、ご相談内容を伺ってみないとなんとも」

 男の風貌から見ると、サラリーマンとは思えない。平日の夕方、ラフな私服で探偵事務所にいる。長髪をひとつに結い、顎髭は男の見た目年齢を引き上げていることだろう。三十代半ばほどに見えるが、実際はもう少し若いのかもしれない。

「実は、私は絵画教室の講師をしているのですが、一月くらい前から生徒が変な現象に悩まされるようになりました。そして最近、そのうちの一人が亡くなったのです」

「え!」

 驚きを飲み込んだ凜とは異なり、思わず声を漏らしたのは新藤だった。ちらりと横目で見やると、想像通り口を両手で抑えている。どうにも感情を隠せない男だ。

「……すみません」

「いえ、いいんです。驚きますよね。実際、今は警察が彼女の死について捜査しているようです」

「ちなみに、その生徒さんの死因は何だったのでしょう」

「どうやら、絞殺らしいんです。詳しいことは警察も教えてくれないんですけど、一人暮らしのマンションという密室で、特に荒らされた様子もなかったとか」

「密室殺人ですか……」

 新藤はそう呟くと、脳内にインプットするように目を閉じた。ベルは、棚の上に避難した文太を待つことに飽きたのか、凜の足元にやってきて寝そべっている。その背中を軽く撫でながら、凜は首を傾げた。

「密室っていうけれど、結局はマンションのカギを誰かが閉めて帰ればいいんでしょう?

そうしたら、生徒さんに恋人がいたなら、その彼が犯人じゃないですか? 親でも一緒ですけど。合鍵を持っている人ってことになりますよね」

「……お前、そんな身もふたもないことを」

 新藤が、呆れたような目を向けてくる。

「あ、ごめんなさい」

 凜は慌てて口をつぐんだ。昔からの、悪い癖だ。思ったことを冷静に、しかし答えが知りたいばかりに相手にぶつけてしまう時がある。それがどんな問題であれ、ナイーブなものであるほど、相手は虚を突かれたような目をして、聞いた自分を責めてくる。凜の脳裏には、母親の困ったような、それでいて冷たい視線が蘇る。

……凜は、子供っぽくなくてよく分からないのよね。なんだか責められている気がする

 何気なく向けられた刃のような言葉を思い出していると、手首に生暖かさを感じた。ベルが舐めているのだ。まるで、現実に引き戻して安心させてくれたように。どうやら、無造作に背中を撫で続けていたようだ。

「まぁ、でも確かに一理あるな。凜、ナイス! ちょっと俺も確認してみるわ」

 思ってもみない発言に、思わず新藤を凝視する。その視線を不思議そうに、小首をかしげて交わした新藤は、客人に先を促した。

「改めまして。私、原田隆と申しまして、二丁目で画廊兼絵画教室をやっているものです。カフェも併設しているので、今度ぜひラお友達とランチにもいらしてください。仕事の依頼としては、絵画教室に一度来ていただけないかと思っています」

「私に、犯人を捜せと言っているのですか?」

「いえ、問題は確かに生徒が亡くなったことなのですが、……私も信じたくないのですが、生徒の一人が言うんです。これは、きっと何かの呪いのせいだと。ある教室の時に、一人がそういい始めたら、なんというか伝染してしまって。生徒がどんどん休会をするようになっているんです」

「分からなくもないですね」

「実は、生活もカツカツで、これ以上、生徒が減っても困るんですよ。だから、幽霊探偵の新藤さんに、呪いなんてないって証明してもらいたくてお願いに来ました」

 依頼人の原田はそう言って、テーブルに額が付くほど深く礼をする。凜と新藤は顔を見合わせると、お互いに大きく頷いた。次の仕事は、これに決まりだ。

「分かりました。それでは、日程の調整をさせてください。あとは、費用のご相談ですが……」

 新藤が細かい説明を始めたので、凜は横でメモをとりつつ、原田の身なりを観察した。確かに絵画教室の講師らしく、よく見るとズボンの膝辺りに絵の具のシミらしきものがある。ゴツゴツした指は太く、きっと力強くキャンバスに絵を描くのだろうと想像する。すると、ふと視界の中に見慣れないものがあった。この探偵事務所に来るようになって数週間が経つものの、部屋はいつも汚いくせに殺風景だった。生活感はまるでなくて、唯一生活の動きをしているのは洗面所にある洗濯機くらいで、それも大量の衣服が丸まっているので凜は入らないようにしていた。その事務所の机の上に、写真たてが置かれているのだ。背面しか見えないが、きっと写真が入っているのだろう。机に置かれているので、依頼人が持ってきたとは思えない。

 と、話の終わりを見計らってか、文太が棚から飛び降りた。反射的にベルが悠然と突き進む。また、慌ただしい追いかけっこの始まりだ。

「お前ら! いい加減にしろー!」

 原田にとっては、ベルが勝手に走っているだけに見えるだろう。凜が文太を捕まえようと立ち上がった時、事務所のドアが開いた。

「あら、にぎやかね」

 驚いた顔でのぞき込んだ女性を見て、原田が腰を上げた。

「真弓。ちょうど終わったところだよ。引き受けてくれるみたいなんだ。今度、教室に来てくれるって」

「本当! よかった。これで安心ね」

 真弓と呼ばれた女性は、新藤にお辞儀をしながらふっくらと膨らんだ腹に手を当てた。

「妻です。もう少しで臨月なので、この問題も早く解決したいんです。どうぞよろしくお願いします」

 夫婦は何度も頭を下げると、そう言って事務所を後にした。

「はぁ……美男美女だったね。絵画教室の先生か。格好いいなぁ……」

「なんだ。凜、やっぱりお前もまだまだお子様だなぁ」

 ふいに聞こえた新藤の言葉に反論しようと振り返った時、先ほどまであった机の上の写真たてが、すでに無くなっていることに気づいた。





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