クライヴが眠りから覚めて最初に知覚したのは、ほのかに鼻先をくすぐる花のような甘い香りだった。次いで自分が抱きしめている、柔らかで温かい感触。
ぼんやり目を開けると、すぐそばにヘザーのあどけない寝顔があった。この甘い香りは、彼女の匂いのようだ。
アイボリーのカーテン越しに差し込む朝日が陰影を際立たせ、彼女の寝顔は相変わらず精巧な美術品のようにも見える。
神がかった美しさを眺めていると、昨夜から今この瞬間も全て幻なのではないか、とふと不安になる。
クライヴはつい、彼女の細い首筋で脈を取った。色々とお楽しみ過ぎて、ちょっと頭が馬鹿になっているのかもしれない。
とくとくと、規則正しい鼓動に現実味を感じて彼が密かに安堵していると、不意に綺麗な青紫の瞳が開いた。
いつも活力みなぎる
「ヘザー、おはよう」
「……おはよ」
声も気だるげだ。
「その……体は大丈夫か?」
「んー、まあ、若干腰が重てぇ……あとちょっとお腹ん中が変な感じ。他は割と元気」
あくびを噛み殺し、相変わらずぼんやりした表情で答えてくれる。しかしご機嫌斜め、というわけではないらしい。
あまりにも強引かつ稚拙な行為過ぎて呆れられたのだろうか、と不安がよぎっていたため、クライヴは内心で安堵する。
目をしょぼつかせたヘザーが、少し身じろぎしてクライヴへ更に密着する。そのまま、彼の胸板に頬ずりした。
「もうちょっと寝るから、もっかいギュッてして……」
ふやけた声も仕草も、大層可愛らしく。クライヴはやっぱり幻覚を見ているのでは、と己の正気を一瞬疑ってしまった。
しかし幸いなことに、今この瞬間も現実であり。
そして不幸なことに、現実であるので時間経過という概念もある。
彼女にこのまま二度寝を
時刻は現在、七時二十分。スタンリーと落ち合うのは九時の予定だ。
身支度や朝食あるいは移動の時間を考えると、ここでの寝落ちは得策ではない。
「悪いが、あまり時間もない」
「えぇーっ」
唇を尖らせつつも、ヘザーが薄目を開ける。そしてクライヴが指し示す置時計を見た。
それでようやく、彼女も観念する。舌打ちまじりではあったが。
「しゃーねぇか。とりあえず……オレ、シャワー浴びて来るわ」
腰痛と下腹部の違和感のためか、体を起こす挙動がややぎこちない。クライヴが慌てて彼女を支えつつ、昨夜貸したバスローブを羽織らせた。
改めて触れた体の華奢さに年甲斐もなくどぎまぎしつつ、ヘザーの眠そうな顔を覗き込んだ。
「……腰は大丈夫か?」
「昨日みたいにガイコツの大群相手じゃなきゃ、問題ねぇよ」
ニヤリと笑うヘザーは、ひょっとしなくても自分より男前であろう。クライヴはほんのりと敗北感すら覚えた。
とはいえ、次からは無理をさせないようにしよう、とも自省しつつ。ヘザーのバスローブの帯を緩く締めてやった。
「それは何よりだ。向こうから、着替えは取って来よう」
「おお。頼んだぜ」
にんまりと笑ったヘザーは、両手をベッドについて体を支え直す。次いで伸びをして、クライヴの目尻にそっと唇を落とした。
不意打ちのキスにクライヴが固まっていると、ヘザーはベッドを降りた。
「今のはお駄賃ってコトで。取っととけよ」
そう言い残すと右手を軽く上げて、彼女は少しばかり
どうしよう、恋人の男前度が爆上がりしている――クライヴは敗北感を通り越して、一種羨望すら覚えた。
「……ああいう仕草を、どこで覚えて来るんだろうか」
そこだけは、ちょっと気になったけれど。ともあれ今は、ヘザーの着替えが必要である。
この時間帯ならば外の通行人も少ないだろう、とクライヴはズボンだけさっと履いて、自宅隣の事務所に向かった。ヘザーの衣類や身の回り品は、事務所内の彼女の部屋にあるのだ。
(今後のことを考えれば、彼女の生活拠点も自分の家に移すべきだろうか。婚約となれば、兄上にも報告が必要か)
などと考えつつ鍵を開けたところで、ようやく彼は思い出した。自分の寝室の真裏に、ウィリアムがいたことを。先ほどまでの甘い残り香も吹き飛んで、冷たい汗が背中ににじみ出る。
知らぬ間に荒くなった呼吸を抑える余裕もなく、彼は恐々と事務所のドアを開けた。
クライヴは怖かった。ウィリアムと顔を合わせるのが。
しかし彼は、不快な物・事は先に終わらせたいタイプの人間であるため、悲壮感漂う顔のままウィリアムの元へ向かった。
「あ、クライヴ氏……」
果たしてウィリアムは、クライヴの存在に気付くや否や、なんとも気まずそうに目を背けた。心なしか、幽霊なのに頬も赤い。
聞かれていた、色々と――彼の表情から全てを察して、クライヴは膝から崩れ落ちる。
そしてウィリアムも、自分の真下でダンゴムシのように丸まるクライヴの様子から、彼が全てを察したことに気づいた。
「だ、大丈夫だよ! 誰にも言わないからね、うん」
ウィリアムの
「何の慰めにもならんのだが……その、丸聞こえだったか?」
クライヴは丸まった体勢のまま、のそりと顔だけ持ち上げた。これだけは、訊かずにはいられなかったのだ。
ぼんやりと「あいつら、なんか
しかし尋ねた途端、ウィリアムの目が露骨に泳いだ。
「え? あ、いや、どうだろう……ぼくもちょっと、分からないけど……でもね」
「……でも、なんだ?」
怖い。続きを聞くのが怖い。でも聞かないと、もっと怖い。
「ヘザー嬢はたぶん『だめ』や『やだ』を、照れ隠しで言ってたみたいだけど……『無理』は本当に無理だったんだと思うよ? あとさすがに三回以上は――」
「全部筒抜けじゃないか!」
クライヴは
だって昨夜の彼女は、照れに照れてめちゃくちゃ可愛かったのだ。
丸まった背中から絶望を大放出中の彼へ、ウィリアムは苦笑い。
「あまり無茶はしないようにね? まだ二人とも、先は長いんだから」
既に人生を終了している人間からの忠告は、思いのほか重く響いた。
「……ご忠告、痛み入る」
今度は上半身ごと起きると、ウィリアムの苦笑いが人懐っこい笑みに変化する。
「クライヴ氏は色恋が絡んで来ると、ちょっとお馬鹿になっちゃうんだね」
「悪かったな」
違う、と言い切れない自分がちょっと情けない。ついムッとしてしまう。
ウィリアムにからかわれたのは少し