そう言う意味では聖女時代の方が楽だったかもしれない。あの頃は勉強よりもその日を生き抜くことの方が重要だったからだ。しかし今の私に聖なる力はすでになく、残ったのはあの時代に体に叩き込んだサバイバル術と神様から教えてもらった乙女ゲームやオタクの知識くらいだ。いや、一般的な常識などはもちろんフィレンツェアの記憶のおかげで体が覚えていると言うか、身に付いているのだが……しかし。と、フィレンツェアのこれまでの勉学の成績を思い出すと眉をハの字にせざる得なかった。フィレンツェアは「どうせ守護精霊のいない自分が勉強なんかしたって意味なんかない」と最低限の事しかしてこなかったのだ。まぁ、王子の婚約者になってからは挨拶の仕方や動き方なんかは公爵令嬢として恥ずかしくないようにと覚えさせられたみたいだけどそれだって付け焼き刃にしか過ぎない。
「確か悪役令嬢は自分の成績を上げる努力よりもヒロインの邪魔をして足を引っ張る方を頑張っていたのよね。元々勉強嫌いの設定なんだわ。
そうだ、思い出した!悪役令嬢とヒロインのテスト対決とか、ダンス対決なんてミニゲームもあったわ。あんな凶器のようなピンヒールを履いて動き回れるなんてヒロインって万能過ぎなんじゃないかしら?」
ヒロインはその色々な対決イベントなるミニゲームで高得点を取ると特別ボーナスとしてアイテムが貰えていた。確かショップでも買えない特殊アイテムが景品になっていて、その中には守護精霊に関するものもあったはずだ。それは守護精霊の加護の力を強める事によって強力な魔法が使えるようになるチートアイテムなるものだった。
各ルートでヒロインがそのアイテムを手に入れるとセイレーンの魅了の力が一気に挙がり、好感度が爆発的に上がるのである。つまり攻略が簡単になる特別なアイテムなのだが、入手する為にはそのミニゲームイベントでかなりの高得点を取る事が必須だった。神様は「アイテムを使うのは邪道だって意見もあるらしいけど、そのアイテムを手に入れるのに苦労したからこそのご褒美って格別だと思うんだ!このアイテムを使うと特別ムービーが流れる仕様にしてあってスチルがなんたらかんたら……」とかなんとか……あ、話が長くて途中から聞いてなかったんだった。でもそのスチルが綺麗だったのは覚えている。
つまり、そのアイテムを手に入れる事が出来ればアオの精霊の力が強くなるってことなのでは?もちろん今のままでも強いのだろうけれど、これから何が起こるがなんてわからないのだ。もしもの事を思えばそれはとても魅力的に感じた。
それに、神様は各種イベントやミニゲームにアイテムを用意していたはずだ。天界で遊んでいた時はあまりアイテムなど気にせずプレイしていたけれど、この世界のラストがどうなるかわからない以上アイテムに頼るのも悪くない。────つまりこの世界を生き抜く為の勉強をしつつ、まずは便利アイテムを集める……なかなかいいアイデアかもしれないと思った。
それに、悪役令嬢の座を退場した後の事を考えるとやはりこの世界での知識がないと悠々自適なスローライフは難しい気がする。貴族令嬢はどんな理由であれ婚約破棄をする、またはされると例外無く“キズモノ”と言うレッテルを貼られてしまう。そうなればまともな結婚など出来ない事は当然で、貴族令嬢としての価値は無いに等しくなるのだ。別に結婚はしたいわけじゃないし、貴族でなくなるのも構わない。問題はアオと一緒にのんびりゆったり楽しく静かに暮らすにはどうしたらいいか……それだけだ。そんな事を悩んでいたら、いつの間にか馬車は公爵家の門の前に到着していた。止まってからそれなりに時間が経っていそうなのに声すらかけられないとは職務怠慢なのでは?それくらい悪役令嬢が嫌われていると言う証拠なのだろうけれど。そんな事を考えながら眠っているアオをそっと鞄に隠したのだった。
「ご苦労さま」
私はそれだけ言うと馬車から慣れた手つきで飛び降りた。普通なら誰かが手を差し伸べて降りる補助をしてくれるのだろうがフィレンツェアにはそんな手が差し伸べられるどころか出迎えさえない。今だって御者は私の行動に驚きもせず、目も合わせずに黙っているくらいだ。
この家はいつもこうなのだから今更である。
もちろん人手不足だから……なんて事はなく、公爵家には使用人達はそれこそたくさんいる。だが、いつも遠目から姿を確認されるだけで誰も近寄ってこないし部屋に籠もれば食事の時間まで声をかけられることはない。そしていつものフィレンツェアなら加護無しと諦められている自分は無視されても仕方がない存在なのだと落ち込むかイライラしてキレるところなのだろうが私がそれをすることはないのでいつもより平穏になるはずだった。私の中にいる小さなフィレンツェアも前向きになっているようだし、アイテムを集めつつ計画を練ることにしよう。
だから今日もいつも通り、私は誰に向かってでも無く「只今帰りました」とだけ言葉を発する。いつも通り返事などなく、少しだけ集まる視線を感じるだけ……。
「フィレンツェア」
静まり返る部屋に凛とした声が背後から響き、私の体は驚き過ぎてビクッと反応してしまった。
恐る恐るふり返るとそこには、若い頃〈氷の令嬢〉と謳われていたらしい……それこそ氷のように美しく冷たい表情をした女性。フィレンツェアの母親であるエリザベート・ブリュード公爵夫人が立っていたのだ。