ほぼ要介護者の状態のまま、おぼつかぬ足取りで、クライヴに誘導されて会場に戻ったヘザーだったが。
あまりにも心ここにあらずだったためか、ダニエルからも、自室へ戻ることがあっさり許された。
悪魔サイドも、
そうしてフラフラと、クライヴとティナに支えられながら部屋に戻り、ぽわぽわと泡風呂に浸かりきっていた。
風呂にでも入れば気持ちも仕切り直せるかと思いきや、相変わらず思考はロマンティック街道を爆走中である。
「どこにあんだよ、オレの乙女スイッチはよぉ……」
背中をすぼめた三角座りの体勢で、歯ぎしり混じりにうめく。学生時代、己のやる気スイッチを一度も押せなかった高田に、乙女スイッチを探し当てることは難問かもしれない。
であれば、乙女スイッチが自然とオフになることを待ちながら、思考にクライヴが混ざらないよう、意識的に追い出しにかかる。
出来るだけ、思い出さないようにするのだ――初対面時の悪意満点顔と無愛想な態度や、晩餐時に甲斐甲斐しく助け起こしてくれたことも、伯爵の義弟であるにもかかわらず率先して肉体労働を行う勤勉さも、怪異に怯えながらも独力で生きる道を選んだ生真面目さに、そしてダンスの時にやっと見せてくれた笑顔なんて、本当に素敵で――
「ぅああああああ! もうぉぉーッ!」
再びクライヴ沼に両足どころか、腰辺りまでずっぽりはまっていると気付き、頭を抱えて絶叫した。
次いでヘヴィメタルよろしく、激しくヘッドバンキング。
「いやもう、ほんといいから! アイツのことはいいから! オレ、どうなってんのッ? ってかこれは、ヘザーが惚れっぽいのか? それともオレが惚れっぽいのか? そういやオレ、めちゃくちゃチョロいって言われてたかもなぁ、うん! じゃあオレのせいか! あーあ、オレってほんとバカ!」
最終的にヤケになり、笑うしかなかった。
のけぞり大声で笑えば、軽い徒労感を覚えた。おかげで桃色思考よりも、睡魔が優勢に立ち始めた。ようやく体からも力が抜け、ずっと丸めていた背中をバスタブに預ける。
が、背中に触れたのは陶器のつるりとした感触ではなく、もっと柔らかいものだった。柔らかく、しかしぬめっている。
感触に覚えた違和感を、脳が言語化するよりも早く、ヘザーは跳ねるように立ち上がってバスタブを飛び出す。そして振り返った。
つい先ほどまでヘザーがうずくまっていた浴槽には、彼女の他にもう一人――いや、もう一体座っていたのだ。腐敗した肉を晒す、半裸の男の霊だった。
ぬめりを感じたのは、腐って溶けて、体液のにじむ男の胸元に触れたかららしい。
生理的嫌悪感を催す事実に、先ほどまでヘザーを悩ませていた乙女スイッチは一斉消灯した。
同時に灯るのは、
「男とキスしたこともねぇ女の子の入浴にお邪魔するとは、ずいぶんと遠慮がねぇんだな」
ヘザーの「絶対殺す」な闘志を、この現状に怯みまくっている肉体の記憶や道徳心も、諸手で歓迎していた。
泡まみれではあるものの、芸術作品もかくやの裸体を堂々と晒して仁王立ちする彼女に向かって、ゾンビ風の男はニヤニヤ笑いながらゆっくりと立ち上がった。
顔も半壊状態だと言うのに、美少女の裸でやに下がっているのは明らかだ。
「オレの裸を見て、タダで死ねると思うなよ?」
湯船からのそりと出て来て、ニタニタと覆いかぶさろうとする男に、一度中指を立ててから。
すっと腰を落とし、あごめがけてのアッパーを決める。
のけぞりはしたものの、しかし男は消えない。まだまだ余裕らしく、すぐに踏ん張り直し、こちらも低い体勢に入る。どうあっても、ヘザーを押し倒したいらしい。生前は変質者だったに違いない。
「死んでんのに、そのガッツだけはすげぇよ、マジで」
イノシシのごとく突っ込んで来る男を軽やかに避けつつ、ヘザーは壁に吊るしてあったガウンを掴む。ポケットをまさぐり、何かを取り出すと、ガウンは男目がけて放り投げた。
ふわりと広がった朱色のガウンが、男の視界を奪う。
無様にたたらを踏みながら、自分にまとわりつくパイル生地をひっぺがした先で待っていたのは――
「これ、なーんだ?」
ロザリオの先端に付いた、小さな十字架だった。それを認めてびくり、と男の体が固まった。
ヘザーが幼少期から愛用しているロザリオを突き付けられ、腐って土気色の男の肌が更に血の気を失った気がした。
だが、もう遅かった。
男が逃げる間も、避けようとする間もなく、光り始めた十字架が黄金の光線を豪快に放つ。
そしてやっぱり、特撮モノの怪人のようにド派手に爆発するのであった。相変わらずのいい爆破音に、「ここが採石場ならば完璧なのに」と両手で顔を庇いつつ、ふと思ってしまう。
「あ、ヤベ」
残念ながらここは、採石場はもちろんのこと、最初にアーメンビームを放った伯爵夫人の部屋よりも小さな浴室なので。
爆破の余波で、あちこちが大変なことになっている。タイルが割れ、バスタブの一部が破損し、鏡にもひびが――簡潔に表すならば、大惨事だ。
男が持ったままだったガウンも
「まいったな、体も拭けねぇじゃん」
相変わらずしっとりしたままの髪をかき回し、小さくため息。びしょ濡れのまま、諦めて部屋に戻るしかないようだ。
念のためひびの入った鏡で背中を見るが、腐った肉や謎の汁が付着した様子はなかった。まあ、所詮は幻と同程度の存在ということらしい。
些細なことにホッとしつつ、シャワーで全身の泡を洗い流す。
そしてドアに手を掛けようとするが、その前にひとりでに開いた。
先の爆発音で、ティナが心配して来てくれたのかもしれない。これはありがたい。
「ヘザー、大丈夫かっ?」
と思ったら、現れたのは強張った表情で、かすかに息の上がったクライヴであった。
まさかのラッキースケベ事案に、二人は目が合った途端、石と化した。