本来であれば、あれやこれやの怪奇現象でヘザーが疲弊・孤立し始めた頃に、彼女のお披露目パーティーが開かれる。
「内輪の人間に君を紹介する、食事会のようなものだ。そう気負わずに出席してくれたまえ」
という養父の言葉を真に受けた(もしくはストレス過多の頭では、まともに思考できなかった)ヘザーはのこのこと、食事会という名の舞踏会に出て行き、赤っ恥をかく羽目になるのだ。
ダンスも出来ずに参加者から軽んじられた彼女は、泣きそうな表情を浮かべて壁の花になり。
そこに五体ほどの黒い影が現れ、傷心中のヘザーを無情にも追い回すのだ。この時のヘザーは半泣きどころか、大号泣である。
しかも逃げた先の回廊で、酔っぱらった男性客二人組に出くわした挙句、無人の休憩室へと連れ込まれた。
二人がかりで押さえつけられ、ドレスを破られ、あわや凌辱されかけるのだ。これは男である高田も、非常に落ち込む展開であった。
ヘザーの貞操は寸前のところで、彼女を探しに来たシェリーによって守られたものの。
残念ながらヘザーの精神状態は、ここで一気に悪化していく。
現実の風景に時折悪霊が紛れ込んで来ていた世界に、更に幻覚・幻聴も混ぜられるのだ。もはや何が本当なのか、彼女には分からなくなっていく。
ちなみにそんなヘザーを省みず、終始ぞんざいに扱う義兄の態度に、クライヴが不信感を覚えるきっかけとなる出来事でもある。
そして現実でも。
「ヘザー。君もそろそろ、この家にも慣れて来たであろう? なので来週、君のお披露目パーティーを行おうと思ってね。なに、内輪の人間に君を紹介する、食事会のようなものだ。そう気負わずに参加してくれたまえ」
とある晩餐の席で、ダニエルがそう提案した。
ヘザーがアーメンビームを何故かぶっ放せた日から、実に十日後のことである。その間ダニエルは体調が
久々に顔を見せやがったと思ったら、この爆弾投下だ。
(けっ、やっぱり来やがったか)
ヘザーは舌打ちを寸前で我慢しつつも、半ば諦めの境地ではあった。
この十日間、伯爵令嬢として施された教育は、非常にゆるーい内容のものが毎日二時間程度だけだった。これこそがゆとり教育であろう、と勉強嫌いのヘザーですら思ったほどに。
よって彼女は有り余る自由時間を、有意義に活用していた。
クライヴと薪割りをしたり、ティナと屋敷を探検したり、シェリーに使用人を紹介してもらったり、彼らの仕事を手伝ったり、クライヴやロイドとカードやボードゲームで遊んだりと、かなり悠々自適に過ごしていた。
正直、めちゃくちゃ楽しかった。
楽しかったのだが、所詮は『アビス』という檻の中である。鬱イベントもあるに決まってるよねクソッタレ、という心境による
ヘザーの中身が高田になったところで、ダンスが踊れないことに変わりはない。
一応ブレイクダンスならそれなりに出来るが、ドレス姿でブレイキングしようものなら、周囲の空気もブレイクしちゃうという道理ぐらいは理解している。
ガワはヘザーなので、それなりに羞恥心もあるし。
なので今度は、正々堂々と雄々しく壁の花になり、近付く黒い影は片っ端からニーブラしてやろうと意思を固め――
「兄上。でしたらヘザー嬢のダンスの練習も行いましょう」
ついさっきまで、あまりにもポーカーフェイスが下手過ぎて、トランプでヘザーとロイドのカモになっていたクライヴから、まさかの提案があった。
これにはヘザーと、ついでにダニエルも目をむく。
両者「なんで?」という疑問が丸見えだ。
「え、なんで練習すんの?」
実際、ヘザーは口に出して訊いた。
彼女の斜め前に座るクライヴは、白身魚に刺しかけていたナイフを皿の縁に載せ、彼女を見る。
「近しい関係者へのお披露目とはいえ、貴族が外部の者を招いて行うパーティーである以上、ダンスは不可欠だ。そして君はその主役なのだから、当然踊る義務がある。しかし兄上はこの体だ、君と踊ることは難しい。ならば兄上の
「お、おお……」
長ったらしい説明ではあるが、やはり彼の思考は理路整然としている。
つまるところ、どうせ踊らされるのだから健康な俺と練習しようぜ、ということだった。
(ほんとコイツ、いいヤツだよなぁ。そこまでしなくていいのにさ)
家の名誉のためと言っているが、ヘザーを見つめる深緑の瞳には気遣いもある。だからきっと、本心は彼女が軽んじられないための練習なのだろう。
そこまで察して、不覚にもヘザーはキュンとした。頬も色づく。
これは肉体につられての、異性に対するときめきなのだろうか。
(たしかにクライヴは根暗で嫌味だけど、優しいし顔もカッコいいし、たまに情けねぇってか抜けてるとこもすて――いやいやいやいやッ! ダメだから、それだけは絶対言っちゃダメだから! オレ何考えてんのぉッ?)
完全に思考が乙女ロードへ舵を切ってしまったので、こっそり太ももをつねって、自制をかける。
己の中の、二分の一の純情をふんじばりつつ、考える。
ここで踊りを習得しておけば、ダニエルのみならず、実父のような偉ぶったお貴族サマ連中の鼻も明かせる。おまけに、黒い影や酔っ払いコンビとの遭遇という、胸糞悪い出来事も回避できるかもしれない。
なにより高田は、運動が大好きだった。
だから頬を手で仰ぎつつ、ぺこり、とクライヴへ頭を下げた。
「それじゃあ練習頼むよ、クライヴさん」
「ああ」
キリリと良い顔で、クライヴもうなずく。だから、イケメンの安売りをしないでくれ。
一方のダニエルはこっそり歯噛みしていた。
ダンスのことには一切触れずに、当日ヘザーにドッキリをかました上で、使役霊たちに襲わせるつもりだったのだ。
また招待客の中には、酒と女にだらしない男も複数名混ぜているし、彼女が「男性と遊ぶのが好きかもしれないよ」という推測も伝えている。
そう、あくまでも「推測」であり、これは世間話の一環だ。
こうして丁寧に根回しして、実際彼らにヘザーが汚されれば万々歳、と思っていたのに。思い切り出鼻をくじかれたのだ。
だが良き伯爵として振る舞う以上、クライヴの提案に否を下すことは出来ない。
ただでさえ、小娘は愚弟どころか屋敷中の人間と打ち解けているのだ。
家令やシェリーらから
「ヘザー様は多少自由奔放ではありますが、お美しいうえに屈託のない、素敵なお嬢様ですね」
「それにとても気遣いの出来る方です。言葉遣いはいささか荒っぽいままですが、いつでもわたくしたちを
と褒め言葉を聞く度に、微妙な気持ちになっているのだ。
ここでクライヴを突っぱねれば、要らぬ
下手すればヘザーと愉快な仲間たち vs 自分という、思惑と真逆の構図になりかねない。
だから何とも力の入りまくった笑顔で、
「それはいい提案だね。クライヴ、彼女の指導を頼んだよ」
と、ざらつく声で言うのであった。
そして幸か不幸か。
あからさまに不承不承と言いたげな声と表情に、いつでも彼の傍らに控えるシェリーが、怪訝そうに細い眉を寄せていることに、ダニエルが気付くことはなかった。