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45:陰キャ探偵の人生最悪な目覚め

 繊細な刺繍が施されたレースのカーテンが、ふわりと動く。

 四月の昼の陽ざしは、暖かで。薄く開けた窓から流れ込む風も、心地良かった。


 クライヴは事務所の応接用ソファで腕を枕にし、仮眠を取っている。さほど大きくもないソファだが、長い脚も器用に折りたたまれ、すっぽり横向きに収まっている。

 長々と書類仕事を続けた結果、眼精疲労に見舞われて

「アンタ、人相が更に暗くなってんじゃねぇか。寝とけよ」

と、ヘザーによって強制おねんねタイムを設けられたのだ。


 最初は渋々であったものの、目と頭が疲れていたのは事実なので。

 あっという間にまどろみ、今も柔らかな風に前髪が撫でられるまま、束の間の休息を甘受していた。


 ――が。


「クライヴ氏、もう三十分経ったよ。そろそろ起きた方がいいんじゃない?」

 彼のすぐそばから、声がした。少しかさついた、男性の声だ。

 幸せそうな寝顔でうとうとしていたクライヴだが、その声が耳を通って脳に到達するや否や、ガバリと跳ね起きた。

 濃緑色の目を見開いた、強張った顔を四方に向ける。

 そして自分を起こした声の震源地が、肘掛けの上にいつの間にか置かれていた、キャンバスだと気付く。


 キャンバスには油絵具で、真っ黒な背景と共に、七三分けの男が描かれている。

 痩せこけ、落ちくぼんだ目の、どことなく骸骨がいこつのような風貌の男だ。


 その骸骨の目がギョロリと動き、硬直するクライヴを見上げる。

「おはよう、寝起きがいいんだね」

「ウワァァァァァーッ!」

 クライヴは、飛び跳ねるような挙動でソファから逃げようとして、案の定バランスを崩してあごから着地した。


 したたかに打ち付けたあごの痛みを、クライヴは味わう余裕すらなかった。

 相も変わらずシェイキングな膝をうごめかし、不格好に匍匐ほふく前進しつつ、彼は恐々とソファへ振り返った。


「どっ、どうして、君が、ここにいるんだ!」

 声は完全に裏返り、いつになく甲高い。

 そんな聞くからに「いっぱいいっぱい」な怯え切った詰問にも、骸骨男は案外屈託なく笑った。

「ヘザー嬢に、三十分経ったらきみを起こすよう、頼まれたんだ」

「ヘザーに……」

「うん。なんでも昼寝は、三十分以上取ると、かえって午後の仕事の効率が悪くなるんだってさ」

「ああ、そう……」


 有無を言わさず眠気は吹っ飛んだので、たしかに仕事の効率はよくなるかもしれない。

 が、眠気と一緒に寿命もずいぶん持って行かれた気がするので、結果として損しかしていない気がする。


 クライヴは平素の陰気面を更に暗くして、全焼する自宅を目の当たりにしているかのような絶望の面持ちで、喋る骸骨男の絵を眺める。


(俺はあとどれぐらい、この絵に怯えなければいけないのか)


 この絵は、一世一代の勇気を振り絞って花束をプレゼントした、バレンタインデーの日に持ち込まれた依頼にまつわる代物だ。


 元々は、依頼人が祖父の形見として譲り受けた風景画だった。

 しかしある日、青空と花いっぱいの公園を描いていたはずの風景画が、黒一色になった。

「はて?」と怪訝に思って絵に近付くと、この骸骨顔の幽霊がひょっこり顔をのぞかせたのだという。

 依頼人は腰を抜かしたそうだが、クライヴだったら失神待ったなしである。


 ビルと名乗った幽霊は、取り憑いている絵の作者らしい。不慮の事故で死に、気が付けば絵の中にいたそうだ。

 彼自体は、クライヴに対してもそうであるように、とても気さくな人柄をしている。

 だがしかし。人柄がよかろうとも、幽霊の取り憑いた絵をそばに置きたがる物好きは、そうそういない。


 困った依頼人は、馴染みのバーの店主からライダー探偵事務所のことを聞き、幽霊絵画を持ち込んだ。

 怯え切るクライヴを尻目に、相談内容を面白がったヘザーが安請け合い。

「絵から出て行きそうにもねぇし、だったらウチで引き取ってやろうぜ」

 幽霊付きの絵を欲しがる物好きと出会えたことで、依頼人も大喜び。


 ついでにビルも、「この事務所は窓が大きいから、外が眺められて楽しいね」と満更でもなさそうで。


 こうしてクライヴただ一人が、割を食って現在に至っている。

 ビルとの共同生活を始めて二ヶ月ほど経過しているものの、未だに一切慣れていない。

 慣れるのが先か、それともクライヴの心臓が恐怖で止まってしまうのが先か――そんなチキンレースが体内に繰り広げられている気がして、彼はそっと自分の胸に手を当てた。


 どうにか鼓動が落ち着きつつあることに安堵して、ふと気付く。

「……ヘザー?」

 自分が昼寝するまで、書類仕事を手伝ってくれていたヘザーの姿が、見えないのだ。

 まだ力の入り切らない足でゆるゆる立ち上がり、キッチンものぞくが、やはりいない。


「ヘザー嬢なら、下のカフェに行ったよ」

 首をかしげるクライヴの背中へ、出し抜けにビルが声を掛けた。ためにビクリ、とクライヴの広い肩が跳ね上がる。


 無意識に後ずさりつつビルを横目に見ると、

「さっきカフェのマダムに呼ばれてね、手伝いに出て行ったんだ。だからぼくが、代わりにきみを起こしたというわけ」

「あ、そう、です……か……」


 ほにょほにょと、なんとも情けない声で相槌を打って、なんとはなしに自分の机に座った。

 座り慣れた椅子の感触や、ビルと距離を取れたことで、少しばかり精神的な落ち着きも取り戻す。


 取り戻すと同時に、今までは恐怖心によって気付かなかった、胸のわだかまりの存在を知覚した。

 しかしこの鬱屈とした感情は、別に今初めて生まれたものでもない。


 ここ最近は、いつも自分の胸中をざわつかせているのだから。

 理由は分かっている。ヘザーだ。

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