どこかのアニメの主題歌にもなっているように、悪魔の耳というものは地獄耳であるので。
「全く……可愛がって飼ってやっていたというのに、女というモノはとんだ恩知らずの駄犬であるな」
温室にいないはずの人物の、傲慢な声がどこからか聞こえて来た。
ヘザーとシェリルを背に庇うクライヴと、油断なく両こぶしを構えるヘザーが周囲を
すると枯れた花の鉢植えから、ドロドロとした黒い煙が沸き上がり始めた。
「ひぃっ!」
煙初体験のシェリーが、思わず喉を引きつらせる。
ヘザーはすっかり見慣れたので平然としており、同じく見慣れているはずのクライヴは、そもそもの根っこがビビリであるため、やっぱり今日も青ざめていた。
三人が見つめる中、煙は人の形を取り始める。
現れたのはもちろん、先ほどの声の主であるダニエルだった。シルクのパジャマ姿なので、威厳は半減だが。
相も変わらず、ド派手な杖で身体を支えている彼の指には、なるほどシェリーの証言通り指輪がはめられている。
きっとあれこそが、本体なのだろう。
「愚かな弟に、愚かな女……ワシの周りは愚か者揃いだとは思わんかね、小娘よ?」
もちろんその挑発に全乗りした上で、コテンパンに返してやるのがヘザーの流儀である。
「そりゃあ上司がクソだったら、部下が育つワケねぇじゃん。全部テメェの責任だよ」
ヘザーも不敵に応酬しながら、クライヴの背中から抜け出て、素早くダニエルへ距離を詰め――ようとした体が、途中で思い切り右に傾いた。何かに腕を取られたのだ。
そのまま倒れ込むのを寸前で堪えて、引っ張られている右腕を見ると、無数の亡者が巻きついている。
「ヘザー!」
おぞましい光景に、クライヴが震えながらも彼女の名前を叫んだ。
巻きつく死霊どもは、ヘザーのワンパンで沈む黒い影たちとは違う、それぞれ生前というか死に際のむごたらしい姿を残した格上連中ばかりだった。
死霊たちは更にヘザーを取り囲むようにして、地面から際限なくあふれ出た。
そして、あっという間にヘザーの全身にまとわりついた。特に四肢を拘束されているため、不格好に傾いたまま、彼女はまともに動くことすら出来なかった。
「死にぞこないが触んじゃねぇよ、クソったれ!」
それでも悪態を忘れず、もちろんあがくことも忘れないヘザーに、ダニエルは愉悦に満ち満ちた笑みを向けた。
「いいか、小娘よ。落ち着いて聞くがいい――お前への仕置きとして、今からこの二人を殺す。それはもう、むごたらしくな」
「お前が余計なことをしなければ、こやつらは死なずに済んだのだぞ? 哀れだなぁ、悲しいなぁ……今後の反省として、その様を、よぉぉーく目に焼き付けるがいい」
舌なめずりするダニエルの粘ついた口調に、本気の殺意が垣間見えた。
ヘザーはもがきながらも体を捻って、クライヴへ叫ぶ。腕と足の痛みなど、この際お構いなしだ。
「逃げろ、クライヴ! シェリーさん連れて、早く逃げろッ!」
叱咤するような彼女の大声に、震えるばかりだったクライヴがハッと顔を強張らせる。
彼の足が、温室の出入り口に向かいかける。
が、すぐに踏みとどまった。
――クライヴの半生は、逃げてばかりだった。義父からも、義母の死からも、義兄の変貌からも。そしてこの屋敷そのものからも、逃げ続けていた。
いつだってすぐに逃げ出す彼に、義父と、その跡を継いだ義兄は「役立たず」の烙印を押した。
「役立たずなりに、たまには役に立て」
そんな風に
第一印象は「とんでもない美少女なのに、とんでもなく残念な娘」であった。
先ず何より口が悪い。そして態度も悪い。
だが、義兄が絶賛する通り、頭はそう悪くもなさそうだった。
自己評価も適切で、なおかつ修道院の運営状況を
現実的な性格は、少しだけ好ましく映った。
屋敷で再会した際にも、おおむね印象は変わらなかった。
「怒らせると、目つきもめちゃくちゃ悪い」という、マイナスの追加情報はあったけれど。あれは
しかしクライヴは、この奇妙な少女が嫌いになれなかった。
少女は細い見た目に反して軽々と薪を割り、同じ調子で死霊や異形を粉砕する。おまけに怪光線も放射する。
しかも羞恥心が希薄な割に、
自分の中に、こんなにも図々しく居座っているのに、不快感を覚えない程にいい子で。
正直に言えば、惹かれている。
そんな少女――ヘザーが、自身も危機にさらされているというのに、クライヴに逃げることを許した。
(だが、本当に逃げていいのか? そんなことは紳士――いや、男として最も恥ずべき行為だ)
心を寄せている女性を、見捨てるなど。
足が、再度ダニエルたちに向き直る。
(俺には彼女のような勇敢さは、ない。だが戦場で死地を切り抜けた、この体と悪運がある)
だから、逃げるのは今日でおしまいだ。
震えの止まった手をグッと握り、浅くなっていた呼吸を整え、背筋を伸ばす。
そして、シェリーの背を押して隅に逃がしながら、ヘザーの藤色の瞳を真っ直ぐ見つめた。
こんな時でも彼女の綺麗な瞳には、闘志が灯っている。これならきっと、自分がいなくてもシェリーを守り、生き延びられるだろう。
「すまないヘザー。その頼みばかりは、聞けない」
そう優しく笑って拒んだ彼は、温室の棚に放置されていた、埃まみれのサーベルに手を伸ばした。
「ばっ、やめ……逃げろよ!」
涙声混じりの怒声をヘザーが上げる中、クライヴの足元からも亡者が噴出した。
すぐに彼の姿が、覆い隠される。