「今日の昼なんだが、たまには外で食べないか」
突然クライヴからそう提案され、ヘザーが車で連れて行かれたのはフリーリング領主都の隣町にある小さな食堂であった。
原色で彩られたその食堂は、淡い灰色の石で作られた周囲の家々からは少し……いや、結構浮いている。
だが同時に、食欲をそそるスパイスの芳香も漂わせていた。昼食前であるため、たまらずヘザーの胃袋がクウと鳴った。
「ここ、なんか変わった店だな」
「インドに駐在していた、元炊事兵の店主が営んでいる店らしい」
店へと歩を進めるクライヴの手短な説明に、へぇ、とこれまた短い相槌を返したヘザーも軽やかな足取りで後に続いた。
店内もカラフルであったが、掃除が行き届いており、なかなか混み合っていた。
幸いクライヴは予約を入れてくれていたらしい。彼が店員に声を掛けるとすぐ、予約席のプレートが置かれた窓際の丸テーブルへと案内される。
ヘザーの椅子を引いたクライヴが、
「この店は、ビリヤニが旨いらしい」
だしぬけにそう言った。素直にそこへ座りつつ、ヘザーは首をひねる。
「ビリヤニって何? ビリヤードの親戚?」
「混ぜご飯料理だ。生憎ビリヤードとは赤の他人だな」
呆れ顔のクライヴの軽口にも
「ご飯あんの? 食べたい!」
「それは何よりだ」
椅子ごと跳ねそうな勢いのヘザーに、クライヴも暗い表情を緩めた。
しばらく待った後、銀皿に載って運ばれてきたビリヤニは、一見すると具沢山の炊き込みご飯のようだった。
束の間、ヘザーの内なる高田は、祖母が得意だった鶏五目ご飯を思い出した――が。すぐさま漂ってきた香りが異国情緒に満ち溢れていて、そんな小さな
前評判通り、ビリヤニはとても美味だった。
細長いバスマティ米のパラリとした食感は、もっちり感が売りの日本の米とは随分違うけれど。
だが、野菜や鶏肉、あるいはスパイスの旨み・風味の溶け込んだ米を口に入れた途端、ヘザーは途方もない幸福感や懐かしさに見舞われた。
「やっぱ米って落ち着くよなぁ」
たまらず吐息まじりに呟くと、いつも死刑執行寸前がごとき陰鬱顔のクライヴも、つられるように微笑んだ。
「そうか。君の口にも合って良かった」
いつになく優しい、甘さも混じった眼差しについ、ヘザーもほんのり照れる。
「ん……ありがと。でも、なんでオレが米食いたいって知ってたんだ?」
米を食べたい欲求はあったものの、二十世紀初頭のイギリスにおいてメジャーな食材でないことも承知していたので。
彼女は取り立てて言及した記憶もないのだ。
「ジェフからこの前、偶然聞いた。偶然な」
何故か「偶然」という単語を妙に強調しつつ、目を伏せたクライヴが種明かしをする。
「あー、そういやちょろっと言ったかも……よく、こんな遠くの店も知ってたな」
「ここはスタンリーお抱えの、料理人から訊いた」
「スタンリーさんの?」
「ああ。前にバターチキンカレーを振舞ってくれただろう」
「あ、あの人ね。ハイハイ」
それは一か月ほど前、アーヴィング村でスタンリーのご
たしかにあのバターチキンカレーも絶品だったが、しかし。
ヘザーはわずかに身を乗り出し、クライヴの顔を覗き込む。
「オレに米食わせるために、スタンリーさんの料理人に訊いたの? わざわざ?」
「……そうだが」
気まずそうに、クライヴの森色の目が斜め方向へそらされる。
照れ隠し丸出しの仕草を眺め、ヘザーの頬がつい緩んだ。
「マジかよ。アンタ、めちゃくちゃオレのこと好きじゃん」
「当たり前だろう」
視線はそらされたままだが、クライヴから即座にそう返された。緩みっぱなしのヘザーの頬に、赤みも重なる。
苦手なはずのスタンリーに借りを作ってまで、自分のちっぽけな願いを叶えてくれた――これで、乙女心がキュンとしないわけないだろう。
実際ヘザーは、大きな瞳を潤ませて両手で真っ赤な頬を覆った。
最近のクライヴは、以前より素直に好意を伝えてくれることが増えていた。
とはいえ平均的なイギリス人紳士としては、それでもまだまだ
ただヘザーにとっては、少しばかり不器用な愛情表現がまた、くすぐったくて嬉しくもあるのだ。
このままだと乙女心のままに、バカップル全開なことを口走ってしまいそうなので、慌てて己の太ももをこっそりつねりつつ、代わりに軽口を放った。
「てっきりオレ、アニキから貰ったグラスとか割っちまって、口止め料で連れて来られたのかなって」
婚約の報告がてら伯爵邸へ行った際、「驚いた。まだ結婚していなかったんだね」と笑われつつ贈られた、いかにも高そうな揃いのワイングラスを持ち出すと、クライヴがこちらへ向き直ってしかめっ面を浮かべる。
「そこまで俺は
ヘザーの軽口に嫌味を返したところで、クライヴが小さくあ、と呟いた。
「そうだ。兄上から手紙が届いていたんだ」
「手紙? やっぱグラス返せって?」
「そんなわけあるか。俺たちの結婚披露宴の打合せについてだ」
「ヒローエン……?」
己の中に一切なかった概念に、ヘザーは目を見開いてスペースキャット顔を晒す羽目となった。
とんでもなく間の抜けた虚無っぷりに、クライヴがつい吹き出す。
「伯爵の弟の結婚だからな。
シェリー義姉さん妊娠したんだ、という喜びよりも先に噴出したのが
「ヌギャーッ!」
大層汚い悲鳴であった。
その手の催し大嫌いなヘザーによる、魂の絶叫だ。
容姿との
「うん……気持ちは分かるがな」
と、渋い顔での同意に留まってくれた。
ただ彼は、ヘザーよりも思慮深いので。テーブルに乗せた両手の指を組み、淡々と続ける。
「探偵業を続ける以上、特権階級との縁を作っておいて損はないだろう。兄上もきっと、そう考えての提案のはずだ」
「そりゃあ、そうだけど……でもさ、動きづれぇドレス着たり、踊ったり、クソ面倒じゃん」
腕を組んで目を細め、唇も尖らせて不平を漏らすヘザーに、クライヴは眉をハの字にした。
思いがけずの悲しげな表情に、ヘザーは思わず目を丸くする。小首もかしげた。
「どしたの、クライヴ?」
「俺は、楽しみだよ」
「え」
「君のドレス姿も、君と踊る事も」
「え、あ、えっと」
「無論、普段の装いもとても魅力的だが」
「あぅ……」
そんな物憂げに伏せられた瞳で、心底残念そうに言われると――これ以上抗議できなかった。
大好きなぬいぐるみを失くしてしまった、子どものようなしょんぼり顔に、母性と恋心が衝突・大爆発を起こす。このビッグバンによって、生み出されてはいけない何かが創造されてしまった気もした。
言葉を見失ったヘザーは、あうあうと無意味にうめき声を漏らした末、腹をくくった。
「あーもうっ。分かったよ、ビリヤニの礼にドレス着てやるよ。ついでにアンタとも、何曲でも踊ってやるよ」
ヘザーは半ばやけっぱちに、そう宣言する。
どうせ教会で、ウェディングドレスは着る算段だったのだ。
もう一着増えたところで……うん、着替えとかかなり面倒ではあるが、許容範囲だ。たぶん。
普段は、仕立ては良いもののかなり簡素なドレスばかりを着ているのだから。
たまには目一杯着飾るのも、いい旦那孝行になるであろう。
ヤケクソ気味ではあるものの、ヘザーが意外と義理堅い有言実行型だと熟知しているクライヴは、安堵したように目元を緩めた。
「無理を言ってすまない、ありがとう」
「いいよ。その代わり、ちゃんと惚れ直せよ?」
ヘザーが椅子に背を預けて鼻を鳴らし、アンタのために着てやるんだからと凄むと。
「それなら問題ない。今も惚れ直している最中だ」
クライヴが妙に真っ直ぐな目でそう断言するものだから、ヘザーの全身が真っ赤になる。
思わず、ドレスも百着ぐらい着てやるべきか、という考えもよぎるのであった。