夜が深くなっていくにつれて、頭痛が酷くなっている。ベルもそれを感じているのか、足元にピタリと寄り添って離れない。優しく鼻筋を撫でながら、痛みに耐えるように目を閉じた。微睡んでいると、脳裏に暗闇の映像が浮かんでくる。
「これ、あなたでしょう。両親に、何をしたの!」
体が前後に大きく揺れている。男の後頭部は薄く剥げていて、座っているのかそれを見下ろしている。なぜか辺りに聞こえないように小声だったが、体の奥底から湧き出る怒りを感じた。だが、男は何も言わない。
「私、知っているのよ。あなたが父からお金を借りていること! どうして私たちとここに来ていたあなたが、昨夜家にいたの? さっき、カメラの録画映像に映っているのを見たの。あれ、あなたよね!?」
再び、体が大きく揺れる。背後から悲鳴が上がる程、全身が傾いた。振り返った男の顔には凶器が滲んでいる。口元が小さくゆがんだように見えた。そして、玲奈の体が空中に跳ねるように浮いたのだった。
「……おい! 大丈夫か」
目を開けると、蛍光灯の下に新藤の顔があった。息は荒く、体は妙に熱をもっているようだった。しかし、額に手をやっても汗は搔いていないようだ。起き上がると、新藤も隣に腰かける。
「夢を見ていたの」
「そうか」
新藤は、胸ポケットから複数枚の写真を取り出した。その中の一枚に、夢の最後で見た顔があり、玲奈は凝視した。
「この人……」
「やっぱり、こいつに見覚えがあるのか」
「分からないの。でも、さっきの夢でこの男が最後笑いながら振り返っていた。そうしたら、体が大きく跳ね飛ばされて……私……」
そこで、玲奈は足元にいるベルに目をやった。さっきから手を舐めてくれているベルの姿は見ていたのに、まるでその感覚がない。
「ちょっと待って。私、ベルに触れないんだけど」
頭を撫でているというのも、感覚だった。手で触っているというより、脳が『触っている感触』を覚えいているだけで、実際にベルの毛の柔らかさを感じていない。はやる心臓を落ち着かせようと、テーブルの上のリモコンに手を伸ばす。コップにも腕時計にも触れない。新藤がゆっくりとリモコンに手を伸ばし、テレビをつける。画面ではニュースが流れ、アナウンサーが滑らかに読み上げている声が聞こえる。少しずつ音量を上げる新藤は、まっすぐに玲奈を見つめていった。
「君は、昨日の夜に事故にあっているんだよ」
体が大きく跳ねて、暗闇に投げ出された。あれは、そう……バスだ。
「……昨夜発生した山道の事故で、被害にあった高校生の死亡が十名から四名増え、さらに事故発生の経緯も明らかになってきています」
玲奈が画面を見ると、そこには死亡したと思われる生徒の名前が並んでいる。その中の一つに、『道川玲奈』の名前がある。
「……うそでしょ。私、死んでいるの?」
「まだ警察が調べているが、昨夜バスの中で君は運転手と近い位置にいたようだ。大きなカーブなのにブレーキ痕がなくて、恐らくこれは事故ではない。故意に崖下に転落したと思われるんだ。玲奈、君は両親が殺される瞬間を見てしまったんではないか?」
ベルが何かを察知したかのように何度も大きく高らかに吠える。立ち上がり、興奮したように事務所の中をうろうろと歩き始めた。後頭部の痛みが増していくことと併せて、映像のように記憶が流れ込んでくる。両親と叔父の言い争いを偶然見てしまったこと。林間学校が重なることが心配で、こっそりとペットカメラをしかけたこと。帰りのバスで映像を確認したら、前夜に両親が襲われている映像を見てしまったこと。ベルが男に一生懸命かみつこうとしていたこと。男が、両親に雇われている学校の送迎バスの運転手だと気づいたこと……。
「私があの時、男を問い詰めなかったら、こんなことに……」
「いや、男の借金は膨らんでいるようだ。叔父さんも、男を解雇するように説得していたようだね。それが、揉めているように周囲には見えたのだろう。男はもう首が回らなくなって、それまで助けていた君の両親にも頼れなくなって、恐らく殺害を……。林間学校に行っている時なら、アリバイになると踏んだのだろう。だが、レンタカーまで借りて足はついている。叔父さんは朝、君が事故にあったと知って、学校自体の対応も相談しようと家にきたようだ。あの事故は、決して君のせいじゃない」
「……あいつは」
「今は、重体だ。君が教えてくれたおかげで、ペットカメラにたどり着いたんだ。映像も君のスマホにきちんと残っていた。逮捕されて、裁かれるはずだ」
生きていると思うと、それが許せない気もした。自分と両親の未来はもうないのに、あの男だけは生き続けるなんて。だが、そこに幸せな未来があるとも思えない。
「叔父さんもご両親も、君の歌が大好きだったそうだよ。実は、コンクールに出るほどの腕前だったとか。それに」
「大丈夫。もうほとんど、思い出したから」
「そうか」
くるくると回り続けるベルが、玲奈の前に座った。まるで礼でもいうかのように頭を突き出す。それにそっと手を伸ばしたタイミングで、玲奈の意識は完全に途切れた。
※
「……で? どうしてそのままコイツがここにいるんだよ」
探偵事務所のソファに両足を乗せて縮こまった俊太が、新藤を責めるように言った。
「いや、玲奈の叔父さんと話したんだけど。あの家は手放すことになったらしいんだ。叔父さんは動物アレルギーもあって引き取れないって話になって」
「いやいや、コイツがここにいたら、俺が遊びに来にくいだろうよ!」
「まぁ、そういうな。番犬になっていいかと思い始めているんだ。あの子にすごい懐いていたし。可哀そうだろう」
「俺は残念ながら本物を見られなかったけど、写真で見ても可愛かったよな。だから、お前あんなに真剣だったんだろ」
「馬鹿言え」
「まぁ、お前のおかげで犯人もすぐ分かって助かったよ。持つべきものは、幽霊の視える探偵だな」
俊太が笑い声をあげた後、近づいてきたベルを追い払うように手を前後に振った。ベルは、怯える俊太をからかうようにソファに前足を乗せる。荒い息をすると、舌からたらりと細いよだれが落ちる。俊太の悲鳴が響く中、新藤は呆れたように笑った。
今回は、どこか後味の悪い仕事だった。玲奈は犯人を伝えようと、この世に残ってしまったのだろう。バス転落事故だけでなく、背後に殺人事件も絡んでいるため、事故は連日大きく報じられている。玲奈のことを含めて俊太以外に、叔父だけにはすべてを伝えた。最初は信じてくれなかったものの、一日のできごとを伝えると、玲奈の使命感の強さに涙を浮かべていたほどだ。おかげで、調査料をお礼として幾ばくかもらえそうだ。
「おい、新藤! こいつをなんとかしてくれよ!」
ベルは、俊太を遊び相手だと認識したのだろう。何度も飛び掛かるように跳ねては、事務所の中を走り回っている。
「仕方ないな。ほら、ベル。飯にしよう!」
調査をまとめたファイルを閉じると、新藤が立ち上がる。嬉しそうにベルが駆け寄ってきた。
『成仏探偵事務所 事件ファイルvol1』。
ここは、迷える幽霊や人々が自然と訪れる探偵事務所。新藤は、幽霊が視える探偵だ。ベルと客人の空腹を満たしてやろうと、新藤は冷蔵庫に手をかけた。