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11 大切な彼女

 新名の家は、街の少し外れにある団地だった。何棟も同じ形の建物が並び、壁に描かれた番号を加奈子は探した。新名の家は五号棟、団地でも一番奥に位置していた。連絡をもらっていたのか、玄関のチャイムを押すと母親がすぐにドアを開けた。重たい金属音のするドアが、まるで母親の心の重石を表しているようで息が苦しくなった。

「すみません。凜の保護者です。実は、加奈子さんのことを先日伺いまして、仲良くさせていただいていたというのでご挨拶に」

 探偵と名乗ると母親も身構えるため、凜の保護者という設定は三人で来る間に考えたことだった。加奈子は凜に秘密にしていたことを何度も謝ったが、決して内容を話すことはなかった。

「ご丁寧にありがとうございます。凜ちゃん、体調は大丈夫?」

「え?」

「あ、違ったらいいの。すごく具合が悪そうに見えたから」

 新藤が振り返ると、凜の背中を覆っていた影が大きくなっているのがはっきりと見えた。今や肩をすっぽりと包み、足の膝まで影で隠れている。これなら、霊感がなくても感が良ければ体調不良に視えることだろう。

「実は、すぐれないんです。長居はしないので、お線香だけでも」

 頷いた母親が通してくれた部屋には、小さな仏壇と花が置かれていた。加奈子が手を合わせ、席を譲る。順番に線香をあげ終わったところで、母親が盆にお茶を入れてやってきた。

「加奈子ちゃん、いつもありがとうね」

「いえ。それより、勝手にこんなことをして、ごめんなさい。でも、凜は本当に新名のことを大切にしてくれていたんだと思って。大丈夫だと思うから、だから」

 加奈子の言葉に、母親が賛同するように数回頷いた。

「新名のこと、守ってくれてありがとうね。大丈夫。凜ちゃんにも話しましょう」

 新藤は、関係者ではない自分がここにいることに居心地の悪さを覚えながらも、原因が分かると思うと、太股の上で握った拳に力が入った。

「新名はね、事故で亡くなったのよ」

 母親が唐突に言ったセリフに、凜が一瞬顔をしかめた。予想とは違う言葉だったからだろう。

「事故? 事故なら、どうして」

「結果的に事故だったけど、二人の中では自殺だったんだよ」

 凜の問いに、加奈子が答える。

「二人……? ちょっと待ってよ。新名は一人で自殺したんじゃないの? だから、詳しいことを教えてくれなかったんですか? だって、加奈子がノートを見たら殺されるって書いてあったって。……一体、何が本当なの!」

 加奈子の瞳から、ゆっくりと涙が落ちる。新名の母親は、加奈子の肩を抱くようにして引き寄せると、覚悟を決めたように頷いた。

「新名は、高校の時の担任の先生と、ずっと付き合っていたんです。私が知ったのは、恥ずかしながら事故の時でした。卒業したから、隠さなくてもいい。そう思う人もいるかもしれないんですけど」

「……ネット上で、晒されたんです。気持ち悪いとか犯罪だとか書かれて、加奈子は悩んでいました。先生もどんどんおかしくなっていったみたいで、二人で車内で練炭で……」

 凜は、呆然と新名の母親を見つめている。恐らく、記憶の中の友達の姿と、今耳にしている話が合致しないのかもしれない。

「でも、そのことは表立って知られていないようですが」

 新藤が突っ込むと、母親が困ったように息を吐いた。

「ネット上の噂は、今でもあるようです。でも、一番は騒いだ人たちが責められたくないのでしょう。表面上は知らんぷりを決め込んでいるんです。それに……」

「死んだのは新名だけで、相手は生きているんです。恐らく、復職はできないと思うけど。先生は、私の担任でもあったけど、そんな無茶する人じゃなかった」

「……復職できない、というと? 」

 新藤の問いに答えたのは、母親だった。自分の娘を殺されたというのに、こんなことを他人に告げなくてはならない状況は、どんなに悔しいだろう。だが、母親は決して涙をこぼすことはなかった。

「意識は戻っているようなんですけど、結構な重症だったようで。脳にダメージが強くあって、言葉がうまく喋れないらしいです。でも、私には関係ありません」

 語尾が震えそうになるのを必死でこらえている母親とは対照的に、すでに顔面を崩して泣いている加奈子が続けた。

「学校は、やっぱり知られたくないことだから漏れないようにしたって。でも、知られないことは、新名が先生と築いてきたことも全部ないがしろにされている気がして、誰かがばれせばいいって思って」

「そのきっかけになればいいと、『こっくりさん』や『ノートのメモの嘘』で、みんなを混乱させたんだね」

 新藤の言葉に、加奈子が両手で顔を覆い、何度も何度もうなずいた。彼女なりに悩んだのは理解できる。だからといって、正しいやり方とは言えない。友人たちの間で、率先して凜を守ってくれた加奈子だからこそ、新藤は残念に思えた。

「ごめんね、凜がその後、こんなに混乱すると思わなくて。私、本当に心配で」

「……もういいよ。……もう、いいんだ」

 凜は悲しそうにつぶやくと、加奈子の手のひらをそっと握りしめた。新藤たちは、加奈子が落ち着くのを待って、新名の家を後にすることにした。廊下を歩いているとき、凜の背中に触れた母親が、少しだけ微笑みながら聞く。

「凜さんのおうちも、猫を飼っているの?」

「え、……いいえ。飼っていないです」

「あら、じゃあどこかで付いちゃったのね。猫の毛。うちも新名が好きで飼っていたの。一年前に死んじゃったんだけど、こんな白い毛がよく落ちていたわ。新名もいなくなっちゃったし、猫でも買おうかな……」

 必死で明るく見送ろうとしてくれているのを感じた三人は、少しだけ返答に戸惑いながらも会釈して、家を後にした。泣き止んだばかりの加奈子と駅で別れると、再びホームで二人は並んで電車を待った。

「ねー、結局さ、人間って本当のことは言わないんだよね」

 今度は、アナウンスに負けないように、凜は大きな声でいう。気持ちのやり場がないのかもしれない。新藤は答えずに、凜の言葉に耳を澄ませる。

「新名だって、結局打ち明けてくれなかったじゃん。加奈子もだよ。私、誰のことも信じられない。みんなだって、仲良くなんかないよ。私、好きじゃないよ」

 そして、隣の凜に目をやって、新藤はぎょっとした。今や、黒い影は凜の全体を飲み込みそうなほど大きな影になっている。そして、電車がホームに滑り込んできた瞬間だった。凜はそれまで見たことのない素早さで電車に走っていこうとする。慌てて服を掴んで引き戻すも、あわや接触しそうになり、電車は大きな警笛を鳴らした。

「凜! タクシーで帰ろう!」

 一駅とはいえ、電車で帰る勇気がなくなった新藤は、飛び出してきた駅員に頭を下げながら改札を出て、タクシーに飛び乗った。探偵事務所のビルの前で降りると、二階へ凜を連れて上がる。待っていたとばかりに飛び掛かってきたベルも、凜を覆う黒い影に気づいて飛びずさった。そして、何度も何度も繰り返し吠える。

「ベル、静かに」

 ううウ、と低い唸り声を漏らし、今にも飛び掛かりそうな勢いだ。それを見つつ、新藤は塩と聖水を机の上に置いた。さらに、帰り際に新名の家でもらってきた、彼女のTシャツを並べる。部屋の電気を消して、水に経を唱えながら息を吹き込む。そして、塩をひとつまみとると、凜の背中に放った。続いて、聖水をかけると、ギュッと軋むような音を立てて黒い影が少し小さくなったようだ。すかさず、新藤はハリセンで影を叩く。それも、Tシャツの方へ向けて。黒い塊となったそれは、一瞬の不意を突かれて凜の体を完全に離れ、Tシャツにべたりと張り付いた。ベルが警戒するように、飽きることなく吠え続ける。そして、再びそれが凜の体に飛ぼうとした瞬間、ベルがそれに嚙みついたのだ。

「いいぞ、離すんじゃない!」

 だが、勢いだけで噛んだのか、ベルは思ったよりも自分の口の中に滞留する黒いものに慌てたのか、パニックになったような表情で新藤の方へ向かってくる。驚いて、悲鳴を上げてしまう、新藤。

「な、汝の魂は世から離れるべし悪霊の名のもとにたてまつらん。そ、そなたの」

 新藤もベルの形相につられて混乱し、経ともいえない言葉をただ羅列する。凜は、憑き物が落ちたようにソファでぐったりと項垂れている。

「つ、つまりー! そいつはお前の新名じゃない!」

 最後は、黒い影に訴えるように叫び、無造作に聖水を掴むと、新藤はベルめがけて思い切り浴びせた。肩で荒い息をすると、目の前には顔をぐっしょりと濡らした、生気の抜けた顔のベルと、その口元には黒い影が力なく加えられていた。次第に影の形がはっきりしてきて、最期は白いふさふさの毛をもつ猫の姿になった。ベルの口からするりと床に降りると、自分の体をいとしそうに舐めている。

「やっぱり、猫だったか」

「なんだよ、お前。俺には、ちゃんと文太って名前があるんだぞ。新名はどこだ」

 ベルが、不思議そうに猫の体に鼻をくっつけて匂いを嗅いでいる。実態がないのだから匂いもないだろうが、猫もベルを嫌がっている素振りはない。

「疑問だったんだ。凜が耳元で聞こえるといった「新名」という呼び声は、お前の鳴き声だったんだ。それに、やけに凜は魚を食べていた。これは、霊のお前が取りついていたから猫っぽくなっていたんだろう。動きもどこか素早かったしな」

「何を言っているんだ。新名―、腹がへったぞ」

「お前、気づいていないかもしれないが。一年前に死んでいるそうだ。お前は、新名を守ろうとしていたのかもしれない。でも、知らぬ間に凜に取り付いて飲み込もうとしていたんだぞ」

 新名と凜の仲が良かったからか。それとも、波長が似ていたのか。猫の霊は、新名と間違えて凜に取り付いていたのだ。きっと、それは愛しすぎた故に離れたくなかったのだろう。

「俺が? まさか死んだはずがない。それに、こんな無関係なお嬢さんを傷つけるわけがないだろう。俺は至って冷静な文太様で」

 だが、猫の霊はやっと気づいたことだろう。どうして、自分が人間と普通に会話できているのかを。そして、自宅ではない場所にいるのかを。愛しの新名は、目の前にいないことを。

 新藤が分かる限りの情報を与えると、文太は驚きながら頻りに鳴いて謝った。三秒に一回、甘えたように前足を舐めることも忘れなかったが、それは気持ちを落ち着けるための作業にも見えた。

「新名は不幸だったけど、きちんと成仏していたよ。彼女は、もういない。愛情が深すぎると、お前のようにきっと誰かを傷つけてしまうんだろうね。もういんだよ」

 新藤が諭すように言い、猫の頭を撫でる。ベルも、悲しそうに一声鳴く。凜はいつの間にか、ソファで横になって目を閉じている。もう背中に、黒い影はない。

「……そうか。ありがとな。冷静になれたよ」

 文太と名乗る猫も、そっと目を閉じた。事務所の中に静寂が訪れる。……ベルの荒い息が繰り返され、新藤はくしゃみをしたい気持ちをぐっとこらえた。

 数分後。文太がぱちりと目を開ける。

「おい、俺ってどうすれば成仏できるんだ?」

 新藤は、嫌な予感がしてため息をついた。物事はひとつ片付いたはずだ。だが、またひとつ厄介者が増えたようだ。これまでのことを帳消しにでもするように、それは凜の隣に行き丸くなると大きな欠伸を一つしたのだった。

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