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おまけ5:雪の日の事務所にて(1)

 ヘザーがライダー探偵事務所に住み込みで働き始めて、約一か月が経過した。

 クライヴの言葉通り、休憩室を含めた事務所内はたしかに清掃が行き届いていた。おかげでヘザーの移住も容易に済んだ。


 が、肝心の所長の自宅――事務所と同じくビルの五階にある――は、ここで暴動あるいは革命でも起きたのか、と疑いたくなるような有様であった。

 自宅でほぼ食事を摂っていない、外食がデフォルトというセレブリティな食生活が幸いして、ゴミの山から新たな生命が爆誕する事態だけは避けられていた。

 が、それが焼け石に水としか思えぬ散らかりようであった。


「本業や、ビルの店子たなこからの相談にかまけて、私生活がおろそかになっていたんだ」

 とは、現代日本ならば汚部屋としてテレビで晒し者確定であろう、カオスな部屋を生み出した張本人の弁明であった。

「疎かってか、完全になかったことにしてたんじゃねぇの? ワークライフバランスも大事だぜ」

 躊躇ちゅうちょなく、不用品らしきブツを片っ端から木箱に押し込みつつ、ヘザーは肩をすくめた。


 隣でまごまごと、読んだのかすら怪しい新聞を集めていたクライヴは、どんよりした目をぱちくりさせる。

「君は時折、聡明な意見を持っているな」

「は? オレは常に聡明ですが? 未来に生きてますんで」

「ほう、未来と来たか」

 胸とあごを反らして居丈高いたけだかに言うも、このような相槌と共に鼻で笑われるだけだった。不本意だ。


 ――そんな調子で、雇用主の身辺整理という思いがけぬ障害はあったものの、その後はそれなりに順調であった。


 クライヴが言っていた通り、まだまだ事務所へ訪れる客は少ない。

 が、ビルにはカフェや書店などといった店舗も入っており、ヘザーはそちらの手伝いも積極的に行って、彼らの心を鷲掴わしづかんでいった。

 ヘザーは有意義に暇をつぶせ、そして店子は超ド級美少女という助っ人を得られ。

 まさしくWin-Winの関係である。


 このように案外充実した日を過ごしていたが、今日は珍しく暇だった。

 午前中は事務所に来た依頼をこなすも、その後はクライヴから留守番をおおせつかったのだ。


 そして彼自身は、所要のため出払っている。

 加えて午後からは、電話での相談があったぐらいで依頼人の来訪もなく。

 つまり無人の事務所内での、独り待ちぼうけであった。


「どっかで呑んで来てんのかね」

 暇にかまけて、先ほどまでせっせと家事に精を出していたヘザーは、そんな雇用主へのリスペクトゼロな想像を掻き立てた。

 そして清潔だが、少し手狭なタイル張りのキッチンから事務所に戻る途中で、ふと窓へ視線を移す。


 夕暮れが訪れた街は、ちらほらと降り始めた雪に覆われつつあった。

 生前の高田ならば大いに浮かれる光景だが、あいにく二ヶ月半ほど雪まみれ生活を送っていたので、心は一ミリも動かなかった。


 むしろ

「うーわ、雪かき大変じゃねぇか……」

と首をふりふり、玄人くろうとじみたウンザリ感を漂わせる始末であった。

 しかし今はビルを管理する立場にあるので。これから訪れるであろう苦労を思えば、肩を落とすのも仕方がないというもの。


 淡いペパーミント色のカーテンがかけられた窓から離れ、とぼとぼと応接用のソファに向かった時。

 早足で階段を上がってくる足音に気づいた。

 この五階にあるのは、クライヴの自室とこの事務所だけだ。また足音は、聞き覚えのあるものでもあった。


 どうやら呑み歩いているわけではなかったらしい、とヘザーが考えるのと同時に、事務所の瀟洒しょうしゃなドアが開いた。

「おお、おかえ――」

 軽く手を挙げてクライヴを出迎えようとしたヘザーの声が、途中で止まる。藤色の瞳は、彼が抱える物体に釘付けであった。


 クライヴは、一抱えほどもある花束を持っていた。不似合いすぎる。

「なにそれ」

「知人が経営する花屋から押し付けられた。売れ残り品らしい」

 陰鬱いんうつな声で、しかし少し早口にそう言った彼は、立ちぼうけだったヘザーに花束を押し付ける。

「適当な場所に活けてくれ」

「はぁ。そりゃまあ、別にいいけど……」


 うろんげな声で応じた彼女は、自分が抱える花束を見た。季節外れの、色とりどりのチューリップがふんだんに使われた花束だ。

 花々はとてもみずみずしく、とても売れ残りには見えない。


 次いでヘザーは、壁にかけられたカレンダーを見る。

「今日って、二月十四日だよな」

 ぽつりと呟かれた声に、コートを脱ぐクライヴの動きが止まった。肩もギクリと固まっている。

 彼の顔は、不自然にそっぽを向いていた。


 図星か、と考えたヘザーは小さく嘆息たんそく

「あのなぁ、クライヴ。いくら修道院育ちで世間ずれしてねぇオレでも、バレンタインデーぐらい知ってるぜ」

 むしろガラパゴス的魔進化を遂げたバレンタインに、一喜一憂していた民の末裔だ。

 ひょっとしたらキリスト教徒より敏感かもしれない。


「いや、何のことか、俺にはさっぱり」

「この時期、温室で育てなきゃならねぇチューリップを、タダで知り合いにやるバカがいるかよ」

 斜め方向を向いたままぼそぼそと弁明する彼を、ぴしゃりと論破。

 言い訳すらあっさり見抜かれ、クライヴは沈黙した。


 が、耳や首までみるみるうちに赤くなっていき、そっぽを向く作戦すら無意味になっていた。

「思春期のガキかよ、アンタ」

 思わずの呆れ声に、慌てたようにクライヴがヘザーへ顔を戻した。そちらも耳と同じく真っ赤だ。

「違う! その、君にはいつも、世話になっているから、たまにはこうして何か形になるものをと思ったんだが、その、時期が時期なので、気を使われてもと思い……」

「へぇ。じゃあ他意はねぇんだ?」


 どこか白けた声と冷たいまなざしに、再びクライヴの肩が跳ねる。

「ヘザー……?」

 こわごわと彼が声をかけるも、ヘザーはそれを無視してきびすを返した。キッチンへ小走りに戻る。


 状況がつかめず、コートも半脱ぎのままオロオロするクライヴだった。

 なんとなく、彼女を怒らせてしまった事実だけは認識できていた。ただ、怒った理由までは分からない。


 彼がうろたえている間に、ヘザーはバケツに水を張り、その中に花束を入れる。

 次いでキッチンで粗熱を取っていた、今日の成果物を手に取り事務所へ戻った。


 棒立ちで彼女の出方をうかがっていたクライヴは、戻ってきた彼女の手の中にあるバスケット――より正確にはその中身を見て取り、あ、と小声をもらした。

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