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46:子ども所長疑惑

 より厳密には、この主都において広がりつつある彼女のコミュニティが、クライヴをやきもきさせていた。


 ヘザーはもてる。

 それはもう老若男女を問わず、出会った人間のハートを軒並み鷲掴わしづかんで行く、無差別人たらしの有り様なのだ。

 ちまたでは初恋泥棒という、名誉なのか不名誉なのか判別しづらい二つ名も拝命しているという。


 黙っていれば、神話に出てくる女神のような美貌で。

 にもかかわらず、いつも屈託なく笑って気さくな人柄なのだから、好かれて当然であろう。

 労働者階級の少年じみたぶっきらぼうな口調も、あの花のような笑顔から繰り出されれば、いっそ魅力的ですらある。


 ただ、そのことをクライヴ――おそらくヘザーの恋人という立ち位置にいる人間が嬉しいか、というと別問題だ。

 むしろ不安と悩みの種である。

 彼女と自分の年齢が離れていることは、承知している。

 だからこそ同世代の好青年が、もしヘザーに言い寄って来たら……と考えると胃が痛くなる。

 だが「もっと無愛想にしろ」などと言えるはずもないため、やきもきは続いているのだ。


(彼女の恋人と確信出来ない点も、大いに問題なのだろう)

 無意識に机で頬杖をつき、長々とため息。

 相変わらずソファの肘掛けに置かれたビルは何か言いたそうであったものの、黙って彼を見守っていた。


 二人の間に好意があることは、確信している。

 しかしまだ、キスすらしていないのだ。というよりも、腕を組んだ経験すら数えるほどという体たらくだった。

 幸いにして、いい雰囲気になったことは度々ある。

 なにせ事務所にはいつも二人で、日々の食事もクライヴの家で、二人きりで摂ることが殆どなのだ。


 が、その都度ヘザーにはぐらかされるのである。それはもう大層分かりやすく、露骨なまでに。

 一方のクライヴも、赤面してはぐらかす少女になおも迫れるほどがっついていない。ために、はぐらかされれば即時撤退を決め込んでいる。

 何より、そんな愚行に打って出て、ヘザーに疎まれるのが怖かった。


 それでもこうやってそばにいてくれるのだから、変わらず好意は持たれていると思いたい――が。

(最近は、手のかかる息子扱いをされている気が、するような)

 飴色の机の上に両肘を乗せ、組んだ指にグリグリと額を押し付けため息。

 先程よりも深い、そして重いため息だった。


 彼女の好意が、恋愛ではなく家族愛にまつわるもののような予感もして。

 この予感が、クライヴの不安を更に増長させているのだ。

 実際問題、自分は私生活面で色々と不手際が多い自覚はある。掃除は下手なうえ、よく靴下の片方を失くしている。

 年長者の威厳など、おそらく皆無だ。


 平時に輪をかけて陰気な表情を浮かべて落ち込むクライヴに、とうとうビルが気遣わしげな声をかける。

「どうしたの、顔が暗いよ? ぼくでよければ、悩み聞こうかい?」

「ひぎゃあっ!」

 が、クライヴからの返答は、相変わらずの悲鳴であった。


 おかげで「君にだけは暗いと言われたくない」という嫌味が、喉からまろび出ることもなかったが。

 また話しかけられたらどうしよう、と小刻みに震えるクライヴだったが、外の階段を駆け上がる軽やかな足音に気付いた。


 足音に気付けば、後は早かった。

 震えは即座に止まり、同時に椅子からも立ち上がる。

 大股で出入り口まで近付き、足音の主が事務所の前に到着するのと同時に、扉を開けた。


 紙袋を抱えたヘザーが、開いた扉の隙間からクライヴを見上げ、にっかりと笑う。

「アンタ、相変わらず耳いいな。ちょうど両手ふさがってたから、マジで助かるよ」

「いや、構わない。下の手伝いに行っていたのか?」

 さり気なく彼女が抱える紙袋を受け取れば、短い礼と共にうなずきが返って来る。


「おお。ウェンディおばさんに、コーヒー豆運ぶの手伝ってくれって言われてさ」

「力仕事ならば、俺を起こせばよかっただろう」

 つい、恨みがましい口調になってしまう己が情けない。

 一方のヘザーは華奢きゃしゃな肩をすくめ、少しばかり呆れ顔だ。


「疲れてたから寝かせたのに、そんなもっと疲れさせるコト頼めねぇよ。それにこうやって、昼飯も貰ったから、万々歳じゃねぇか」

 クライヴが抱え持った紙袋を指さし、ヘザーは歯をのぞかせて笑う。

「それはそう、だが」

 うなだれて視線を下げると、

「あ」

ヘザーがかすかにつぶやき、次いで手招きする。


「なあクライヴ。ちょっとここで、しゃがんでくれねぇか?」

「しゃがむ?」

 疑問に思いつつ、ドアを施錠しながら腰を落とした。


 すると、

「ちょいと頭借りるぜ」

そう断ったヘザーが、クライヴの頭を抱き込むかのように腕を伸ばした。

 不意打ちのスキンシップに、クライヴは真顔で硬直。


 強張ったまま固まる彼の眼前に、ヘザーの愛らしい顔があった。五階まで駆けあがって来たからだろう、雪のように白い頬がわずかに赤らんでいる。

 どういうわけか、ひどく真剣な表情でクライヴの赤みがかった金髪を撫でる彼女の、ほのかな熱や花のような香りが漂って来た。


 しかし抱きしめ返そうか、と彼が逡巡しゅんじゅんしている間に。

 抱擁ほうようじみた体勢は、あっという間に終わってしまった。


 一歩後ろに下がった彼女が、満足げに腰に手を当てる。

「よっしゃ、寝癖取れたな」

「あ、寝癖……」

 他意など微塵もない、丸ごと善意の行動であったらしい。不埒ふらちな考えがよぎった己を、クライヴは得物のサーベルでめった刺しにしたくなった。


 ほとばし希死念慮きしねんりょと戦う彼に気付いた様子もなく。

 ヘザーは腰に当てていた右手でびしり、と陰鬱いんうつ面のクライヴを指差した。

「男前度も無事上がったな。これで女性客、メロメロにしてくれよ?」

 そう言って軽やかにウィンクする、男女問わず骨抜きにしまくっている張本人を、クライヴは無言でじっと凝視する。


 ――君は魅了されてくれないのかな?


 つい先日結婚した兄ならば、冗談めかして爽やかに、そんなことも訊けただろうに。

 己の不器用さが歯がゆく、ヘザーへ曖昧な半笑いしか返せないクライヴだった。


 その笑顔を見上げ、ヘザーは酢でも飲んだかのような表情を浮かべる。

「またアゴ、しゃくれてるけど。なんで作り笑いしてんだ?」

「……何故、なんだろうな」

 酸っぱい顔で首をひねる彼女に合わせ、クライヴもしゃくれ面のまま、たどたどしく首を傾けた。

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