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02 少女の記憶

 探偵事務所に飛び込んだのは、目が覚めた場所の近くにあったからだった。朝早いことは分かっていたけれど、邪険にすることなく対応してくれたことには感謝しかない。雑踏の中を公園に向かって歩きながら、男は友達だという刑事に電話をしているようだった。軽口をたたき合っている様子が、男と友達の親密さを感じさせた。自分にも、そんな友達がちゃんといるのだろうか。記憶を失うということは初めてで、平静を装っているものの今にも走って逃げ去りたいほど心は不安感で満たされていた。どうして、記憶を失ったのだろう。両親と喧嘩をしたのだろうか。それとも、一世一代の家出中だったのかもしれない。もし、「これがあなたです」と真実が分かったとしても、それを受け入れることはできるのだろうか。だが、このままでは身動きがとれない。体のどこにも痛みはないのだ。きっと事件ではないと自分に言い聞かせ、少しでも記憶を呼び覚まそうとより意識を集中する。自分のこととはいえ、人の電話に聞き耳を立てるなんて行儀が良くないはずだ。

「いや、だからお前に頼んでいるんだって。詳しく? それは今度話すから」

 高校生の捜索願なんて、出ていれば目立つだろう。ニュースになってもおかしくないはずだ。きっとこの電話で、あっさりと分かるかもしれない。そう思った。

「そうか。分かった。目星はついたよ。それじゃあ、どちらかだと思うから確認してみる」

 電話を切った新藤は、振り返っていう。少しだけ目が泳いだ気がするのは、勘違いだろうか。少女は、気づかないうちに自分の気持ちが冷静になっていると痛感した。一人でさ迷っていたら、きっと今頃はパニックになっていたかもしれない。

「分かったよ。君らしい心当たりは二人いる。そのどちらかってことになるから、まずは家に行ってみようと思う。家族に会えば、はっきりするだろう」

 いつの間にか、新藤が友達に話すような調子で言う。確かに自分は探偵事務所の客だが、逆にそのフランクさが有難かった。確信に近づいている。そう思うと、一瞬怯んでしまう。

「私、家族に邪魔にされていたのかもしれない。もしかしたら、私が帰ることなんて望んでいないのかも。……でも、捜索願が出されていたってことは、探してもらえているってことなのかしら」

 心のままに吐き出すのを、新藤は何も言わずに見つめてくる。他人に、家族の事情が分かるわけはない。でも、大丈夫だと嘘でもいいから言ってほしい。

「とりあえず、近い方から回ろう。ただ、君は朝に公園で目覚めているんだよね。なんでここに来たのか、理由はあると思うんだ。何か思い出せることはないかな」

 ぐるりと辺りを見回してみたが、公園の光景で脳裏を刺激するものはないようだ。出勤時間が終わったのか、周囲には犬の散歩をする人やベンチで休憩をする老人、繁みで様子を窺う猫など、のんびりとした時間が流れている。芝生は広く拓けていて、ヨガ教室の準備を始めているインストラクターの女性の姿もあり、あまりに自分の状況はここに不釣り合いな気がした。 

「やっぱり何にも思い出せない……」

 そう答えた時だった。

「あれ、今日はないんですね。コンサート」

 少女と新藤の前に立っていたのは、初老の男性だった。小ぎれいな身なりで杖をついているが、声に張りがある。

「コンサート、ですか」

 自分のことを知っているのだろうか。問いただそうと口を開くと、新藤がそっと人差し指を口元に当てていることに気づく。質問は任せろ、ということだろう。確かに相手の身元も分からない今、安易に記憶喪失だとばれるのも得策ではないはずだ。

「この子が、ですか?」

「うーん……、そうだと思うけどなぁ。朝、散歩の時に歌っているのを聞くんですよ。私が勝手にコンサートと呼んでいるだけなんだけど、のびのびした歌声がとても澄んでいてね」

「おとうさーん」

 微かに聞こえた声に男性が振り返ると、視線の先には女性が手を振っている。同じように身軽な格好で、足元には小さな犬がいる。男性に駆け寄ろうとする犬を、女性がリードで引っ張って押さえていた。

「最近飼い始めたんですよ。孫たちはなかなか遊びに来てくれないし、私たち夫婦にとっては今一番大切ですよ。すみません、それじゃあ」

「あ、ありがとうございました」

 新藤は取り出していた手帳をポケットにしまうと、軽くお辞儀をする。男性は駆け足で家族の元へ向かう。足元にじゃれつく犬からは、家族の仲の良さが伺えた。

「……私、朝になると、ここで歌っていたっていうの?」

「そうみたいだね。もしかしたら、君のことを知っている人は他にもいるかもしれないよ。ちなみに、犬ってあの人の」

「まさか。私が覚えているのは、もっと大きくて凛々しい感じの」

 話していて、どうやら記憶にある犬に敵対心がないことを感じた。むしろ、どこか懐かしささえ覚えるようになっている。あの夫婦と可愛い子犬。もしかして、自分もあんな過程で育ったのではないだろうか。

「それじゃあ、確かめに行ってみよう。まずは、近くの方から。教会の裏にある家らしい」

 新藤が公園の奥を指さすように示した。少女は頷き、後に続いた。

 新藤が、刑事だという友人に聞いた家のうち、一軒目に着いたがチャイムを押しても誰も出ない。家や辺りもとても静かで、様子を聞けるような人も見つけられなかった。

「難しいな。もしかしたら、みんなで出かけているのかもしれない」

「みんなで? 今日って平日の朝よね。一緒に出掛けるなんてことはないでしょ」

「……そうだね。いや、みんながそれぞれってことだよ」

 新藤は呟くように返答すると、手帳をめくっている。どうやら、先ほど友人に聞いた住所をメモしていたようだ。スマートフォンを指で操作し、すぐに顔を上げた。

「もう一軒の住所は、ここから五分くらいだ。歩いて行ってみよう。そっちが違った時に、また考えようか」

 確かに、家の佇まいを見ても何も気になるところはない。記憶がないと普通なのかもしれないが、全く知らない場所に来た時のようだ。ここで自分が育ったと言われたら、むしろ衝撃さえ覚える。道すがら、スマホを見ながら隣を歩く新藤は真剣な表情だ。額にうっすらと汗が滲んでいるのさえ見える。この人に任せておけば、大丈夫かもしれない。そんな心持になると、思わず口元から音が漏れた。一度口ずさむと、止まらなかった。新藤が一瞬驚いたように目を向けるのが分かったが、構わず続けた。喉元をするりと流れていく声が耳に心地よく響き、振動する空気に触れられそうな気がして手を伸ばす。音のすべてを感じたくて目を閉じる。そっと目を開けると、スマホから目を離した新藤がじっと見つめてきていた。

「すごい、これはさっきの老人の気持ちが分かるよ。コンサートだ」

 まるで拍手しそうな勢いで目を輝かせている新藤に、嬉しさが湧くと同時に恥ずかしくなった。道路でいきなり歌いだしても、恥ずかしいからやめろ、と止めない男の方がすごい。そう思った時に、急に後頭部に痛みが走った。一瞬の鋭い痛みが去った後、それは徐々に広い範囲に広がっていく。

「お、ここだ。おい、君って本当にお嬢様なの?」

 新藤の言葉に顔を上げると、確かに目の前にあるのは大きな邸宅だった。門扉は背よりも高く、また上部には監視カメラが取り付けられている。敷地に一台の大きな車が止まっているので、誰かいるかもしれない。広い庭の奥にある家の様子を見ようと首を伸ばしたが、頭痛が酷くなって立っているのも辛くなり、しゃがみこむ。

「おい、大丈夫か」

「ごめんなさい。すごく、歩いているときからすごく頭が痛くなってきて。少しすれば治ると思うんだけど」

「何かを思い出しているのかもしれないな。家に見覚えとか、何か分かるか」

 少女は俯きながら、首を振った。しかし、耳に届いたのは微かに犬の声だ。薄目を開けた先に、茶色の大きな犬が窓辺に見える。

「ベル……」

「え?」

「あの犬……っ! ベルっていうの」

 思い出すという感覚とは違った。それは、突然頭に浮かんだ名前だった。あっているのか定かではないが、この距離でも意思疎通ができるという確信がもてた。

「ここに間違いなさそうだな。……、よし。門が開いた。入ってみよう。行けるか?」

 かろうじて頷きながら、新藤の背中を追う。犬の鳴き声がどんどん大きくなっていく。そして、カーテンとガラス窓の間に顔を出しているのは、ゴールデンレトリバーだ。少女の姿を見つけて、明らかに嬉しそうにくるくると回っている。ガラスに飛びついて、舌で舐めている様子を見ると、飼い主であることは明らかだった。

「これで、この家の子供っていうのは決定だな。よし、家の人に話を……」

 新藤の言葉が途切れた時、少女の視線もカーテンの隙間を縫って家の中の光景が目に入った。見えたのは、犬がはしゃいだ瞬間だけで、すでに閉ざされてしまった。だが、確かにそこにあった。恐らく、少女の家族であろう男女の倒れた姿が……。

「ねえ、見えたでしょ?……今、そこに二人の」

 気づけば、犬の左半身の毛先に赤黒い塊が付着している。恐らく、血液ではないだろうか。新藤は少女に答えることなく、庭先に置かれていたブロックを手に駆け戻ってきた。勢いよく窓ガラスに打ち付ける。犬の鳴き声が大きくなる。そして、セキュリティが設定されているのか、警報音が高らかに響く。脳内に突き刺すような音が刺激となって、、さらに頭の痛みが増していく。もはや立っていられない。さらに、衝撃的な光景を見たからか、吐き気まで加わっている。

「……ちょっと、私もう無理」

 そういうと、少女は家に背を向けた。


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