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44:ここから始まるエピローグ

 一週間後、ヘザーとクライヴはフリーリング邸を後にした。

 雪は止んでおり、日差しはかすかに暖かい。そして雲一つない青空の広がる日だ。旅立ちには持って来いである。

 とはいえ気温が少々上がったところで、雪はまだまだこんもりと積みあがっているので。

 行きよりも、若干どころかかなりの悪路ではあったが。


 クライヴの自家用車に乗りながら、ヘザーは顔をしかめた。

「アンタの車、ロイドさんのよりボロいけど、大丈夫か? 途中で止まんねぇか? 滑って崖とかから落ちない?」

「やめろ。縁起でもないことを言うな」

「あと車の中さぁ……」

 助手席に座ったヘザーはちらり、と後部座席に目を移す。

 そこには書類や本やジャケットやらが、乱雑に散らかっている。とてもじゃないが、人を乗せていい環境ではない。


「もうちょい、どうにかなんなかったのか? 割とひどいぞ、コレ」

 生前はマイカーの掃除に余念がなかったヘザーは、ちょっと肩をすくめる。

「……それに関しては、本当にすまない」

 しっかりハンドルを握りしめ、前を向いたままクライヴが低い声で言った。


 ヘザーも顔を戻して、下からのぞきこむように彼を見た。

「さてはアンタ、掃除下手か?」

「違う。事務所は来客もあるから、常に清潔に――」

「ってことは、自宅は割とグッチャグチャだろ。ん?」

「……」


 陰鬱な顔での無言は、肯定とも受け取れた。やれやれ、とヘザーは座り心地の微妙な座席に背中を預ける。

「用心棒ついでに、掃除も手伝ってやるよ」

「……面目ない」

 しょんぼりする彼は、いつもより幼く見えて、割と可愛かった。

 仕方がないなぁ、とヘザーの母性――ひょっとすると父性かもしれないが、ともかくそれらが揺り動かされた。


 益体もない会話を続けるうちに、車はどうにか下山に成功した。そのまま、まばらに雪の残る道を進んでいく。

 フリーリング領の主都に、クライヴの所有するビルはあった。中心街にある、なかなか立地良しかつ、見栄えもいい五階建てのビルだ。

 手切れ金と言わんばかりの、たった一つの形見分けではあるが、それなりにいいモノに見える。


 ただ、ヘザーは悪魔の良心に感心するどころではなかった。

 このビルに、とても見覚えがあるのだ。

 それどころか、ビルの建つ周辺にも既視感を覚える。


 もちろん映画本編において、フリーリング邸周辺の街並みなんてほとんど映っていない。

 スクリーンが映すのは屋敷の中と、周りに腐るほどある木々と雪だけであった。

 だというのにそのビルは、切なくなるぐらいに懐かしかった。


「どうした、ヘザー?」

 呆けたようにビルを見上げる彼女の荷物――ダニエルたちから、あれやこれやと持たされたので、修道院を出た時の四倍以上に膨れ上がっている――を代わりに持ちながら、クライヴが声を掛けた。

 ハッとなった彼女が、慌てて首を振る。

「いや、なんでもねぇ。なんか、いいビルだなと思って」

「そうか、気に入ってくれたなら何よりだ。事務所はここの最上階にある」

 彼の先導で、ビルの階段に向かった。


 クライヴの事務所は五階の角部屋だった。

 お洒落な装飾が施されたドアにかけられた、金属製の青いプレートにはこう彫られている。

 「ライダー探偵事務所」と。

 既視感の正体に気付き、ヘザーは目が点になった。呼吸も忘れて、そのプレートを凝視する。


 脳裏によぎるのは、祖母と共にずっと応援していた、霊媒探偵ライダーの頼もしい笑顔とサムズアップ。

 劇中の彼はおそらく四十代半ばで……言われてみればたしかに、クライヴとどこか顔立ちが似ているかもしれない。髪色だって同じだ。

 表情がまるで違うので、今まで全く気が付かなかった。


 ヘザーは驚きで震える人差し指を、プレートに向けた。

「クライヴ……あのさ、ライダーって?」

 ああ、と答えたクライヴは、少々気恥ずかしそうに視線を落とした。


「そういえば、言っていなかったな。養子に入る前の、俺の旧姓だ」

「旧姓……」

「うん。ここでフリーリングなんて名乗れば、伯爵家の血縁者だと、すぐに気付かれる。そう思われたくなかったから、この名前を使ったんだ。自分でも、意固地だとは思うんだが」

「ううん。オレも、こっちの方がいいと思う」

 じわじわと、ヘザーの頬が熱くなる。


 つながった。監督自身が愛してやまなかった作品に。

 まるで彼女のやったことを、天国の監督も認めてくれたようだった。

 内側に喜びや興奮が、溢れかえって来る。


 黙って探偵事務所のプレートを見つめるヘザーに勘違いしたのか、クライヴは少々気まずそうに早口で続けた。

「体力には自身があるし、妙なものも視えるから、何かできないかと思って始めたんだ。念のためアメリカの探偵社で、修行もして来た。ただ正直なところ……事業としては現状、いまひとつ伸び悩んでいる。ああでも、君の賃金はもちろん保証するし――」

「心配なんてしてねぇよ」

 彼の弁解を、穏やかな声で遮った。


 そして、少し潤んだ瞳で、優しく彼を見つめる。

「アンタは絶対成功する。オレが保証する」

「そ、そうか?」

 頬を赤らめた彼女からまっすぐに見られて、クライヴの頬も赤くなる。次いで、ぎこちなくはにかんで、うなずいた。

「いや、うん、そうだな。成功させよう」

 彼の照れた笑顔に、ヘザーもほころぶような笑みを返した。


 これから二人で作る未来が、映画通りになるとは思っていない。

 なにせ『アビス』という檻をぶっ壊した前科、いや前例があるのだ。


 だが彼と二人ならば、映画よりもずっと楽しいこれからを作れると。

 ヘザーはそう、確信していた。

 そしてその確信はきっと、現実になる。

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