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68:元ヤン秘書、年貢の納め時

 ヘザーはつい、眉間に出来たしわを指で押さえた。重苦しい声でうめく。

「メンヘラかよ」

「メン……?」

「いや、なんでもねぇ」

 聞き慣れぬ単語に訝しげなクライヴへ、生ぬるく笑い返しつつ天井をにらんだ。そして考える。


 クライヴの半生は、まあしょっぱい。義父と義兄に取り憑いていた悪魔から、己を否定され続けて自尊心をへし折られて来たのだ。

 恐ろしく自己評価が低いのも、むべなるかな。

 高田とて、祖母という絶対的味方や友人たちがいなければ、同じ道を辿っていただろう。


 それに「こっ恥ずかしいから」という手前勝手な理由で、曖昧な態度を貫いていた自分にも非はあるだろう。

 自分が彼の立場ならば――えげつない美少女の恋人が出来て、職場も一緒で、お隣に住んでいて。でもキスどころか、ろくすっぽ手も握らせてくれなかったら――

(おちょくられてると思って、ケンカ待ったなしだな。うん、オレ、最悪の彼女じゃん!)


 もしくは早々に泣いて駄々をこね、愛想を尽かされる可能性大だ。

 そう考えると、魔女の魔法で狂わされるまで「耐える」一択だったクライヴはむしろ、人間性が良すぎる。


 自分の膝をギュッと抱き、ヘザーは腹を決めた。

 たしかに自分には、高田という男として生きた記憶もある。その事実を誇りに思っているし、とても尊いものだとも思っている。

 だが同時に今、隣でしょげている大層面倒くさい男にキュンキュンしてしまう、ヘザーというこじらせ少女でもあるのだ。この気持ちも前世と同じか、それ以上に慈しむべきなのだ。


 ヘザーは居住まいを正し、クライヴへ体ごと向けて軽く息を吸う。そして勢いよく語りだした。

「そうだな。うん、まず顔がいいだろ。ちょっと……いやムチャクチャ表情暗いけど、顔面自体はヤベェぐらい男前だよな。今もたまーに、見惚れちまうし。んでもってガタイもいいし、手足長いからスタイルいいし。あとクソ真面目で、やればだいたい出来るよな。掃除はちょっと下手だけど、そこは適材適所だからさ、まあ気にすんな」


「ヘザー? 一体何を……」

 クライヴが困惑顔を浮かべる。彼を見つめて、ヘザーはいたずらっぽく笑った。

「何って、アンタの好きなトコに決まってんだろ。あとは、字がキレイなトコもいいよな。んで頭もいいし、ケンカも強いし、文武両道とか最高じゃん。そのくせ面倒くせぇコトはちゃんと自分でやるし、下の人間にも優しいよな。相手が誰でも、目見て謝れるしさ。これってすっげぇ長所じゃねぇの?」

「いや、その、もういいから――」


 いたたまれなさそうに、弱々しく自分を止める声など、もちろん無視して続ける。

「それからそうだ。アンタ、なんでも旨そうに食ってくれるよな。オレも飯、作りがいあるもん。で、酒飲むとすぐフニャフニャすんのも、ギャップがあって可愛いし。ティナも言ってたけど、めちゃくちゃオシャレだよな。あ、あと髪の毛も、キレイなオレンジ色だからさ、ちょっと羨ましいんだよな」

「わ、分かった、分かったから、ヘザー」

 真っ赤な顔で涙目になり、たじたじの彼の頬を優しくつねった。


「あと、それな」

「それ、とは」

 指先の柔らかい感触が残る頬を撫で、クライヴの眉間がかすかに寄る。

「オレの名前呼ぶ時だけ、声が優しくなるトコ。だからクライヴに名前呼ばれるの、すっげぇ嬉しい。アンタのこと、好きだよ」

 ほんのり頬を染めて微笑む彼女を、うなだれるクライヴは無言で抱き締めた。

 そのままヘザーの肩に顔を埋めて、ぐすっと鼻を鳴らす。

「んだよ。涙腺ガバガバじゃん」

 どうやら泣き出したらしい彼に、ヘザーは小さく吹き出した。


「……すまなかった、君を傷つけてしまって」

 鼻声だが、先ほどよりも幾分か息を吹き返した声音だ。

「別にいいよ、オレって割と頑丈だし」

「だが、酷い事をしたのは事実だ」

「でもそんだけオレのこと、好きなんだろ?」

 ヘザーがたくましい背中を叩いてあやすと、うなずく気配があった。

「ああ。大好きだ」

「大まで付いたら、もはや言うことねぇわ」


 ヘザーはからりと笑った後、だからと付け加える。

「オレの大好きなアンタのことさ、アンタもちょっとは信じてみなよ。バチは当たんねぇと思うぜ?」

「……善処する」

「政治家かよ」

 消極的な意思表明であるが、彼なりに大きな前進であろう。ヘザーはよし、とクライヴの二の腕を景気よく一つ叩く。そしてほんの少し体を離した。


「なら手始めに、彼女であるオレのご機嫌取って、自己肯定感上げようぜ」

 にんまり見上げれば、クライヴの表情にもようやく温かみが戻ってきた。

「分かった。どう、君に詫びればいい?」

「キス。やり直してよ」

「はっ?」

 目をむいて、クライヴが裏返った声を上げた。あんな大事故を起こした後で、何言ってんだコイツ、と仰天顔が語っている。


 とはいえヘザーとて、譲れないものがあるのだ。

「だってオレ、キスも初めてだったんだよ? 相手がアンタなのはいいんだけど、なんてーか、ムリヤリだったのが、ちょっとヤだなぁっていうか……」

 が、途中で照れに追いつかれ、後半はもにょもにょと情けない声になる。

 はだけたドレスの胸元を抑え、真っ赤な顔で照れる彼女の姿は、しかし庇護欲やらなんやらを誘ったようであり。


 クライヴも頬を赤らめながら、ヘザーと額を合わせた。

「分かった。ぜひ仕切り直させてくれ」

「ん」

 皮膚の固い彼の指先が、ヘザーの耳を撫でた。くすぐったさについ、長いまつげを伏せて目を閉じる。

 最初は額へ、次にまぶたと頬へ、優しく口づけが落とされた。

 最後に唇が触れ合う。


 こちらを気遣うような、ためらいがちの触れ方がなんとも彼らしい。ヘザーがクライヴの首に腕を回し、薄く口を開いてもっと欲しいと強請ねだると、舌が差し込まれた。

 徐々に深さを増すキスに、ヘザーは甘やかな吐息をこぼす。


 酷い出で立ちではあるものの、場所は綺麗なホテルのスイートルームであり。

 相手は色々と面倒くさい男であるが、ヘザーにとっては最高にいい男なので。

 つまりは合格点のファーストキスと言えよう。

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