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おまけ2:恋人が、俺の知らない所でいじらしい

 クライヴの所有するビルの三階に、ジェフの営むバーはある。

 真っ白な髪を後ろになでつけた、眼鏡姿の初老紳士が切り盛りするそこは、店主の温和な人柄もあって静かに繁盛している。


 クライヴもヘザーが事務所に来るまでは、月に何度か足を運んでいたほどだ。

 彼は酒が苦手なため、もっぱらジェフとの会話が目当てではあったが。

 ただ、開店準備中のこの時間帯に顔を出すのは初めてかもしれない。


「おや、オーナー。珍しくお早いですね」

 カウンターでグラスを磨いていたジェフが、老眼鏡の奥の瞳を見開いて陰気顔のクライヴを見つめた。

 ドアに「準備中」のプレートが下がっているにも関わらず入店した不作法を責めず、グラスを置いてカウンターのスツールへと招き入れる。クライヴも小さく礼を述べ、そこへ座った。


「ヘザー嬢はご一緒ではないのですね。お出かけの際は、いつも付き添っていらっしゃるのに」

 ジェフの少しばかりからかうような口調に、クライヴはつい口角が下がってしまう。

「常時一緒な訳ではない。彼女なら夕飯の買い出し中だ――その、彼女のことで、少し話がある」

「話、ですか。あいにく私も、店を手伝って下さっている時のご様子しか、詳しく存じ上げないのですが」


 あとは街中で偶然出くわした時程度の接点しか、とジェフは続けようとしたが、平素も暗い顔をしているビルのオーナー様が、輪をかけて負のオーラをまとっていることに気付き、黙って彼の言葉を待つことにした。

 酒が苦手なクライヴのため、ジェフはごくごく少量のドライジンを細身のグラスに注ぎ入れ、そこへ氷とトニックウォーター、ライムジュースも加える。出来上がったジントニックを、そっと彼の前に置いた。


 手元に置かれたグラスに手を伸ばし、無意味にその側面を指で撫でながら、クライヴは小さく嘆息。

「……ヘザーは口が非常に悪いものの、案外純朴なんだ」

「はあ、左様でいらっしゃいますか」

 純朴かは意見が分かれるだろうが……素直な働き者であるのは、確かだろう。


「ああ。だから、その……彼女によからぬ事を吹き込む酔客すいきゃくがいないか、気を付けて貰えると有り難い」

 クライヴの頼みごとの根幹にあるのは、アーヴィング村でヘザーが口走ったドギツい下ネタである。これ以上、彼女が品格を疑われる知識を仕入れるのは、避けたかった。

 いつか泣いてしまう気がするのだ、自分が。


 一方、ヘザーの方便によって下ネタの供給元扱いを受けているジェフであるが、クライヴのこの依頼について、別方向で思い当たる節があった。

 なので男性にしては指の細い手を、ポンと一つ打つ。


「ご安心ください。ヘザー嬢を口説く客につきましては、こちらも注意を払っておりますから」

「はっ?」

 朗らかな笑顔で新たな火種を投入され、クライヴは持ち上げかけたジントニックをゴトンとテーブルへ置いた。

「それは……初耳なのだが」

 思わず声が低くなり、濃緑色のジト目も殺意満点になってしまう。


 しかし長年面倒くさい酔っぱらいをあしらっているジェフが、この程度で怯むわけもなく。

 穏やかな紳士然とした笑顔のまま、そうでしょうと言わんばかりにうなずく。

「ヘザー嬢自ら、口説いてきた客をすげなく追い払っておりましたからね。取り付く島もない、の見本図のようでした」

 そうなのか、と言いかけたクライヴであったが、思い切りその様子が想像できた。

 なんだったら、口と一緒に手か足も出していそうである、としみじみうなずき返してしまった。


 妙に納得した様子のオーナーに、ジェフは目を細めて続けた。

「もちろん酔った勢いだけではなく、真剣に彼女へ告白するお客様もいらっしゃいましたが――」

 なにせあの美貌である。本気で惚れる客がいて当然であろう。

 一度だけ、お茶だけでもいいから付き合ってほしい、と食い下がられることもあったそうだ。

 だがそんな時は、ヘザーも真っすぐ相手と向き合って、正々堂々と断っていた。


「オレさ、彼氏いるんだ。オレにはもったいないぐらい、強くて賢くてクソ真面目で優しい、男前の彼氏がさ。あんないい男に大事にしてもらってるのに、裏切れるワケねぇじゃん。オレだってアイツにとって、いい女でいたいもん」

 だからアンタとはお茶一杯でも付き合えない――こんな風に言われれば、どの男性も引き下がるより他なかった。


「その辺の伊達男よりも、よほど凛々しい断り方でいらっしゃいましたよ」

 なんとも誇らしげに、ジェフはそう言い切って笑みを深める。

「オーナー、愛されていらっしゃいますね」

 続くこの言葉で、呆けていたクライヴの顔が真っ赤になる。彼はたまらず口元を手で覆って、うなだれた。そうでもしないと、ニヤけそうだったからだ。


 たとえ彼女の言葉に、言い寄る男を追い返すための方便が混ざっていたとしても。

(参った。これはかなり、嬉しいかもしれない)

 女々しい自分が想いを告げるよりもずっと前から、そんな風に考えてくれていたなんて。


 嬉し過ぎてあの、品性底割れ下ネタの震源地など、どうでもよくなってしまった。いや、本当はよくないのかもしれないけれど。

 ただヘザーの性格上、ジェフの店を封じたところで、絶対どこかでしょうもない知識を入手してくる気がした。よってこの件については、黙認あるいは「見なかったことにしよう」の結論に達する。


 クライヴ自身も少年時代、家庭教師の目を盗んでは無駄な猥雑エロ知識を身に着けていたわけですし。


 彼はそう開き直った結果、普段の態度の割に真摯しんしで案外いじらしい彼女を甘やかしたい衝動に駆られた。

 口元を隠していた手で頬杖を突き、むっすりと考える。


 ただ、彼女は金銭欲はままあるものの、それがあまり物欲に向かないきらいがある。特に宝飾品の類は、最低限あれば問題なしの姿勢なのだ。

 一庶民としては頼もしいことこの上ない経済観念だが、婚約者の立場としては「もうちょっと何か強請ねだってくれても」と思わなくもない。


 あまり高価な物をプレゼントしたところで、ただただ恐縮させてしまう気もする。

 自分のような女性慣れしていない不調法者でも、嫌味なく渡せるプレゼントは――


「そういえばヘザー嬢が、お米を食べたいと仰っていましたね。この前、市場で出くわした時に伺いました」

 思考の沼にずぶずぶだったクライヴの耳に、ジェフのそんなアドバイスが届く。

「米を? あの、インドや南欧の料理に使われる?」

「そうですね、あのお米を召し上がりたいそうです」

「相変わらず変わったものを欲しがるんだな……」


 彼女の育った孤児院は、イタリア系やスペイン系の人間が運営していたのだろうか。

 クライヴは首を傾げたところで、はたと気付く。

「いや、それより。何故俺の考えている事が分かるんだ」


 ヘザーへのお手頃価格のプレゼントについて悩んでいる人間に、すかさずお米情報を垂れ込むジェフ――読心術の使い手だろうか。

 警戒心も露わのクライヴにも、ジェフは微笑を崩さない。


「オーナーは、抜きん出て腹芸が苦手でいらっしゃいますから」

「悪かったな」

 やんわり馬鹿にされ、またしても分かりやすくムッとするクライヴであった。

 そういえば以前、兄にもポーカーフェイスが下手だと言われたか。


 ただ後日、ヘザーをインド料理が売りの食堂へ連れて行ったところ、

「やっぱ米って落ち着くよなぁ」

と見たことないぐらいとろけきった笑顔でそう呟いて、美味しそうにビリヤニ――米料理を食べる彼女を拝むことが出来た。


 ヘザーの下ネタの源泉と同じく、己のポーカーフェイス下手過ぎ問題についても、こんな愛らし過ぎる笑みを見つめていたらどうでもよくなるものである。

(また、ここに連れて来よう)

 クライヴは始終下がり気味の口角を持ち上げ、こっそりとそう決意した。

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