ヘザーはつい、眉間に出来たしわを指で押さえた。重苦しい声でうめく。
「メンヘラかよ」
「メン……?」
「いや、なんでもねぇ」
聞き慣れぬ単語に訝しげなクライヴへ、生ぬるく笑い返しつつ天井をにらんだ。そして考える。
クライヴの半生は、まあしょっぱい。義父と義兄に取り憑いていた悪魔から、己を否定され続けて自尊心をへし折られて来たのだ。
恐ろしく自己評価が低いのも、むべなるかな。
高田とて、祖母という絶対的味方や友人たちがいなければ、同じ道を辿っていただろう。
それに「こっ恥ずかしいから」という手前勝手な理由で、曖昧な態度を貫いていた自分にも非はあるだろう。
自分が彼の立場ならば――えげつない美少女の恋人が出来て、職場も一緒で、お隣に住んでいて。でもキスどころか、ろくすっぽ手も握らせてくれなかったら――
(おちょくられてると思って、ケンカ待ったなしだな。うん、オレ、最悪の彼女じゃん!)
もしくは早々に泣いて駄々をこね、愛想を尽かされる可能性大だ。
そう考えると、魔女の魔法で狂わされるまで「耐える」一択だったクライヴはむしろ、人間性が良すぎる。
自分の膝をギュッと抱き、ヘザーは腹を決めた。
たしかに自分には、高田という男として生きた記憶もある。その事実を誇りに思っているし、とても尊いものだとも思っている。
だが同時に今、隣でしょげている大層面倒くさい男にキュンキュンしてしまう、ヘザーというこじらせ少女でもあるのだ。この気持ちも前世と同じか、それ以上に慈しむべきなのだ。
ヘザーは居住まいを正し、クライヴへ体ごと向けて軽く息を吸う。そして勢いよく語りだした。
「そうだな。うん、まず顔がいいだろ。ちょっと……いやムチャクチャ表情暗いけど、顔面自体はヤベェぐらい男前だよな。今もたまーに、見惚れちまうし。んでもってガタイもいいし、手足長いからスタイルいいし。あとクソ真面目で、やればだいたい出来るよな。掃除はちょっと下手だけど、そこは適材適所だからさ、まあ気にすんな」
「ヘザー? 一体何を……」
クライヴが困惑顔を浮かべる。彼を見つめて、ヘザーはいたずらっぽく笑った。
「何って、アンタの好きなトコに決まってんだろ。あとは、字がキレイなトコもいいよな。んで頭もいいし、ケンカも強いし、文武両道とか最高じゃん。そのくせ面倒くせぇコトはちゃんと自分でやるし、下の人間にも優しいよな。相手が誰でも、目見て謝れるしさ。これってすっげぇ長所じゃねぇの?」
「いや、その、もういいから――」
いたたまれなさそうに、弱々しく自分を止める声など、もちろん無視して続ける。
「それからそうだ。アンタ、なんでも旨そうに食ってくれるよな。オレも飯、作りがいあるもん。で、酒飲むとすぐフニャフニャすんのも、ギャップがあって可愛いし。ティナも言ってたけど、めちゃくちゃオシャレだよな。あ、あと髪の毛も、キレイなオレンジ色だからさ、ちょっと羨ましいんだよな」
「わ、分かった、分かったから、ヘザー」
真っ赤な顔で涙目になり、たじたじの彼の頬を優しくつねった。
「あと、それな」
「それ、とは」
指先の柔らかい感触が残る頬を撫で、クライヴの眉間がかすかに寄る。
「オレの名前呼ぶ時だけ、声が優しくなるトコ。だからクライヴに名前呼ばれるの、すっげぇ嬉しい。アンタのこと、好きだよ」
ほんのり頬を染めて微笑む彼女を、うなだれるクライヴは無言で抱き締めた。
そのままヘザーの肩に顔を埋めて、ぐすっと鼻を鳴らす。
「んだよ。涙腺ガバガバじゃん」
どうやら泣き出したらしい彼に、ヘザーは小さく吹き出した。
「……すまなかった、君を傷つけてしまって」
鼻声だが、先ほどよりも幾分か息を吹き返した声音だ。
「別にいいよ、オレって割と頑丈だし」
「だが、酷い事をしたのは事実だ」
「でもそんだけオレのこと、好きなんだろ?」
ヘザーが
「ああ。大好きだ」
「大まで付いたら、もはや言うことねぇわ」
ヘザーはからりと笑った後、だからと付け加える。
「オレの大好きなアンタのことさ、アンタもちょっとは信じてみなよ。バチは当たんねぇと思うぜ?」
「……善処する」
「政治家かよ」
消極的な意思表明であるが、彼なりに大きな前進であろう。ヘザーはよし、とクライヴの二の腕を景気よく一つ叩く。そしてほんの少し体を離した。
「なら手始めに、彼女であるオレのご機嫌取って、自己肯定感上げようぜ」
にんまり見上げれば、クライヴの表情にもようやく温かみが戻ってきた。
「分かった。どう、君に詫びればいい?」
「キス。やり直してよ」
「はっ?」
目をむいて、クライヴが裏返った声を上げた。あんな大事故を起こした後で、何言ってんだコイツ、と仰天顔が語っている。
とはいえヘザーとて、譲れないものがあるのだ。
「だってオレ、キスも初めてだったんだよ? 相手がアンタなのはいいんだけど、なんてーか、ムリヤリだったのが、ちょっとヤだなぁっていうか……」
が、途中で照れに追いつかれ、後半はもにょもにょと情けない声になる。
はだけたドレスの胸元を抑え、真っ赤な顔で照れる彼女の姿は、しかし庇護欲やらなんやらを誘ったようであり。
クライヴも頬を赤らめながら、ヘザーと額を合わせた。
「分かった。ぜひ仕切り直させてくれ」
「ん」
皮膚の固い彼の指先が、ヘザーの耳を撫でた。くすぐったさについ、長いまつげを伏せて目を閉じる。
最初は額へ、次にまぶたと頬へ、優しく口づけが落とされた。
最後に唇が触れ合う。
こちらを気遣うような、ためらいがちの触れ方がなんとも彼らしい。ヘザーがクライヴの首に腕を回し、薄く口を開いてもっと欲しいと
徐々に深さを増すキスに、ヘザーは甘やかな吐息をこぼす。
酷い出で立ちではあるものの、場所は綺麗なホテルのスイートルームであり。
相手は色々と面倒くさい男であるが、ヘザーにとっては最高にいい男なので。
つまりは合格点のファーストキスと言えよう。