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07 大切な彼女

 探偵事務所にきれいなキッチンなんてない。大きな机も、お洒落なコーヒーカップも、ふかふかのソファなんてものものない。あるのは、壊れかけた小さなテレビと中古で買ったソファ、形ばかり大きい本棚のみ。事務所奥の小さなスペースにあるガスコンロで、新藤は眠気覚ましのコーヒーを入れようとお湯を沸かしていた。昨夜は、不倫調査で夜も張り込んでいたが、思っていたよりも遠出をしたため時間がかかってしまった。ケチってトンボ返りをしたが、仕事後に一泊すればよかったと途中で後悔した。狭くてもやわらかいベッドで眠ることができたかもしれない……と思いながらも、その考えを否定するように首を振った。

 足元に凛々しく座るゴールデンレトリバーが、自分のご飯はまだかと期待を膨らませて見上げてくる。そうだ、こいつのために帰ってきたんだ。自分にそう言い聞かせて棚からフードを取り出した。嬉しそうに足元にまとわりつく犬の頭を撫で、少し前の事件を思い起こした。

 高校生の少女が学校の行事中に、家族が殺害されるところを目撃してしまった。犯人を示すまでは成仏できなかった彼女は、記憶を失った中で必死に新藤に伝えようとした。そして、その中で出会った少女の飼い犬が、なぜかここに居ついたベルである。

「彼女の叔父さんの話だと、お前、まだ二歳とからしいからなぁ。体力もあるだろうし、餌もすげぇ食うんだろうな」

 『成仏探偵所』と名乗っている以上、ここに来る客は様々だ。昨夜のように立派な『探偵』として仕事をできる時もあれば、金銭が発生しないことも珍しくない。事務所の家賃も払える時と、そうでない時がある。ただ、異常なほど安価で借りられているのも、このビルが相当築年数を経過していることに由来する。ビルの居住者が少ないことからみても、あまり収入を見込んでいないのか、目くじらを立てて家賃を要求されることがないのも助かる一因だ。そもそも、一階の古本屋はいつ開いているのか定かではないし、三階はビルのオーナー家族が住んでいるようだが、ほとんど見かけることがない。昼間、ほとんど事務所にいないか、いても寝ているから気づかないのかもしれないが、新藤にとってこの事務所は居心地がいいし、認められていると思っている。コップにコーヒーを注ぐと、ソファに腰かけてテレビをつける。腹の満たされたベルも床に寝そべり、のどかな朝が始まろうとしていた。

 その時だ。数回、大きく壁を叩くような音と悲鳴が響く。初めは少し遠くの印象だったものが数秒後にはドアの目の前で何かが起きたのだろうと確信した。顔を上げたベルと目を見合わせ、腰を浮かせた時だった。勢いよくドアが開くと、右足から流血した女性が立っている。足元には鞄とヒールが転がっていた。

「ちょっと! すぐに出てこないって、どういうこと!?」

 再び、新藤はベルと目を見合わせた。一緒に暮らして数週間。この犬が人間のように賢いことはその動きから分かっている。さらに、まるで意思疎通がきちんとできているかのごとくこうして視線で会話もできる。お互い今思っていることが分かる。「だれだ、こいつ。」である。

「すみません、音がしてからまだ数秒しか経っていない気がするんですが」

「え? でもあれだけの音がしたら、普通驚いて飛び出してくれるでしょう!」

 何に怒っているのか、さっぱりだ。変な客が来たなぁと嫌な予感がした新藤だったが、すぐに客ではないことが分かる。

「お兄さん、ここの家賃どれだけ払っていないか知っている? ただでさえ安いのに、振り込みがないから、おじいちゃんもうどれだけ苦しんでいるか! いい大人なんだから、きちんと契約ってものを守れないの?」

 まだあどけなさの残る少女に金銭的な要求をされて、返す言葉もでない。それを払う見込みがないと踏んだのだろう。少女の勢いが増す。

「あのさぁ、そもそもうち、ペットだって認めていないんだよね。だって、トイレのしつけもできていないでしょうう? それに、ワンワン無駄吠えだってするだろうし……」

 そこまで言って、少女の視線がベルに注がれる。凛々しく座り、無駄吠えの一つもしない犬を見る。口を真一文字に結ぶと、少し驚かすように上半身を乗り出してみたものの、ベルは少し口を開いて舌を出しただけだった。

「そう。吠えることはないっと」

 気まずそうにしている少女に、追い打ちをかけるように新藤が言う。

「家賃について、遅くなってすみません。昨日、大家さんに滞納分を渡しました」

 遅れたのは事実だ。渡した時の大家は、札束を仰ぐ勢いで金勘定をしていたところだったというのは、言わないでおく。すると、気まずくなったのか少女は一気に勢いを無くす。

「あっそ。じゃ、その問題はいいとして……。おじいちゃん、年々気持ちも弱くなっているんだから。気を付けてよね」

 それだけつっけんどんに言い放つと、少女は床に転がったバックを拾い、背中を搔くように払うと身を翻した。

「あ、待って!」

 新藤が止めるのも待たず、少女が階段を駆け下りていく足音が響いた。

「ベル。なんだかヤバい予感がしない?」

 くうん、とベルが返事をするように鼻をすすった。大家の話をするということは、今の少女は三階の住人なのだろう。孫にどんな顔を見せているのかは知らないが、大家である大倉大吉は、新藤が知っている限り弱々しい老人などではない。いつもゴージャスに身を飾り付け、新藤が吹き飛ぶほどの勢いで話しかけてくる。その点では孫と似ているのかもしれないが、面倒な話である。

 だが、新藤の懸念は大吉の人格の問題ではない。今の少女の背中に渦巻く黒い影。それは、新藤が日常的に視ている街中の浮遊物の中でも、些か質の悪いもののように思えた。腕を組んでしばらく悩んだ後、新藤は三階の大吉を見透かすように、天井を見上げるのだった。

 とんとんとん、軽くノックをしたが返事はない。誰もいないのかと思い、階段を引き返そうとした時だった。大きな動物が跳ねるほどの音が何回か聞こえたあと、ドアが勢いよく開かれた。目の前に立っているのは、新藤の知っている大吉そのままだ。このドアの開け方、やはり家族だと思う。綺麗なまでのスキンヘッドに顎髭。笑った口元には金歯が光り、「おう」と片手をあげた腕には金の輪っかが輝いている。これのどこが、しょぼくれているというのだろう。

「なんだよ。暇だな。入れよ」

 相変わらずの口の悪さだが、人が良いのは知っている。新藤は招き入れられるまま、部屋に入った。新藤の探偵事務所と違って、三階は完全に居住スペースのようになっている。部屋に上がって、いつもと同じようにテーブルについた。

「昨日、金はもらったよな。今日はなんだ。ま、飲めよ」

 リビングの脇の和室に目をやると、和机の上に金と脱ぎ散らかした服があった。見なかったふりをして、テーブルに置かれた缶ビールを無造作に掴んだ。まだ朝だというのに、新藤が働いているということを忘れているのだろうか。だが、断る理由もない。ぐいっと飲みこみ、喉を鳴らすと、腰かけた大吉も満足そうに金歯を見せた。寝不足な上に、事務所で飲んだコーヒーと腹の中で混ざりあって妙な感じだ。この後、静かに眠れるとは思わなかった。「さっき、お孫さんが来ましたよ」

 ビールを口に傾けていた大吉が吹き出しそうになる。

「なんだって! お前、余計なことを言わなかっただろうな!!」

 立ち上がってすごんでくるが、大吉の身長はとても小さい。その上、定期的に酒を交わす仲とあっては、今更びびる必要もない。肩でため息をついて、

「どうして、そんなキャラ変しているんですか。疲れるでしょう」

と問いかける。一瞬、何かを言い返そうとした大吉も、諦めて椅子に座った。唇をすぼめてうなだれると、先ほどまでの勢いはどこへやら、小声でつぶやき始めた。

「別に、キャラ変しているわけじゃ……って、キャラ変ってなんだ?」

「つまり、本当の自分じゃなくて、嘘の姿で頑張っているっていうことに近いですね」

「……なるほど。キャラ変だな。いや、最初はそんなつもりなかったんだ。大学生になったあいつ、凜がこっちで一人暮らしをするっていうから、一緒に住もうと提案したんだ」

「へぇ、それは大変ですね」

 新藤が何気なく言ったことに、大吉は拳を作ってテーブルを打った。

「そうなんだ! まさか、孫と暮らすことがこんなに大変だと思わなかったんだ。というか、うんっていうと思わなかったんだよ。そうだろう? 一人暮らししたいとかいうだろう! 普通」

「優しいんですね」

「そうなんだよ! 果物だってあいつ、剥いてくれるんだよ。あーん、って口に入れてくれるんだ。そんなの、ばぁさんだってやってくれなかっただろう!」

 興奮していく大吉とは対照的に、新藤は段々と理解してきた。

「一度甘えてしまったら、どこで舵を切ったらいいか、分からなくなってしまったということですね」

「……まとめると、そういうことだな」

 なぜか襟を正すように大吉がまっすぐな視線を向けてくる。だが、新藤にとって大吉がどれだけ凜に甘えているかなど、どうでもいい問題だった。

「ま、それはいいんです」

 肩透かしを食らったように、大吉が顔をしかめる。

「それは、いい? なんだお前。からかいにきたんじゃないのか」

「そんなわけないでしょ。朝、凜ちゃんがうちの事務所に来たんです」

「新藤。さっきから聞いていたら、さらっと『ちゃん付け』するんじゃねぇ」

「その時に、凜ちゃんの背中に嫌な影を見ました」

「おい」

 新藤がスルーすることに初めは突っ込んだ大吉も、次第に顔が曇っていく。

「……つまり、どういうことだ? あいつに何か悪いものでも」

「その心当たりがあるか、聞きに来ました。階段では軽く足をくじいたみたいでしたが、多分、あれはしつこいと思います。ここ数日おかしなことはありませんか」

 わざとらしいくらい大げさに腕を組み、顎下に手を当てる。数分考えた後、思い出すように大吉が答えた。

「凜は、大学に慣れたみたいで最近バイトを始めたんだ。なんだ、コーヒー屋か?」

「カフェですね」

「あぁ、それだ。いちいち面倒くせぇな。そこで、ケガをしたっていっていたのが、おとといの夜だ。なんだか鍋が落ちてきたとかいって、手首に湿布をしていたな」

 新藤は、凜の風貌を思い出してみた。どこにでもいる明るい大学生という感じだったので、同じような子が多くいる中で、見つけられるだろうか。心配になりつつも、黒い影がまだ憑いていれば分かるはずだと思いなおす。

「凜ちゃんの大学ってどこですか? 何か起こる前に、原因を探ってみます」

「それは、一駅隣の西稲大学だよ。あいつ、保育園の先生になりたいんだって」

「分かりました」

「おい」

 新藤が腰を上げようとすると、大吉が呼び止めた。

「凜になにかあったら、守ってくれるんだろうな」

 何か、が分からないから調べようとしているのに、重い男である。だが、同時に顔の前に出された人差し指の意味が分からず、首を傾げた。

「助けてくれたら、家賃を一年間、ただにしてやる」

「願ってもないですね。引き受けましょう」

 新藤はその人差し指をぎゅっと握ると、大きく頷いた。

「おい、気持ち悪いぞ! 早く行け!」

 口は悪いが、大吉の顔には信頼にも似た笑みが浮かんでいる。新藤は大吉の家を後にすると、二階でくつろいでいたベルを呼び、凜の通う西稲大学へ急いだ。

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