「その本は?」
村長が、目を瞬かせて尋ねる。
「ある新人作家の出した小説で、スタンリー医師付きのメイドによると主都や他領でも人気のようです」
彼へ視線を移したクライヴは、静かに答えて本の表紙を一つ撫でる。
「内容は、魔女伝説の残る農村出身の青年が、馴染めない地元を
「は、はい……」
答えた村長がちらり、と隣のジョンを見た。当の本人は目配せする父を不思議そうに見返して、数秒遅れでハッとする。
「え、あ……あーっ、俺のことか!」
「ああ。主人公ジャンの外見的特徴も、君に酷似している」
「でも俺、そんな本知らないんですけど……」
さすがのジョンも、薄気味悪さに顔を青ざめさせる。父である村長も、似たりよったりの怯えた表情だ。
テーブルに置いた本の表紙を人差し指でトントンと叩きながら、クライヴは片方の眉を持ち上げた。
「知らなくて当然だろう。作者は無断でこの本を執筆し、出版したのだから――そうだろう、ダイアン嬢?」
無表情のダイアンの肩だけが、ピクリとわずかに跳ねる。
「え……」
呆けた声を上げ、ジョンは彼女へ顔を向けた。しかしダイアンはそれに反応しない。
目すら合わせず、ただただテーブルをにらみ続ける無言の婚約者に、ジョンの怯え顔が怒りに染まっていった。
「ダイアン、これ……ほんとにお前が書いたのかよ?」
「……」
「なんで黙ってんだよ! お前も俺のこと、笑い者にしてたのかよ!」
「ちがっ……」
くしゃりと歪んだ顔が、勢いよく持ち上がる。
しかし彼女の弁明を待たず、ジョンは叫んだ。
「俺が逮捕された時、言ってたよな! 『あなたは要領が悪いけど、根っこは優しい』って、あの時励ましてくれたよな! なのにずっと裏で、笑ってたのかよ! 晒し者にされてるのに気付かない、大馬鹿野郎だって!」
上ずった声での糾弾に、ダイアンはかすかに震えている。それでも必死に首を振る彼女を、ジョンも羞恥と怒りに染まった涙目でねめつけ――
「ちげぇよ、タコ」
なおも叫ぼうとする彼を、頬杖をついたヘザーがのんびりと制した。しかし口は相変わらず悪い。
思わぬ横槍に、ジョンの気勢が削がれる。そこへ、ヘザーは気のない口調で続けた。
「ダイアンはたぶん、お前を嫌いじゃねぇし、バカにもしてねぇよ。むしろその逆だと思うよ」
「逆……?」
「おう。なあ、クライヴ?」
頬杖を止めて、背を反らせたヘザーが隣のクライヴを仰ぎ見る。
彼も平常運転のジト目で見返し、一つコクリ。
「先程拝読したが、作中において主人公ジャンは終始、非常に魅力的なアウトローとして描かれている」
「そ。女の子にもめっちゃモテるしな。もちろんケンカも、クソ強いってワケ」
腰に手を当て、ヘザーはにんまり。
「おまけに美男子ともされており、女性読者が多いのも頷ける内容だ。君を軽んじて嫌悪しているならば、ここまで好意的な描写はあり得ないだろう」
ふ、とクライヴの口元も緩んだ。
初めての彼の好意的な態度と言葉に、ジョンも目を丸くした。
「え、じゃあ、俺……ダイアンに嫌われてなくて……逆に好かれてる、とか?」
自分を指さしての、馬鹿面での疑問にダイアンはたちまち真っ赤になる。そのまま両手で顔を覆い、しおしおとうなだれた。
どんな答えよりも分かりやすい反応だ。ジョンは口もあんぐりと開ける。
「え、嘘だろ? お前だって、いつも、俺にあれこれ文句言ってさ……」
「……そうでもしないと、話せないのよ。お説教にかこつけないと、とても恥ずかしくて……」
くぐもった声が、そう弁明する。
「とても、恥ずかしくてェッ?」
ジョンがひっくり返った声で、オウム返し。ダイアンと自分の間に、羞恥の概念が立ちはだかっているなどと、思いもしなかったのだろう。
「だって初恋、なんですもの……私だってあなたがどうしようもない馬鹿だって、分かっているわ」
「おい」
「でも……それでも私にとって、あなたは憧れの、王子様なの……」
いつかのクライヴのような、越冬した蚊に似た弱々しい調子である。
目をむいたまま固まったジョンに代わって、身を乗り出したヘザーが優しくダイアンに問いかけた。
「で、好きで仕方ねぇから、コイツの小説を書いたんだよな?」
「ええ……元々執筆は好きだったので、最初は本当に、そう……遊び半分だったんです」
顔を両手で隠したまま、ダイアンは鼻声でぽつりぽつりと語った。
ジョンをモデルにした小説は、ロンドン滞在中に書き始めたという。
大好きな彼と、すぐに会えない寂しさをそれで紛らわしていたのだ。途中でジョンもロンドンに移住し、なんともチャランポランな生活を送り始めたため、身を案じつつもそのエピソードも盛り込んでみた。
そうしたらチャランポラン生活編が、恩師を経由して出版社の目に留まってしまったのだ。
すぐさま「うちで出版してみないか」という、提案を受けた。
売れるわけがないと、ある意味では世間を甘く見ていたダイアンは、考えた末にそれを受け入れた。念のため、男性の偽名だけは使ったけれど。
が、人生とはかくも思い通りにいかないもので。
想定外にも、思い切り売れてしまったのだ。こんなド田舎のアーヴィング村にも、熱心な読者が現れるほどに。
これはマズい、と内心で焦っているダイアンに、更なる困難が降りかかった。
村長から、ジョンとの婚約を打診されたのだ。勉強一筋で色恋に疎い娘を心配していた両親も、
「ジョンなら気心も知れているし、安心だ」
と快諾してしまった。
ダイアンとて本来であれば、泣いて喜んでもおかしくないぐらいの申し出だったのに。
婚約が決まったことを聞いた瞬間、彼女の目の前は真っ暗になった。
このまま結婚すれば近い将来、自分がジョンをモデルに妄想大爆発小説を書いて、あろうことか大売り出ししたことが本人にバレてしまう、と。
もしもそうなれば、彼から軽蔑あるいは憎悪されることは間違いなしだ。
そんな焦りに焦ったダイアンの脳裏に閃いたのは、村に伝わる魔女の伝説であった。
ダイアンは魔女の墓前で
「ジョンとの婚約を、どうか解消してください」
そう、願った。
そうして彼女は、魔女の亡霊を蘇らせたのだった。