反応を見る限り、周囲の参加者に黒い影は視えていないようだが。
それでも、人ならざる者が近くにいることを、本能が察して警戒するのか。
奴らの進行方向から皆、示し合わせたかのように遠ざかっていく。
あっという間にヘザーとクライヴは、異形たちに囲まれていた。
劇中に現れたのは五体程度だったが、その二・三倍はいそうである。
「これは、一体……」
ただでさえ陰気なクライヴの表情が青ざめ、死体一歩手前の有様である。このままではまた、生まれたてのヤギあるいはシカになってしまう。ヒツジかもしれないけれど。
「へぇ。こりゃまた、ずいぶんと来やがったな」
対するヘザーの藤色の瞳には、ギラギラとした闘志あるいは殺意が灯っていた。
そっとクライヴの首に腕を回し、耳元に顔を寄せる。
艶やかな唇が、彼へささやく。
「せっかくだ。踊りながら、連中にヤキ入れてやろうぜ」
「えっ?」
かすかに目を見開いたクライヴと、ヘザーの瞳がかち合った時。
今まで踊っていたワルツから曲調が一転、情熱的でテンポの早いタンゴに変わった。
重ねたままのもう片方の手を、ヘザーが一度ギュッと強く握る。
「アンタのリードで、連中に近付いてくれよ。オレが蹴散らしてやるからさ」
「いやっ、ちょっ、それは――、おいヘザー!」
彼の裏返った声を置いてけぼりにして、ヘザーが大きくステップを踏んだ。
彼女はクライヴを半ば強引に振り回しながら、周囲を取り囲む黒い影に肉薄。
そして好戦的かつ扇情的な身のこなしで、容赦なくぶちのめしていく。
高いヒールをものともせず、優美にターンしながら裏拳で。
クライヴの体に足を絡ませつつ、蹴り飛ばし。
そして彼に支えられながら、腕を伸ばして大きくのけぞる仕草と同時に目潰し。目があるのか分からなかったが、相手は消滅したのでよしとしよう。
もちろんヒールで、踏みにじる技も忘れない。
彼女の踊りは全くもって、令嬢の規格から大きく逸脱していた。
いや、逸脱以前に令嬢という枠にそもそも入る気すらなさそうだ。
しかし色香も魅力も力強さも、全てを開けっぴろげに魅せつける彼女に、周囲は呆気に取られながらもますます魅了された。
最初は彼女の奔放さで後手に回っていたクライヴも、徐々にリズムに乗り始め、ついには軽やかなステップで上手くヘザーを誘導するようになった。
そうする内に彼の表情がほぐれる。軽々とヘザーをリフトして、回し蹴りをサポートした。
ヘザーにかすり傷すら負わせられず、どんどん消滅していく影たち。
一方、連中を倒せば倒すほど輝く笑顔になる彼女と目が合い、クライヴはとうとう破顔した。
「はははっ! 君は本当に、無茶苦茶だな」
「なっ、急に、なんだよ……」
「すまない」
言葉では謝りつつも、笑顔に甘さが混じる。
「俺が長年怯えていた連中を、君が軽々と消し去っていくのが、ついおかしくてな」
同時に二人の踊りも、ますます息が合い、そして熱を帯びた。
クライヴの満面爽やか笑顔を至近距離で見つめ、踊りで火照っていたヘザーは脳内も沸騰。クラクラと、
夢心地状態でも、もちろん敵への攻撃には容赦も隙もない。
そうして最後の一体に肘打ちすると同時に、曲が終わった。
黒い影が一掃されたダンスホールに響き渡るのは、割れんばかりの拍手と歓声だった。
まだ跳ねるような呼吸のまま、ヘザーとクライヴは見つめ合う。いつもは深く陰鬱な彼の瞳も、今は夏の森のようにキラキラしている。
――と、踊りの余韻で、整えていたはずの彼の前髪が崩れていた。ヘザーがくすりと笑って、その髪をそっと持ち上げる。
額に触れる、彼女の指の感触に目を細めたクライヴが、顔を近づけた。
ヘザーも無意識に目を薄く閉じ、彼を待つ姿勢に入る……ギリギリ寸前で、なんとか我に返った。
「まっ、前髪ぐらい、てめぇで上げろよな!」
「いてっ」
思わず彼の眉間に手刀を打ち込み、慌てて距離を取る。
顔面への痛打で、クライヴも思い切り
「……すまない。本当にすまない、どうかしていた」
「おお、いや、オレもなんか、のぼせてたし、うん……」
先ほどまでは悪意百パーセントだった周囲の視線が、妙に生暖かい――どころか超優しい気がするのだが。
頼む、頼むから気のせいであってくれ。自意識過剰であってくれ。
彼らをにらむ気概なんてごっそり失われていたヘザーは、とぼとぼと、ダンスホールの窓側に設けられたバルコニーへと足を向けた。
「オレ、汗かいたからちょっと、外で涼んで来る」
そこはかとなくしょんぼりする華奢な背中に、一瞬躊躇しつつも、クライヴは声を掛けた。
「あ、ああ、分かった。飲み物を取って来るから、そこで待っていてくれ」
「おおー」
ここで無視するのも申し訳ないと思い、背中を向けたままではあるが、右こぶしを上げて返事をする。
しかし顔は見れなかった。
先ほど初めて知った、彼の甘やかな笑顔がまだ、脳裏に焼き付いていた。
今、下手にクライヴを見ようものなら、何か口走ってしまいそうで怖い。
たとえば「素敵」や「カッコいい」など。
言ってしまったら最後、ヘザーはその場で日本男児らしく
いや、現在の肉体はイギリス女児 (という年齢でもないが、便宜上女児とする)なので、もっとイギリスらしい死に方を考えるべきだろうか。