父の胸に抱かれたまま、領館の内部へ。
玄関ホールは意外と狭く、その奥も、やけにゴチャゴチャした印象。
色々と専門部署があり、細かく区画が分かれているのが、その理由のようだ。
……前世で稀に見かけた、古い木造アパートに似た雰囲気。
玄関の脇に受付窓口があるんだけど、これもアパートの管理人室みたいに見えるし。
「さて、まずは宿直室へ行こうか。あそこにベッドがあるから――」
と、随員を引き連れて奥へ向かいかける父。とりあえずベッドでわたしを休ませよう、ということらしい。
でも。
その前に、どうしても、急いで済ませておきたいことがある。
「パパ。あのね」
わたしは、父の耳元に、誰にも聞こえないよう、そっと小声で、あることをささやいた。
父は、ハッと気付いたように、足を止めた。
「そうだね。すぐ行こう。……ああ、諸君は、先に執務室へ行ってくれ」
と、父は背後の職員の方々へ声をかけると、さっさと廊下を進んで、角を曲がったところで、ゆっくりとわたしを床へ降ろした。
「さ、ここだよ。行っておいで。待っててあげるから」
「いってくるー!」
わたしは、大急ぎで、トイレへ駆け込んだ。
まだ馬車にダンパーもサスペンションも付いてない、この世界。
なのに、おトイレ事情は進んでいて、水洗式が普及している。
屋敷もそうだったし、この領館のおトイレもきっちり水洗。お掃除も行き届いていてピッカピカだ。
まず、急いで、用を済ませた。
それから、馬車旅で受けたダメージを回復するために、『治癒』の魔法を使った。
魔法の発動と同時に、ぱぁっ、と、一瞬、わたしの全身が白く輝く。これを誰にも見られないよう、トイレに入る必要があったのだ。
光が収まったとき……わたしの身体の節々に残っていた痛みや疲労感は、きれいさっぱり消えて無くなっていた。
以前読んだ魔術書には、『治癒』魔法の効果は、ちょっとした怪我を塞いだり、わずかに疲労を回復する程度だと書いてあったのだけど。
いま実際に使ってみると、効果は絶大だった。これ多分、かなり酷い怪我とかでも治っちゃうんじゃないだろうか。まだそういう状況になったことがないので試してないけど。
モンスター狩りでレベルが上がったことで、魔法の威力も向上しているのかもしれない。
わたしはすっかり元気になって、トイレを出た。
「おお。早かったね」
父は律儀に廊下で待ってくれていた。
「パパ。わたし、げんきだから、ねなくても、だいじょーぶだよ」
「そうかい? じゃあ、パパの仕事場を見せてあげようか」
「うん、みたい!」
そんなわけで、宿直室には向かわず、わたしは再び父の胸に抱かれて、廊下を抜け、階段をのぼった。
二階の長い廊下の突き当たり。
両開きのドアの向こう、広々とした空間へと踏み込む。
さきほど立ち分かれた職員の方々が、壁際に居並んで、わたしたちを迎えてくれた。
「ここが、パパの執務室だよ。いつもここでお仕事をしているんだ」
「ほぇー」
父がにこやかに告げる。
わたしは、素直に感嘆の声をあげていた。
壁や床は、よく磨かれた板張り。面積はざっと三十畳相当というところ。
窓は大きく開かれて、陽の光をしっかり採りこんでいる。
広い室内、まず目につくのは、奥に鎮座する、ばかでっかい木製デスク。父の執務机だろう。
その手前には、ソファとローテーブルの応接セット。かなり立派なつくりになっている。来客との面談用かな。
出入口から向かって左側の壁沿いに、鉄製の棚が並んで、資料らしき紙の束がぎっしりと押し込まれていた。
贅沢な調度のたぐいは一切見当たらない。天井に掛かっているのも、シャンデリアなんかじゃなくて、ただの燭台だし。
質実剛健。田舎領主の執務室とはこういうものなのか。あるいは、父の性格によるものか。そこらへんはよくわからないけど。
「さて、パパはこれから、やりかけの仕事を片付けるから、そこに座って待っててくれるかい?」
「うん、いーよ!」
「よし、すぐに終わらせるからね」
父はわたしを応接セットのソファにポフンと座らせ、そのまま悠然と執務机についてペンを握ると、なにか書き物をはじめた。
「まず、ラクミヤくん」
「はい」
「サインは済んだ。持っていきたまえ」
「承知しました」
「次、アスミス」
「はい」
「サインはしておいたが、まだこの件は本決まりではない。先方と、いま一度、よく話し合い、詳細を詰めたまえ」
「はっ、仰せの通りに」
「では次。ラークくん、必要な署名はこれでいいのだね?」
「はい、ありがとうございます」
こんな具合に、次から次へと紙をめくって、さらさらと書き続けながら、待機していた職員を呼び寄せ、決済した書類を手渡していく。
父が働いてるところ、初めて見た。ああしていると、すごく有能な経営者っぽい……。
そんな父の姿に、ちょっと見惚れていると。
廊下のほうから、新たな足音が響いてきた。
ドアがノックされる。
「入りたまえ」
父の声に応じて、ドアが開かれた。さっき玄関先で、ちらと見かけた人だ。
若い女性職員。手に紙の束のようなものをたずさえている。
あれはもしや……。
「どうした、マリシアくん」
「こちらをごらんください」
「新聞か。どれ」
あ、やっぱあれ、新聞か。この世界にも新聞はあるんだな。
屋敷には、新聞のたぐいはまったく置かれてなかったけど、ゲームの「ロマ星」では、学園の教職員らが街のスタンドで新聞を買って読む、というシーンが何度か描かれていた。
「……これは」
その新聞の一面に目を通した途端、少しだけ、父の顔色が変わった。
「きみたちは、もう知っていたのか?」
と、周囲を眺め渡す父。
「はい。第一報は、早馬で、今朝のうちに届いておりました」
職員さんの一人が、落ち着き払って応えた。
「すでに我々のほうで、必要な対応は始めております。ただ、領兵の動員については、我々の権限では決定できませんので、これは領主さまのご裁可を待たねばと。そういう状況です」
「そうか、それでみんな、わざわざ待機していてくれたのか」
「はい。いかがなさいますか?」
「すぐに始めよう。諸君、急いで必要な書類を持ってきてくれたまえ」
「はっ!」
たちまち慌ただしい反応を見せる職員さんたち。
いったい何が起こっているのか。
「ねー、パパ」
と、わたしは声をあげた。
「それ、なあに? わたしも、よみたい」
途端に、室内の目が、一斉にわたしに向けられた。
「あー、シャレア……」
父は、わずかに落ち着きを取り戻した様子で、穏やかに告げてきた。
「これは新聞といってね。シャレアには、ちょっと難しいかもしれないよ。それでも読むかい?」
デスクごしに、父が訊いてきた。職員の方々は、まるで珍獣でも見るような眼差しを、わたしに向けてきている。
新聞に興味を持つ幼児って、そんな珍しいだろうか?
「うん、しんぶん、よんでみたいの!」
ここは無難に、そう応えておく。
「そうか。マリシアくん、これを」
「はい」
すぐに、女性職員のマリシアさんが、父のデスクからわたしのもとへ、新聞を持ってきてくれた。
その一面記事の見出し。
『ハイハットにモンスターの大群が出現、住民に被害も』
んー?
ハイハットって、たしかこの領都の近くの村で……ダンジョンがある山のふもと、だったような。
これ、もしかして、かなり非常事態なのでは?